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草加 猿さん のコメント

 はじめまして、初コメントさせていただきます。
 自分は普段書きものをしないので、拙い文章になりますがご容赦ください。
 海燕さんの今回の記事の、差別というものが人の線引きをしたがる自然な感情に根ざしてるものという見方には、
なるほどな、と思うところがありました。
 人が人との間に境を設定する事に関して自分が思うのは、ボーダー外の人や分野に触れるときには寛容さと覚悟が
重要じゃないかという事です。
 二つほど自分の話をさせて頂きます。
 ひとつは自分の以前勤めていたバイト先の話で、よくある話だとは思いますが、そこは新人の人にあまり寛容でない環境でした。
制服の身に着け方にしても、規則どおりの着方をしていない新人の人に対して、ベテランの人が「何でそんな着方するんですか!規則ですよ!」といった感じの言い方をしていて、自分は「新人だって分からないのかな?にしてももうちょっと穏やかに言えないものかな。」
などと思っておりました。
 それと二つ目。正直いいますと自分は韓国人の血縁です。根拠の薄い単なる自分の実感で申し訳無いのですが、
最近の日本のマスコミにおける従軍慰安婦問題の扱いにはちょっと違和感を覚えています。韓国の政府、マスコミの論調が
おかしいことばかりがクローズアップされていて、肝心の「問題」に関して光をあてている所がほとんど無いなと思えてしまっています。
 読んでくだされば分かると思いますが、完全に自分の実感のレベルの話で、お前がどう思うかなんて知ったこっちゃ無いよと言われればそれまでの話です。ですが自分としては以上のケースではどちらもボーダーの内と外の両者にとって
何かが損なわれてしまっているなと思えます。
 ボーダー内に余所者が入れば普通中の人は不寛容になりがちですね。それに対して入ってきたほうがうまく謝罪なりして
後腐れを残さず、かつコミュニティ内に溶け込められれば理想です。が、それはあくまで理想でうまくいかないことも多い。
だから自分なりの及第点を目標に最善を尽くし、それでもうまくいかない場合は、仕方ないやと諦めることが必要です。
 また、自分が何らかのコミュニティ内の人間であることもしばしばで、そう考えるとボーダー外の人がやってきて、それとはしらず自分等の内でのルールを無視することもありうるので、これもある程度覚悟していなければいけないなと思うのです。そういった相手に対しては、ルールを受け入れてくれるよう説得する。それでもダメなら距離を置くことが必要です。コミュニケーションの上では当たり前なのに、ある区分けになるとこういったレベルの話をすっ飛ばしてしまって、相手を無条件に悪者にしてしまう。このことが差別の問題なんじゃないかなというのが自分の考えです。
 思えば、自分が苦手とするタイプの人は、不寛容と無頓着のバランスが両極端というか、自分と合わない配分だなと
思える人のようです。また、自分がこの人いい意味ですごいな、思える人はこのバランスが完璧で、いろんなグループに属している感じの人です。嫌な印象ほとんど残さず、出たり入ったり思いのまま。こういう人もある意味、ボーダーを越えられる人というのでしょうか。
まるでチートですね。見習いたいものです。難しそうですが。
 
 以上、駄文失礼しました。
  
No.2
130ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 きょうの朝、ペトロニウスさんと話していて(じっさいしょっちゅう話しているのですね)、ちょっと記事のネタが浮かんだので、きょう3本目の記事を書いてみます。  いや、じっさい、書こうと思ったら1日に5本だろうが7本だろうが、書けないことはないんですよね。書かないでいるとめんどくさくなってしまうんだけれど、書き始めるといくらでも書ける。ぼくはそういう人のようです。  ただ、まあ、あまり書きすぎてしまうと1本1本の内容が薄くなってしまうので、そこは考えないといけないところですね。きょうのこれ移行の記事はあしたに回そうと思います。  で、何の話だっけ? そうそう、ペトロニウスさんと話していて浮かんだ話。「差別」と「仲間意識」の話ですね。  これはおそらく賛成してもらえることだろうと思うのですが、差別という言葉には、紛れもなくネガティヴな意味が存在しています。少なくとも現代社会で差別は良いことだ、と語るひとはあまりいない。  じっさい、嫌韓やらなんやら、差別的な行動に走っているとしか思えないひとにしても、自分は差別をしている!と大声で叫ぶことはしません。  むしろ、自分がやっていることはあくまで「区別」であり、それは差別とは本質的に異なることなのだ、というエクスキューズを用意していることがほとんどであるように思います。  それくらい、現代社会において差別は悪いことだ!というのは常識と化しているのだと思うのです。しかし、まあ、それなら差別をしないでいられるかと云うと、そういうわけでは決してないんですよね。  むしろ差別が忌まれるのは、ひとの心が差別を大好きにできているからに違いありません。放っておくとひとは差別をするものなのです。だからこそ、人為的に「差別はいけない!」と触れまわらなければならない。それがまあ、ほんとうのところだと思います。  で、ぼくは、差別はすべて一様に悪いことだ、すべてのひとを平等に愛せるようにならなければならないなんて戯言を、ひとかけらも信じてはいないのです。  いやまあ、たしかにそれはひとつの理想ではあるのかもしれませんが、あえて云うなら非人間的な理想です。決して現実にはならないであろう夢です。現実には、仲間を大切にすれば、「それ以外」のことを切り捨てることにつながります。  その「仲間」とは、たとえば地域の友人たちのことであったり、あるいはもっと広く同じスポーツを楽しんでいるファンのことであったり、あるいは日本人全体のことであったりするのですが、とにかく人類すべてをひとしく愛することができるような人物は異端であり、これもあえて云うなら異常でしょう。  あたりまえの人間はどこかで線を引いて、ここからここまでが仲間で、この外はそうではない、と判断するものです。  たとえば、『ヤンキー経済』で描かれている「マイルドヤンキー」たちはまさにそういう行動理念に沿って動いているように見えます。そして、しばしば極端な個人主義者の集団と見られる「オタク」にしても、じっさいのところ、何も変わるところはないのです。  「ほんとうのオタクとは」とか、「あんな連中はオタクじゃない」と考えるということは、つまりは「オタクか、そうでないか」と線を引き、どこかで区別し、差別していることに違いないのですから。  ぼくは何も、そのことを責めるつもりはありません。ひとがひとでるかぎり、やはりどこかで線を引く必要はあるのです。  すべてのひとをまったく差別することなく平等に考えられたら、それはたしかにすばらしいでしょうが、そこには一切の「愛」がないということにもなるのではないでしょうか?  そう、自分の妻や、家族や、友人や、仲間を厚遇するということは、紛れもない差別ではありますが、しかしそれこそがひとが持ちえる唯一の愛のかたちなのです。  「みんな大好き」であるということは、優先順位が存在しないということで、だれも好きではないということと変わりません。そういうものなのです。  何が云いたいかというとですね、線を引くこと、差別することはひとの本質にかかわる行動だということです。  ぼくはもちろんすべての差別を無条件で肯定するつもりはありませんが、同時に、すべての差別を悪とし排斥するつもりもありません。ようするに何もかも程度の、バランスの問題であって、一切差別することなく暮らしていくなどということは、しょせん無理なことだと思うのです。  そして、ここがぼくとペトロニウスさんの妙に気が合うところなのですが、線を、「境」を作ってしまうのは仕方ないと認めたとしても、その上で 
弱いなら弱いままで。
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