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社会的価値観での弱者と、社会的価値観を相対化できないという意味での弱者。
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社会的価値観での弱者と、社会的価値観を相対化できないという意味での弱者。

2014-01-05 18:25
     いつのまにか正月も五日目ですね。今年は年始に『パテマ』を観れたので幸先のいいスタートです。

     とりあえず今年は『UQ HOLDER!』あたりに期待しています。いよいよ話が本格的に動き出すはずで、そうなってくるとこの物語が何を目指しているのかがあきらかになってくるんじゃないかと。楽しみ楽しみー。

     まあ、以前にも書いたけれど、ぼくは『UQ』を現代社会のちょっと先を描いた物語として見ていて、そういう意味では文脈的に非常に新しいカッティング・エッジの漫画だと思っている。

     前作である『魔法先生ネギま!』はある意味で古い物語を新しくモデルチェンジしたような作品でした。

     非常に古典的な王道の「ヒーローが世界を救う話」ではあるんだけれど、主人公がヒーローその人ではなくて「ヒーローの息子」である点が『ネギま!』の面白さだった。

     ネギくんはほんとうの意味での天才じゃなくて、問題をストレートに解決することができないんですよね。何だかんだと理屈を捏ねるラスボスを一撃で殴り倒してしまう、といったことはかれにはできない。

     どうしても理屈の面で悩んでしまう。自分の行動が果たして倫理的にほんとうに正しいのか、などと考えてしまう子です。

     しかし、かれは最終的には世界を救います。それはヒーロー的にストレートな暴力による解決ではなく、「軌道エレベーターを建設する」という相対的に地味な解決でした。

     したがって、ラスボスを倒すくだりは丸々カットされてしまいます。ネットではこの結末に非難轟々ではありますが、それまでの展開を丹念に読んでいけばこの結末が必然であることはわかります。

     そして、『UQ』です。この漫画はいまのところ、『ネギま!』のような主人公の目標(勝利条件)が描かれていません。

     ネギくんには「父親の背中を目ざす」という大きな目標があり、かれは全38巻を一心不乱にその目標に向けて駆け抜けます。しかし、『UQ』ではそういう方法論は採用されていないわけです。

     もちろん、これから何らかの目標が出て来る可能性は高いですが、とりあえず最初の時点であきらかな目標を設定することはしていない。

     いや、たしかに「軌道エレベーターの向こうに行って何かでかいことをやる」という目標はあるのですが、いかにも曖昧で、ほぼ設定されていないに等しいとぼくは考えます。

     しかし、主人公である近衛刀太くんはそういった大目標の代わりにいくつもの小目標を持っています。かれは尊敬できる人を見つけると、そのたびに師事してその技術を教わろうとするわけです。

     いわば、ひとつのビッグゲームじゃなくて、いくつものミニゲームを生きている。これがね、もしかしたら新しいんじゃないかと思うわけです。

     ひたすら巨大な勝利条件を目ざすのではなく(成長)、ただ死なないだけの状況を整えてそこで戯れつづけるのでもない(成熟)第三の道なのではないか。

     そもそも現代社会とはどういう時代でしょう。ひと昔前まで、「永遠の日常」ということがいわれていました。終わりのない平和な日常が延々と続くひたすら退屈な社会。

     しかし、経済が逼迫してくるにつれ、それにまあ大震災とかもあって、やっぱり「はてしない永遠の日常」とは幻想であることがあきらかになったと思うのですよ。

     いつ何がどうなるかわからないという現実があからさまになった。ですが、完全に日常世界が崩壊したわけでもない。そういういってしまえば中途半端な社会でいま、ぼくたちは生きている。

     突然死ぬことはまずないが、しかしまったくありえないわけでもなく、努力を怠れば緩慢に死に至る、そんな奇妙なゲームをプレイしているといってもいいでしょう。

     それでは、そのゲームをどうすれば楽しめるのか。そのために、「自分でルールを決めてゲームを創出する」能力が問われると思うのです。

     これ、橙乃ままれ『ログ・ホライズン』の最新刊とそのまま直結しますよね。つまり、社会という大きなゲームをそのままに生きつつ、平行して別のゲームをプレイする。

     これはバリバリの成長路線でもなく、まったりしきった成熟路線でもありません。社会というゲームではとにかく生き残りながら、一定のポジションを維持しながら、べつのゲームを楽しむスタイル。

     重要なのは、ここでの「自分が創出した新しいゲーム」は社会的価値(リア充的価値といってもいい)から独立している必要があるということです。

     社会的価値に隷属したゲームは、結局は社会というゲームの一部であるに過ぎません。そこから離れて完全に自立したゲームを楽しめるようになって初めて、ひとは外的制約から心理的に自由になれるのです。そこで社会的ヒエラルキーにおける優越感や劣等感は無効化する。

     つまり、ぼくたちは生まれながらにして社会(この場合でいうと日本社会とか、地域社会とか学校社会など)というゲームにほぼ強制的に参加させられる。

     で、そのルールを学んでいかなくてはならない。そのルールで負けたら死んでしまうから、ある程度は勝ち抜いていかなければならない。それはシビアな戦いではある。

     でも、それが唯一のゲームではないんですよ、他にもゲームはあるんですよ、といいたいわけです。

     それは社会的に見れば何の価値もないゲームかもしれないけれど、でも社会的価値がすべてじゃない。いくらでも自分でルールを、ゲームを価値を創出することはできるんですよ。

     ネットでもリアルでも自分は社会的弱者なので不幸だと主張する人は大勢います。で、それらの人の「弱者度」は色々あると思うのですが、自分は弱者なので強者に踏みつけられて大変だと主張している人の一部は、具体的な人権侵害ではなく、自分が弱者であるという屈辱感そのものを問題にしているように見えます。

     そういう人を見ていると思うわけです。それはたしかに弱者だよね、と。つまり、 
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