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ゴトーふにゃおさん のコメント

>>3
 自分の文章は読みづらいですね。まず、その言い訳をします。
 この記事は前半の差別についてと後半とで2つに分かれていますが、記事の主張は“2つとも”(ほぼ)私の考え方と一致します。
 ですが、私がつついた重箱隅部分は話として飛躍していて、その部分を丸々抜いても話の組み立て・主張には関係ありません。簡単な足し算をしているところに急に変数xが入り込むみたいです。意味を見出すとすると、後半につなげる助走のためなのですが、それらは私から観ておかしい・間違っている意見が書かれている部分なので助走としては不適切としました。怪我します。
 そんな強引な誘導は「必要でないなら、話が不明瞭になるし、話全体の正しさ(ウヘエ)が損なわれる」「必要なら、そもそも記事を2本にすればいいのに」「というかもっとマシな繋げ方があるんじゃない?」となります。

 では「記事を強引にでも一つにつなげるために必要だったのだ」という話になりますね。
 私にはこの視点が完全に抜けていました。考慮に入れていませんでした。考えが広がりました。嫌味でなく、ご指摘ありがとうございます。以下に、改めて考えたことを書きます。
 分野の越境について、記事では「それぞれ無関係とも見える、しかしじっさいには決してそうではないことの関連性を可視化し」という部分で主張が一番はっきりとしていると思います。私はこれを読んで、海燕さんは越境に強引さ・飛躍を用いるつもりはないのだと感じました。
 これは咀嚼して書き直せば、分野別けされた批評では注目されなかった繋がりを改めて指摘するということでしょう。決して「本当は縁も所縁もない2つを悪魔合体させよう」ということではないはずです。「世界の物事にはどんなにか細くても繋がりがあるんだよ!」と言うこともできますが、これをこの記事に当てはめるには無理があります(説明割愛)。
 ところで、記事の前後の話題には本来は「区別・分野別け」というワードからして細くとも明確に繋がりがあります。そちらの助走を十分に使わず、強引に話を繋げるというのも不思議なことです。

 というわけで、savaさんは記事を間違って読み取っているのだろう…と私は最初に考えました。
 ですが、真逆の考え方もありますね。私がこの記事の読み取りを間違っていないとしても、海燕さんの本心とは違うという可能性です。記事の連載を長く読まれている方には意図が伝わっているが、一見に近い私には伝わらないのかも。

 さて、くどいですが私の主張を繰り返しますと、「話の飛躍が強引すぎて、話題がどちらも中途半端なんだよ」「言ってることが(私的に)当たり前すぎるんだよ」「繋げるならもっと上手くやってほしいし、あるいはそれぞれ別の記事にして“その先”を何か見せて欲しいんだよ」という方がわかりやすいでしょうか?

 余計な言い訳や主張もありましたが、これでsavaさんへの回答になったかと思います。
No.4
130ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 きょうの朝、ペトロニウスさんと話していて(じっさいしょっちゅう話しているのですね)、ちょっと記事のネタが浮かんだので、きょう3本目の記事を書いてみます。  いや、じっさい、書こうと思ったら1日に5本だろうが7本だろうが、書けないことはないんですよね。書かないでいるとめんどくさくなってしまうんだけれど、書き始めるといくらでも書ける。ぼくはそういう人のようです。  ただ、まあ、あまり書きすぎてしまうと1本1本の内容が薄くなってしまうので、そこは考えないといけないところですね。きょうのこれ移行の記事はあしたに回そうと思います。  で、何の話だっけ? そうそう、ペトロニウスさんと話していて浮かんだ話。「差別」と「仲間意識」の話ですね。  これはおそらく賛成してもらえることだろうと思うのですが、差別という言葉には、紛れもなくネガティヴな意味が存在しています。少なくとも現代社会で差別は良いことだ、と語るひとはあまりいない。  じっさい、嫌韓やらなんやら、差別的な行動に走っているとしか思えないひとにしても、自分は差別をしている!と大声で叫ぶことはしません。  むしろ、自分がやっていることはあくまで「区別」であり、それは差別とは本質的に異なることなのだ、というエクスキューズを用意していることがほとんどであるように思います。  それくらい、現代社会において差別は悪いことだ!というのは常識と化しているのだと思うのです。しかし、まあ、それなら差別をしないでいられるかと云うと、そういうわけでは決してないんですよね。  むしろ差別が忌まれるのは、ひとの心が差別を大好きにできているからに違いありません。放っておくとひとは差別をするものなのです。だからこそ、人為的に「差別はいけない!」と触れまわらなければならない。それがまあ、ほんとうのところだと思います。  で、ぼくは、差別はすべて一様に悪いことだ、すべてのひとを平等に愛せるようにならなければならないなんて戯言を、ひとかけらも信じてはいないのです。  いやまあ、たしかにそれはひとつの理想ではあるのかもしれませんが、あえて云うなら非人間的な理想です。決して現実にはならないであろう夢です。現実には、仲間を大切にすれば、「それ以外」のことを切り捨てることにつながります。  その「仲間」とは、たとえば地域の友人たちのことであったり、あるいはもっと広く同じスポーツを楽しんでいるファンのことであったり、あるいは日本人全体のことであったりするのですが、とにかく人類すべてをひとしく愛することができるような人物は異端であり、これもあえて云うなら異常でしょう。  あたりまえの人間はどこかで線を引いて、ここからここまでが仲間で、この外はそうではない、と判断するものです。  たとえば、『ヤンキー経済』で描かれている「マイルドヤンキー」たちはまさにそういう行動理念に沿って動いているように見えます。そして、しばしば極端な個人主義者の集団と見られる「オタク」にしても、じっさいのところ、何も変わるところはないのです。  「ほんとうのオタクとは」とか、「あんな連中はオタクじゃない」と考えるということは、つまりは「オタクか、そうでないか」と線を引き、どこかで区別し、差別していることに違いないのですから。  ぼくは何も、そのことを責めるつもりはありません。ひとがひとでるかぎり、やはりどこかで線を引く必要はあるのです。  すべてのひとをまったく差別することなく平等に考えられたら、それはたしかにすばらしいでしょうが、そこには一切の「愛」がないということにもなるのではないでしょうか?  そう、自分の妻や、家族や、友人や、仲間を厚遇するということは、紛れもない差別ではありますが、しかしそれこそがひとが持ちえる唯一の愛のかたちなのです。  「みんな大好き」であるということは、優先順位が存在しないということで、だれも好きではないということと変わりません。そういうものなのです。  何が云いたいかというとですね、線を引くこと、差別することはひとの本質にかかわる行動だということです。  ぼくはもちろんすべての差別を無条件で肯定するつもりはありませんが、同時に、すべての差別を悪とし排斥するつもりもありません。ようするに何もかも程度の、バランスの問題であって、一切差別することなく暮らしていくなどということは、しょせん無理なことだと思うのです。  そして、ここがぼくとペトロニウスさんの妙に気が合うところなのですが、線を、「境」を作ってしまうのは仕方ないと認めたとしても、その上で 
弱いなら弱いままで。
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