「桐乃信者」を自称し、インターネット上のファンサイトの運営にも関わるなど作品に夢中になっていた被告。しかし、ストーリー展開に不満を募らせる中、トークイベントで伏見さんが桐乃のことを「嫌い」と公言したことなどに「ファンをバカにしている」と激高。伏見さんのブログに苦情のメールを送ったが無視され、関心を引くために内容がエスカレートしていった。伏見さんと担当編集者の写真を使い、首から血が噴き出す加工画像を作成するなど、多い時期には1日に50~100件の脅迫メールを送り続けたという。約半年間の送信総数は今年4月の逮捕当時、500通以上とみられていたが、その後の捜査で約9千通と判明。法廷では、捜査段階の事情聴取で、伏見さんが「背筋の凍るような恐怖を感じた。姿の見えない犯人が私の近くまで迫っているのかもしれないと思った」と話した調書も読み上げられた。「俺の妹」作家に脅迫メール9千通 被告「自分でも送る理由分からない」(http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120706/trl12070621030013-n1.htm)
弱いなら弱いままで。
【無料記事】萌えが狂気をはらむとき。(2395文字)
しばらく前のことになるが、人気ライトノベル『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の内容に不服を感じ、作者に数千通もの脅迫メールを送った三十代の男が裁判にかけられ、話題になったことがあった。
何とも異様な事件というしかないが、それでも、この男の心理そのものは、実はごくありふれたものなのかもしれない、とも思う。極度に過激化された形で噴出したから異様に見えるだけのことであって、作品の展開に不満を感じ、作者にぶつぶつ文句をいう程度のことはいたってふつうのことなのではないだろうか。
もちろん、この男の行為そのものは許されないことではあるし、作者にとっては迷惑この上ない読者だといえるだろう。いかなる意味でも男を擁護することはできない。しかし、その一方でこの事件は作品がもつ底知れない力を示しているということもできそうだ。
いや、この場合、むしろ重要なのは作品というよりキャラクターの魅力、あるいは「魔力」だろうか。真に魅力的なキャラクターとは、ここまでひとを狂わせるものなのだ。
もっとも、この男の場合、その「愛」は、たとえばアイドルのストーカーなどと同じで、偏ったものであった可能性がある。かれがこのヒロインを本当に理解していたのか怪しいところだ。あるいはかれは、ただ単に自分の生活に都合のいい偶像をしか見ていなかったのかもしれない。だからこそ、かれの愛情は暴走せざるを得なかったのかもしれない。
どこかにあたりまえの萌えが狂気に変わる瞬間があるということか。いや――違う。そうではない。そもそも萌えとは、どこかで狂気を孕んでいるものなのだ。それは結局、架空の(あるいは実在の)人物に自分の身勝手な理想を押し付け、それが叶えられているかぎりにおいてその人物を愛する、という側面をもっているものなのだから。
ほんとうなら、どんな展開であれ、作者によって与えられた展開がそのキャラクターにとっての「現実」であるはずである。しかし、ぼくたちは時としてその「現実」を受け入れられず、作家に反感を感じることがある。
作者にしてみれば、そんなことをいわれても困る、というしかないことなのかもしれないが、じっさいにそういうことはよくあるはずだ。男の行為は認められないとしても、その心理そのものを責められるほど理性的に作品を愛好しているひとがどれくらいいるだろう。
少なくともぼくはこの男を完全な「向こう側」の住人として切り捨てることはできそうにない。ひょっとしたらぼく自身がこうだったかもしれない、とまではいわないが、少なくともその「狂気の種子」は紛れもなく自分のなかにもあるものだと思うのである。
ここで重要なのは、作品は、あるいはキャラクターはだれのものなのか、という問題である。もし完全に作者のものだとするならば、作者がどのような展開にしようがかってだ、ということになるだろう。しかし、多くのひとはそこまで割り切れない。
それどころか、ほんとうに優れた作品は、ときに読者をして「これはまさに自分のために書かれた作品だ」と錯覚させてしまう。よく考えてみればそんなはずはないのだが、そんなふうに錯覚を生むことこそ、超絶的な傑作の証明といえる。
だが、その夢のような作品とのシンクロは必ずしもいつまでも続くとは限らない。作家のめざす路線と読者の希望する展開がずれ始めたとき、作品への思い入れが深ければ深いほど、読者にとってそれは「作家の裏切り」と感じられるだろう。
十数年前の『新世紀エヴァンゲリオン』を巡る騒動のときもそうだった。多くの視聴者にとって、『エヴァ』の挑発的な最終回はクリエイターの裏切り行為に他ならなかった。そうしてすべての責任者と見られた監督はかれらの非難と憎悪の対象となったのである。
そういう心理の背景にあるのは、「本来あるべき理想の展開」があるにもかかわらず、作家がそれをねじ曲げた、という思いだろう。どうしようもない「痛い」思い込みではある。が、ぼくにはそれを笑う資格はない。そもそもその種の「痛さ」を伴わない愛があるだろうか?
