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理想を抱いて溺死する前に。
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理想を抱いて溺死する前に。

2014-01-02 11:28
  • 9
 ここ最近の記事を書いていて、「理想と現実」について考えさせられました。ぼくは一貫して「現実」の話をしているつもりなんだけれど、理想世界を前提とした話をしている人もけっこういるんだな、と思うんですね。

 この場合の理想世界とは、いわば「べき」の世界です。すべての「そうあるべき」という理想が実現した世界。あらゆる弱者が救済され、あらゆる不正が根絶され、あらゆる人々が幸福に生きられる、そんな世界。

 そういう世界を思い描いた上で、「現実もまたそうあるべきなのだ」と語る人は少なくないように見える。

 これはある意味で「正しい」。たしかに理想としては「すべての弱者が無制限に救済されるべき」だとぼくも思う。もしそうすることができたら、それが最も正当な方策であることは間違いないでしょう。

 しかし、現実にはぼくたちは有限の世界に住んでいるわけで、「全弱者の無限救済」は限りなく不可能に近いと思うわけです。理屈の上では不可能ではないかもしれないけれど、ほぼ不可能。現実的ではない。

 それは論理的にいって、人間社会が続く限り、どんなに科学が発達しても変わることはない真理でしょう。有限の資産で無限の救済を行うことはできないのです。

 将来的にどんなに社会システムが改善されたところで、すべての人が救われる時代は訪れないに違いありません。それが現実。

 これはまたさまざまなことについていえる真理です。「不完全で有限の世界で完全で無限な救済はありえない」。それがこの世界のグランド・ルール、変えることができない鉄の法則なのです。

 だから、ぼくは「その現実を受け入れろ」といいます。理想世界のことは忘れ去ってしまいなさい、と。その上で、現実世界をより良くしていくための話をしましょう、と。

 理想世界の倫理においては、見捨てられる人があってはいけません。「死ぬしかない」という人に対し、「じゃ、死ねば?」ということは、どんな場合でもあってはならない。

 それは理想世界的には「正しい」理屈です。しかし、現実世界においては、「死ぬしかない」人を全員救済することはできません。だから、「申し訳ないけれど、あなたに割り振るリソースはもうありません。そこで死んでいってください」といわなければならないケースが出て来る。

 いや、この例は正しくないかな? すべての人が経済的、医療的に救済される時代はありえるでしょう。しかし、そういう「近理想世界」においても、生きる能力がない人は生まれるだろうし、そういう人を完全に救うことは不可能だ、という話だと思ってください。

 もちろん、だからといって 
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おそらく「3月のライオン 9巻」の”高城さん状態”に陥っている人が多いのではないでしょうか?
つまり、”自分の大きさを知ってガッカリするのが怖いまま、ひたすら不安が積もる”状態です。自分の大きさ(=自分の限界、自力で変えることのできる範囲)を自覚した人は、次のステップとして 有限の中で何を選択するか というテーマに進むけれど、多くの人は その前の恐怖の海で立ちすくんでいるのだと思います。

自分に何ができるのか解らない、何もできないかもしれない、外力に無残に押しつぶされるかもしれない。その現実を受け入れろといのは「死を覚悟しろ」と似た響きがあります。
私は、その事実を他人に告げるのに躊躇してしまいます。 

私自信は「この世界は残酷だ。無情だ。私は荒野の中で生きていく」という決意を根っこに据えていますが、同時に、あまりにも殺伐としている自分の世界観を、恥じてもいます。(もちろん世界は残酷なだけでは無いと、知ってますが)

私自信が誇りに思えない事を他人に伝えるのは難しいです。例え事実だと認識していても。
長文失礼しました。

No.1 131ヶ月前

(すみません。長文の上に追記です)
「3月のライオン 9巻」での、高城さんへの返答にもある通り、最終的には 何も決まらない事への不安 と、 何かが決まってしまう事への不安 の どちらを選ぶか? ということだと思います。私は、どちらが良いとは言い切れません。

