兵頭新児さん のコメント
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自分も同類だからそう思うのかもしれないが、オタクとはつくづく幸せな人種だと思う。
この場合、「オタク」とは何かしらの熱烈な趣味を持っているひとというほどの意味。なんであれ好きなものがあるひとは幸福だ。その主観を通じて、世界にふれた実感を得られる。
それがチェスであれ、紙飛行機であれ、ライトノベルであれ、同じこと。ひとつの「好き」から、好奇心の旅はどこまでも続いていく。
多くのオタクたちが「リア充」にあこがれ、うらやんでやまないことは事実である。しかし、ほんとうにリア充的な生き方だけが幸せなのだろうか。
ぼくには、なんであれ夢中になれるほど好きなものがあって、それに熱中して日々を過ごせるオタクの生き方も十分に幸福なものに思える。むしろ、かれらこそがほんとうに恵まれた人種なのではないだろうか。
仮に「リアル」が不遇だとしても、空想の世界で羽をのばすことができるなら、一概に不幸とはいえないと思うのだ。
こう書くと、すぐさまつよい反論が返ってくることが予想される。オタクは不幸で、可哀想で、恵まれない人種なのだ、なぜならオタクはいまだに高い社会的評価を得られないからだ、女の子にもモテないし世間からは後ろ指を刺される、そんなオタクのどこが幸せなのか、と。
だが、ぼくにいわせれば、そもそも社会的評価を必要とするようなひとはたいしてその趣味を好きではないのだ。ほんとうに好きなら、世間がなんと非難しようと、自分の愛を貫くことができるはずだ。
もちろん、よく知りもしないひとからああだこうだといわれることは不快である。余計なお世話だと思う。とはいえ、それはどうでもいいノイズ。それで「好き」という指標が揺らぐわけではない。
ほんとうに好きなものがあるひとは、その対象から無限の快楽をひき出すことができる。だから、傍目には不遇でも、かれは十分に幸福だし、満たされているのだ。
そういう幸せなオタクのひとつの典型をみせてくれる漫画がある。はるな檸檬『ZUCCA×ZUCA』である(http://www.moae.jp/comic/zuccazuca)。
この作品のなかでは幾人かの宝塚ファンの女性たちの、どうみても幸福としか形容しようがない日常生活が描かれている。
彼女たちの人生はほぼ宝塚に占領されており、ほとんどそれ以外の要素を必要としていない。素敵な恋人だの、充実した仕事だのは、宝塚という趣味の付属物であるにすぎないようだ。
ここにおいて、趣味は完全に趣味であることを超えている。それは人生そのものであり、自分をいまより高いところへ連れて行ってくれる道標なのだ。
たかが演劇、と思うひともいるかもしれない。そういうひとは、残念だが、趣味がもたらす歓びを理解できないひとたちである。ほんとうに熱烈に何かを愛しているひとは、決して他人の趣味につばを吐いたりしない。
ぼくもそういった人間のひとりだ。ひとはくだらない遊びに夢中になって、人生を踏み外した哀れな男と思うかもしれないが、ぼくはいま、十分すぎるほど幸せである。
しかし、一方でたしかにまるで幸福にはみえないオタクもいる。しょっちゅうまわりに愚痴と悪口ばかりいっているような人々のことだ。
そういうひとは大抵、自分の趣味を自分で貶める。自分もたくさんアニメをみているくせに、ひとがアニメに夢中になる姿をみてあざけり笑ったりする。
ぼくは以前からふしぎだった。そこまで熱心になれる趣味があって、その上、何が不足だというのか。オタクとは幸せな人種だというぼくの前提が間違えていたのだろうか。もちろん、どんなディープなオタクも私生活では色々あるに違いないけれど、基本的にオタクはその趣味から大きな歓びを得られるはずなのに。
しかし、最近になってようやく気づいた。たぶんそういうひとはオタクを名乗り、自分でもオタクだと思っていても、たいしてその趣味を好きではないのではないかと。
あるいは、かれはその分野(たとえば深夜アニメ、たとえばソーシャルゲーム)について、でたらめに深い知識を持っているかもしれない。
いまでは膨大になりすぎてとても追いかけられそうにないテレビアニメを片っ端から見ているとか、そういう人種であるとも考えられる。だが、だれよりもアニメをたくさん見ているのに、実は少しもアニメを好きではないというひともありえる。
