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L and L sさん のコメント

男の行為は認められたものではない。しかし男を突き動かした「狂気」は「萌え」から変質したものではなく、そもそも「萌え」という感情に潜在的に潜むものではないか。「萌え」も作品への一種の愛情であり、愛情には「痛さ」がつきものである。自分にはそれを全否定することはできない。作家はときにそんな「痛い」読者と戦い、自分の道を貫かなければならない。
・・・拙い要約ですが、これは私には至極納得のゆく意見に思えました。
それだけに>>4のようなコメントが出てくるのは理解に苦しみますね。記事では

>どんな感想を持つかは読者の勝手で自由だけど、それが作者を攻撃する理由として正当性があると本当に思ってるの?物語やキャラを自分の勝手にできないことが作者の「裏切り」?あほか。

この短い文書に矛盾が三つもあります。
まず、どんな感想を持つのも自由と前置きしているにも関わらず、直後に記事内で主張されている種の感想を否定してしまっている点。
次に、記事の主張では、読者は大好きな作品が「希望する展開からずれ始めた」ときに作者から「裏切られた」と感じてしまうのだとされている。にも関わらず、>>4では“「物語やキャラを自分の勝手にできないことが作者の「裏切り」?」と、明らかな誤読を前提に記事の主張を批判している点。
そして、「作者を攻撃する理由として正当性があると本当に思ってるの?」という批判。記事を読めば「攻撃の正統性」を論じたものではなく、萌えという感情に潜む「狂気の潜在性」を論じたものと分かると思うのですが。

ただぶっちゃけ、はてな村のアイドルがこうした的外れな批判や、「もうちょい推敲しろ」「漢字もっと使えば読みやすくなるかもな」とか言われてるのは、はたから見るぶんには凄く面白くもありますね。
No.10
149ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 しばらく前のことになるが、人気ライトノベル『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の内容に不服を感じ、作者に数千通もの脅迫メールを送った三十代の男が裁判にかけられ、話題になったことがあった。  「桐乃信者」を自称し、インターネット上のファンサイトの運営にも関わるなど作品に夢中になっていた被告。しかし、ストーリー展開に不満を募らせる中、トークイベントで伏見さんが桐乃のことを「嫌い」と公言したことなどに「ファンをバカにしている」と激高。伏見さんのブログに苦情のメールを送ったが無視され、関心を引くために内容がエスカレートしていった。伏見さんと担当編集者の写真を使い、首から血が噴き出す加工画像を作成するなど、多い時期には1日に50~100件の脅迫メールを送り続けたという。  約半年間の送信総数は今年4月の逮捕当時、500通以上とみられていたが、その後の捜査で約9千通と判明。法廷では、捜査段階の事情聴取で、伏見さんが「背筋の凍るような恐怖を感じた。姿の見えない犯人が私の近くまで迫っているのかもしれないと思った」と話した調書も読み上げられた。  「俺の妹」作家に脅迫メール9千通 被告「自分でも送る理由分からない」(http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120706/trl12070621030013-n1.htm)  何とも異様な事件というしかないが、それでも、この男の心理そのものは、実はごくありふれたものなのかもしれない、とも思う。極度に過激化された形で噴出したから異様に見えるだけのことであって、作品の展開に不満を感じ、作者にぶつぶつ文句をいう程度のことはいたってふつうのことなのではないだろうか。  もちろん、この男の行為そのものは許されないことではあるし、作者にとっては迷惑この上ない読者だといえるだろう。いかなる意味でも男を擁護することはできない。しかし、その一方でこの事件は作品がもつ底知れない力を示しているということもできそうだ。  いや、この場合、むしろ重要なのは作品というよりキャラクターの魅力、あるいは「魔力」だろうか。真に魅力的なキャラクターとは、ここまでひとを狂わせるものなのだ。  もっとも、この男の場合、その「愛」は、たとえばアイドルのストーカーなどと同じで、偏ったものであった可能性がある。かれがこのヒロインを本当に理解していたのか怪しいところだ。あるいはかれは、ただ単に自分の生活に都合のいい偶像をしか見ていなかったのかもしれない。だからこそ、かれの愛情は暴走せざるを得なかったのかもしれない。  どこかにあたりまえの萌えが狂気に変わる瞬間があるということか。いや――違う。そうではない。そもそも萌えとは、どこかで狂気を孕んでいるものなのだ。それは結局、架空の(あるいは実在の)人物に自分の身勝手な理想を押し付け、それが叶えられているかぎりにおいてその人物を愛する、という側面をもっているものなのだから。  ほんとうなら、どんな展開であれ、作者によって与えられた展開がそのキャラクターにとっての「現実」であるはずである。しかし、ぼくたちは時としてその「現実」を受け入れられず、作家に反感を感じることがある。  作者にしてみれば、そんなことをいわれても困る、というしかないことなのかもしれないが、じっさいにそういうことはよくあるはずだ。男の行為は認められないとしても、その心理そのものを責められるほど理性的に作品を愛好しているひとがどれくらいいるだろう。  少なくともぼくはこの男を完全な「向こう側」の住人として切り捨てることはできそうにない。ひょっとしたらぼく自身がこうだったかもしれない、とまではいわないが、少なくともその「狂気の種子」は紛れもなく自分のなかにもあるものだと思うのである。  ここで重要なのは、作品は、あるいはキャラクターはだれのものなのか、という問題である。もし完全に作者のものだとするならば、作者がどのような展開にしようがかってだ、ということになるだろう。しかし、多くのひとはそこまで割り切れない。  それどころか、ほんとうに優れた作品は、ときに読者をして「これはまさに自分のために書かれた作品だ」と錯覚させてしまう。よく考えてみればそんなはずはないのだが、そんなふうに錯覚を生むことこそ、超絶的な傑作の証明といえる。  だが、その夢のような作品とのシンクロは必ずしもいつまでも続くとは限らない。作家のめざす路線と読者の希望する展開がずれ始めたとき、作品への思い入れが深ければ深いほど、読者にとってそれは「作家の裏切り」と感じられるだろう。  十数年前の『新世紀エヴァンゲリオン』を巡る騒動のときもそうだった。多くの視聴者にとって、『エヴァ』の挑発的な最終回はクリエイターの裏切り行為に他ならなかった。そうしてすべての責任者と見られた監督はかれらの非難と憎悪の対象となったのである。  そういう心理の背景にあるのは、「本来あるべき理想の展開」があるにもかかわらず、作家がそれをねじ曲げた、という思いだろう。どうしようもない「痛い」思い込みではある。が、ぼくにはそれを笑う資格はない。そもそもその種の「痛さ」を伴わない愛があるだろうか?  『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』はもうすぐ最新の第11巻が発売される。もしそのなかに何かの「裏切り」があったら、まただれかが怒りに燃えることもあるだろう。それは傑出した名作が背負う宿命だ。作家にしてみれば迷惑千万なことだろうが、読者とは本質的にそういったわがままな存在なのである。  スティーヴン・キングの『ミザリー』ではないが、作家はときにそんな読者とも戦って自分の道を貫かなければならない。ぼくとしては、どうか今回もだれかの心のなかで狂気の種子が芽吹きませんように、と祈るばかりだ。
弱いなら弱いままで。
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