No.2 131ヶ月前

理想世界とか、ちょっと大げさすぎません?結局のところどちらの立場であっても「理想を目指して努力すべき」ってのは変わらず、あなたが挙げた「そういう人を完全に救うことは不可能だ」ということとも矛盾しないと思うのですが。まさか「その現実を受け入れろ」という言葉はただの現状維持を指してるわけではないですよね?
「理想世界を前提とした話をしている人もけっこういるんだな」とのことなのでそれに私も入っていそうですが、コミュニケーションをするときは(これは不特定多数へのブロマガですが)誰に話しかけているのかわかりやすくした方がいいと思いますよ。これ自分のこと?と悩むので。

No.3 131ヶ月前

>>3
そのコメントがとても「理想世界であるべき」と書いてあるように読めますね。
「これ自分のこと?と悩むのでわかりやすく書いて下さい」というのは理想世界のありかたを説いているのではないでしょうか。

「あるべき論」を振りかざす人は自助努力を怠り自分にとって都合が良くなるように他者に努力を求めていることが多いと感じますね。
自分で努力できるのは自分だけです。

No.4 131ヶ月前

むずかしいお話ですね。

「変えることのできるもの」と「変えることのできないもの」とがある。
それはよく分かりますが、同時に疑問も抱きます。なぜ、ライト兄弟は空を飛ぶことができたのでしょうか。イカロスは墜落したのに。彼らのなかでは「機械が空を飛ぶ」という理想は「変えることのできるもの」だったのでしょうか、同時代の多くの人間が重たい機械が空を飛ぶなんてありえない――「変えることのできないもの」と思っていたのに。

なんだかすごく自分が誤解しているような気がするのですが、「変えることのできないもの」をどうやって「変えることのできるもの」にしていくのか、事の大なり小なりはありますが、そうやっていくのが、まあ、ほら生きていくことなんじゃないかな、とか思ったりします。
……やっぱり自分の言っていることがズレている気がする。

No.5 131ヶ月前

ふむ,民主主義社会も人に人権がある世の中も(それが真実であるかどうかは置いといて)元は理想だった。現実は理想にはほど遠い,だけども理想を目指して進むもうと努力したから昨日より少しはマシかもしれない今がある。現実とは理想を目指して苦闘している様のことを言うと思う。”現状を受け入れろ”は一見,賢そうな物言いに見えるが今しか見えてない近視眼的な物言いにすぎないのでないか?単に努力を放棄して現状に甘んずるための言い訳にすぎないのでないか

No.6 131ヶ月前

このブログのタイトルが『ゆるオタひきこもり生活研究室』であることを知った。そもそもオタとは何か研究とは何か?
オタとは二次元のマイナーの存在にイマジネーションによって多様な可能性を追求する人のことではないのか?現実に目を向ければ単なる紙の上の線やら絵の具の汚れにすぎず,そこにはキャラも世界も存在しない。研究とは何か?究極の法則を目指して現実を解読し分析しようとする人ではないか?現実的に考えれば,人の世にそのような法則などないと言わざる得ないのではないか?つまり『ゆるオタひきこもり生活研究室』というタイトルそのものに「私は理想を目指す人」ですという言明が入ってしまっているのではないだろうか?
そもそも人はミームの乗り物である以上,「理想を抱いて溺死」し,後世にその苦闘の痕跡を残す存在ではないか

No.7 131ヶ月前

>変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。

まあ、これが実践できればそもそもこんな議論は起きないわけでw
理想と現実、というより理想と目標というほうが個人的にはしっくりくる気がします。
あたかも理想=目標と語る人はいるが天へ一気に到達する魔法などこの世には存在しません。溺死するのは大抵この手の人でしょう。
「理想」という果てしない天を目指すにしても、まずは自分の立っている「現実」という地上から「目標」という階段を一段一段積み上げていかなければならない。どうせ目指すならハッタリでも天は「在る」と思っていたほうが前へ進む足は軽くなるんじゃないかなとは思っています。

No.8 131ヶ月前

理想世界の話をすると僕がいつも思い出すのが「素晴らしい新世界」や「ハーモニー」などのディストピア小説ですが
救われない人達のこと考えると割りとマトリックスの世界も悪くないんじゃないかと思ってしまいますね。僕の今の生活とあまり変わらないしw。

No.9 131ヶ月前
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