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アタローさん のコメント

おそらく「3月のライオン 9巻」の”高城さん状態”に陥っている人が多いのではないでしょうか?
つまり、”自分の大きさを知ってガッカリするのが怖いまま、ひたすら不安が積もる”状態です。自分の大きさ(=自分の限界、自力で変えることのできる範囲)を自覚した人は、次のステップとして 有限の中で何を選択するか というテーマに進むけれど、多くの人は その前の恐怖の海で立ちすくんでいるのだと思います。

自分に何ができるのか解らない、何もできないかもしれない、外力に無残に押しつぶされるかもしれない。その現実を受け入れろといのは「死を覚悟しろ」と似た響きがあります。
私は、その事実を他人に告げるのに躊躇してしまいます。 

私自信は「この世界は残酷だ。無情だ。私は荒野の中で生きていく」という決意を根っこに据えていますが、同時に、あまりにも殺伐としている自分の世界観を、恥じてもいます。(もちろん世界は残酷なだけでは無いと、知ってますが)

私自信が誇りに思えない事を他人に伝えるのは難しいです。例え事実だと認識していても。
長文失礼しました。
No.1
126ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 ここ最近の記事を書いていて、「理想と現実」について考えさせられました。ぼくは一貫して「現実」の話をしているつもりなんだけれど、理想世界を前提とした話をしている人もけっこういるんだな、と思うんですね。  この場合の理想世界とは、いわば「べき」の世界です。すべての「そうあるべき」という理想が実現した世界。あらゆる弱者が救済され、あらゆる不正が根絶され、あらゆる人々が幸福に生きられる、そんな世界。  そういう世界を思い描いた上で、「現実もまたそうあるべきなのだ」と語る人は少なくないように見える。  これはある意味で「正しい」。たしかに理想としては「すべての弱者が無制限に救済されるべき」だとぼくも思う。もしそうすることができたら、それが最も正当な方策であることは間違いないでしょう。  しかし、現実にはぼくたちは有限の世界に住んでいるわけで、「全弱者の無限救済」は限りなく不可能に近いと思うわけです。理屈の上では不可能ではないかもしれないけれど、ほぼ不可能。現実的ではない。  それは論理的にいって、人間社会が続く限り、どんなに科学が発達しても変わることはない真理でしょう。有限の資産で無限の救済を行うことはできないのです。  将来的にどんなに社会システムが改善されたところで、すべての人が救われる時代は訪れないに違いありません。それが現実。  これはまたさまざまなことについていえる真理です。「不完全で有限の世界で完全で無限な救済はありえない」。それがこの世界のグランド・ルール、変えることができない鉄の法則なのです。  だから、ぼくは「その現実を受け入れろ」といいます。理想世界のことは忘れ去ってしまいなさい、と。その上で、現実世界をより良くしていくための話をしましょう、と。  理想世界の倫理においては、見捨てられる人があってはいけません。「死ぬしかない」という人に対し、「じゃ、死ねば?」ということは、どんな場合でもあってはならない。  それは理想世界的には「正しい」理屈です。しかし、現実世界においては、「死ぬしかない」人を全員救済することはできません。だから、「申し訳ないけれど、あなたに割り振るリソースはもうありません。そこで死んでいってください」といわなければならないケースが出て来る。  いや、この例は正しくないかな? すべての人が経済的、医療的に救済される時代はありえるでしょう。しかし、そういう「近理想世界」においても、生きる能力がない人は生まれるだろうし、そういう人を完全に救うことは不可能だ、という話だと思ってください。  もちろん、だからといって 
弱いなら弱いままで。
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