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』はもうすぐ最新の第11巻が発売される。もしそのなかに何かの「裏切り」があったら、まただれかが怒りに燃えることもあるだろう。それは傑出した名作が背負う宿命だ。作家にしてみれば迷惑千万なことだろうが、読者とは本質的にそういったわがままな存在なのである。
スティーヴン・キングの『ミザリー』ではないが、作家はときにそんな読者とも戦って自分の道を貫かなければならない。ぼくとしては、どうか今回もだれかの心のなかで狂気の種子が芽吹きませんように、と祈るばかりだ。
コメント
コメントを書く僕らのようなおっさんは、むしろ裏切ってくれないと腹立つけどね。
作品がこれだから理解しにくい人も多いだろうが、これがドラゴンクエストXとなればわかるという人も増えるんじゃないかな。ゲームだから別だろと考えてしまう人もいるだろうが、作品は多かれ少なかれ複数の人で作るものだから共通点はあるだろう。
面白い考え方だと感じた。こういうものを無料で読めるならありがたい。
私はおつむが悪いからよくわからないが読者が「裏切った」と勘違いしたってことか?
あー、わからん。
>>4
くっさ
エヴァは一旦終わってから再解釈とかで良かったと思えるからいいけど
種死みたいに擁護できない、隠蔽したい黒歴史になってしまうものもあるからなぁ
うやむやな完結の仕方だけはしちゃいけないと思う
あっそ
とりあえずこの記事の著者が自分の文書に酔ってることだけは伝わった
自分の期待通り、予想以上の展開を繰り広げる作品(自分にとっての良作)ほど、少し期待から外れただけで作者への憎悪に変わってしまう、ということ。
程度の差はあれ、別段間違ったことも難しいことも言ってはいない。
この文章が理解できないのなら読解力がなさ過ぎると言わざるを得ない。
>>4
「作者の裏切り」だと“錯覚”する瞬間のある作品ほど、逆に言えば読者の心を鷲掴みにする良い作品(魅力のあるキャラクター)だと言っているんだろ。どこをどう読めば
>それが作者を攻撃する理由として正当性があると本当に思ってる
なんてバカ丸出しの意見が出てくるんだ。
もっとこの記事から、二次創作の話や、信者同士のバトルなどにレスが広がると思いましたが、そうでもなかったですね、はい。
自分としては作品を攻撃する人は大抵の場合、その後ろからバカだなと思いながら、撃ち倒したくなりますが、議論ふっかけたところでその他大勢も相手にするのかと思うと辟易するので、適当なところでやめます。
この暴れた人が狂気を一線引いているのは、やはり作者へ直接攻撃したという点でしょうね。
大抵は掲示板でコテ付きで暴れるか、良識があるなら自分のブログなりまとめウィキ作って正当性主張するか。
よほど設定に問題が無い限り、信者同士のバトルというのも尽きないものですね。何よりこれだけの狂気を生み出した作品は素晴らしいということでいいんでしょうか?はい、いいです。と、一桐乃信者は言います。