純粋ツチヤ批判 (講談社文庫)

 「大のオトナが褒め続け褒められ続けた4ヶ月で得たこと。」(http://rucca-lusikka.com/blog/archives/4604)という記事を読んだ。非常におもしろい記事なので、ぜひ読んでみてほしい。お奨めである。

 この記事では「手放しで褒めること」の効用が語られている。一切の批判のない全面的な肯定、称賛によって得られた関係には「毒」や「悪意」が混じらない。そういう関係はひとへの好意を生み、自然と長く続いてゆく、といった内容だ。

 たしかにぼくたち日本人は普段、あまり面と向かってひとを褒めることをしないかもしれない。褒めるにしても、「でも、ここはもう少し努力したほうがいいよね」などと、いわずもがなの批判を付け加えてバランスを取ろうとする。

 一切の不純物を混ぜない称賛は、ぼくたちの文化にはあまり根付いていないようだ。それどころか「面と向かって手放しで褒めることは良くない」という常識すらあるかもしれない。

 ひとつには、手放しの称賛には追従の気配がただようからだろう。ひとにだらしなく媚びへつらうことは良くないという考え方が、ひとを無条件に褒めることはいけないという思想と混ざりあっているのだ。

 もうひとつは「相手のためを考えるなら批判もしなければならない」と考えるからだと思われる。ひとを褒めようと思うときも、ぼくたちは「手放しで褒めてはいけないのではないか」「少しは批判しないと相手のためにならないのでは」と考えがちだ。

 たぶんその背景には「手放しの称賛はひとを堕落させる」という思想がある。あまりに全面的に誉められると、そのひとは増長して自分の欠点が見えなくなり、結果として損をするのではないか、と考えるわけだ。だから「相手のためを思って苦言を呈する」という発想に至る。

 この発想にはもちろん一理がある。たしかにいつも称賛ばかり受け取って批判を無視しつづけていたらそのひとは堕落してしまうかもしれない。批判を受けいれなければならない局面はあるし、そういうとき直言してくれるひとには感謝しなければならない。

 しかし、この理屈には一定の限界があることもたしかだ。この理屈でいうと、どこまで行っても「条件付きの称賛」しか与えることができなくなってしまう。そして「条件付きの称賛」とは本物の称賛ではないのである。無条件の肯定だけが伝えることができるものがある。「無条件の賞賛は良くない」と考えるかぎり、ひとにそれを伝達することはできない。

 それにしても、なぜぼくたちはこうも「批判」に価値を見いだすのであろうか。ただ自分が批判しなければならないというだけではなく、「批判された相手」もまた積極的にそれを受けいれないといけないとまで思うのだろうか。