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【ひとを縛る想い】
最近――でもなく、以前からずっと「自己憐憫」とか「怨みや呪い」について考えています。
ひとはなぜ、自分を哀れんで地獄に落ちるのか? 自分より幸福そうに見えるひとを怨んで呪うのか?
ぼくにはそうすればするほどによりいっそうそのひとの境涯は辛くなっていくように思えます。
たしかに、この夜はまったく平等ではない。イケメンの奴もいれば不細工の奴もいる。金持ちの奴もいれば貧しい奴もいる。それが現実。
社会システムがどれほど「機会の平等」を整備しても、「結果の平等」を保証することはできません。
人間が人間であるかぎり、何らかの格差は存在しつづけるでしょう。それは「個性」を云い換えたものに過ぎないのですから。
一切の格差がない社会とは、一切の個性が認められない社会です。ぼくにはそれはひとつのディストピア(反理想郷)であるように思えます。
社会システムにできることは、一定のセーフティネットを用意することと、「機会の平等」を実現するくらいで、格差そのものを消滅させることは不可能なのです。
たとえば美容整形が進歩すればいまより容姿の格差はなくなるかもしれません。しかし、その社会でもセンスあるルックスを選ぶひともいれば、いまひとつ平凡な容姿に終わるひとも出て来るでしょう。
どこまで行っても恵まれた者と恵まれない者はおり、「怨み」や「呪い」が消え去ることもないのです。
しかし、ほんとうにひとは自己憐憫とルサンチマンのなかでしか生きられないのでしょうか?
【孤独な独裁者】
自分だけが可哀想だと思っている価値観、自分こそが世界一可哀想な悲劇の主人公でなければならない考え方とは、ようするに
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格差が無くすのは無理だが人は自己憐憫とルサンチマンの中でしか生きれないのか。
いや世界を正しく認識して奇跡と思うなり変えるなりすればいい。
世界は地獄かもしれないが「緒」を切りたくはないという「想い」だけはのこる。
誰の人生もオリジナルで素晴らしい、どんなに苦しかろうが美しい。
自分は一度だけの「この時」で誰かとつながっていたい。
という主張だと捉えて部分的に反論したいと思います。
まず海燕さんの言う「結果の平等」は真の意味で結果的に平等ではないです。努力の苦しみを戡定に入れてないからです。
我々は真の意味での「結果の平等」を実現しないにしても目指すことはできます。僕はそれこそが美しいと思う。
海燕さんの掲げる価値観には違和感があります。それはその美しさが最善でない所から来るものだと思います。