こういうひとたちはたしかに幸せではないかもしれない。これらの人々はそもそもぼくがいう「オタク」ではない。べつだん知識とか技術の問題ではなく、その心理において違うと思う。
あえていうなら、かれらは「仮面オタク」である。オタクでもないのにオタクとしてふるまっているひとたち。たいして好きでもないのに好きなふりをしている人々。
そんな人間がありえるのかと思われるかもしれないが、ありえるのだ。ありえるとしか考えられないのである。それでは、かれらはなぜ、それほど好きでもない趣味と労力に時間を費やすのか。
ここから先は想像になるのだが、それはつまり「何も好きなことがない」という状況に耐えられないからではないだろうか。
かれらにしても、ほかに何か好きなことがあれば、当然、そちらに時間を使うだろう。
しかし、そもそも何ひとつ好きなものがないひともいる。そういうひとは、大半が何か飛び抜けた個性を持っているわけでもないので、自分の殻を打ち破ることがむずかしい。
ひとから蔑まれもしないかわり、さほど興味を持たれることもない、そういうポジションを抜け出すことは簡単ではないのだ。
だが、そんな「何も好きなものがないひとたち」でも、アニメを見ることくらいはできる。それを本心から楽しむことはむずかしいにしても、とりあえず見て、ああだこうだとネットで雑談に興じることくらいはできる。
それだけでたぶん、何らかのコミュニティに所属できた気分にはなれるだろう。つまり、かれは「居場所」を得ることができたのだ。
それだけなら、何も悪い話ではない。べつに深い愛情と関心がなければアニメを見てはいけないなどというルールはない。とはいえ、やはり好きでもないものを好きだと思い込んでいるわけだから、自然、どこかに歪みは出てくるはずだ。
それが、おそらくはとめどなくあふれだす愚痴や悪口なのではないだろうか。ひと口に愚痴といい、悪口といっても、ある程度はふつうのことである。
何ひとつ愚痴をいわないひとのほうがめずらしいこともたしかだろう。悪口にしても同じこと。好きだからこそ批判したくなるという心理もある。
が、それが一定のラインを超えているようだと、やはり「仮面オタク」のサインということが考えられる。なんであれ好きなものがあるひと、つまりオタクの日常は、その好きなものによって充足している。
仕事が辛いとか恋人と別れたといった不幸が払拭されるわけではないにしろ、好きなものがあるということは豊かなことだ。それは『ZUCCA×ZUCA』の宝塚ファンたちを見ていればわかる。
しかし、そもそも好きなものがないひとは、一見、オタクであるように見ても、本質的なところでその充足を知らない。だからかれらは必然、攻撃的になり、立場の違う人間をののしってやまない。そういうことなのではないだろうか、といまは思う。
> あえていうなら、かれらは「仮面オタク」である。オタクでもないのにオタクとしてふるまっているひとたち。たいして好きでもないのに好きなふりをしている人々。
との評も成り立つでしょう。
が、この評で仮想されている「仮面オタク」は何故、「好きでもないのに好きなふりをしている」のか。全く説明がありません。
居場所を得たいならば、一般的な趣味に居場所を見いだせばいいことでしょう。
実はもう三十年ほど前に、評論家の大塚英志さんは「オタク界がダメ人間の受け皿から、漫画などで秀でた成功者と、そうなれなかった者を二分する格差社会と化した」という現実を喝破していました。
あなたが「仮面オタク」だと断ずるそのほとんどは、この業界以外に行き場がなく、しかしここでも幸福になれなかった者なのです。
そうした人たちにこのような言葉を投げつけるのは、ホームレスに対し「駅構内に対する愛が足りぬ!」と絶叫して火炎放射を浴びせるような行為でしょう。
いや、これは比喩であり、別にあなたが言う「仮面オタク」にオタク文化に対する愛がないわけでは、実は全くないのですが。
>だが、ぼくにいわせれば、そもそも社会的評価を必要とするようなひとはたいしてその趣味を好きではないのだ。ほんとうに好きなら、世間がなんと非難しようと、自分の愛を貫くことができるはずだ。
と言うに至っては噴飯物という他ない。もしあなたが例えばホモに対しても同じ言葉を投げつける「勇気」を持つのであれば、(リクツに賛成はできないまでも)一貫しているとは思いますが。
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