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 森恒二の漫画『自殺島』が面白い。この作品について、ペトロニウスさんがこう書いている。

 新刊が出てたので買ってみる。読んでいて思ったんですが、この手の「生きることそのものを目的とする」物語というテーマは、前回の記事で書いたように、物質的な基礎条件があるレベルを超えると(=僕はGNP1万ドルクラスの資本主義経済と考えている)、貧・病・苦といったわかりやすい「欠乏」が失われ、生きていくことの優先順位がつかなくなってしまう後期資本制の真綿に包まれた都市社会が生まれるので、その中で生きる人々には、「生きていること」の実感が曖昧になってしまう。が故に、それを、もう一度ゼロベースで考えるどどういうものなのか?と問い直すという欲望・テーマがベースになっていると僕は考えています。


 まさに。

 『自殺島』は、何らかの理由で自殺をこころみて生きのびた青少年たちが、ある無人島(実はそうではないが)に送り込まれ、サバイバルするという物語。

 その特徴は、かれらの自殺未遂の理由がそれこそ「貧・病・苦」ではないところにある点に存在する。

 いや、「貧・病・苦」がまったく影響を与えていないはずもないのだが、しかし主人公のセイは、それこそ「後期資本制の真綿に包まれた都市社会」で、「「生きていること」の実感が曖昧になって」しまったが故に自殺しようとするのである。

 本編のなかの描写は、ペトロニウスさんが指摘している事実にぴたりと合致する。いや、だからといってその文脈が正しいと云いたいのではない。

 そうではなく、この文脈を通して見るとこういうものが見える、という「見立て」の面白さが重要なのである。「何が正しいか?」は批評家に任せておけば良い。

 とにかく、作者はおそらくペトロニウスさんが云うところの「真綿」で首を締められるような「後期資本主義社会」特有の苦しさを意識していると思う。

 思えば、前作『ホーリーランド』もその種の苦悩がベースになっていた。また、最新作『デストロイアンドレボリューション』は、退屈な社会そのものを破壊するテロリズムがテーマになっている。

 つまりは、全力で「この社会は息苦しい!」「辛い、苦しい!」と云っている作家なのだと思う。そこからの「出口」が暴力であり、テロリズムであり、自殺であるというわけだ。

 しかし、ただ単に暴力やセックスや、自傷、自殺に耽溺するだけでは物語にならない。いや、ならないことはないが、きわめて刹那的な、「いまさえ良ければそれでいい」というだけの物語になってしまい、ポジティヴなヴィジョンを示せないだろう。

 そこで、森は『ホーリーランド』のときは「暴力」の先にある「絆」を描いた。『自殺島』では、「サバイバル」の先にある「生きている実感」を描き出そうとしている。

 つまりは「失われた生の実感をどうやって取り戻すか?」というテーマであるわけで、「近代社会の「真綿」を取り除いて、生きるか死ぬかの環境に叩き込んでやればいい」という答えが出てくるのは当然のことではあるだろう。

 しかし――これもペトロニウスさんが書いているように、『デストロイアンドレボリューション』のように「この社会そのもの」の形を破壊してしまうとしても、「その先」にあるものは、社会再建の努力だったりするわけである。

 やっとこの本(自殺島)を見て思ったことの本質が言えるのですが(笑)、それは、ああ、、、、、生の不全感からもう一度、生の輝きを取り戻すために、「文明を無に帰して」そして殺し合いのバトルロワイヤルをやってはみたけれども、そうしたシュチュエーション(=マクロの外部環境)を設定したところで、歴史の法則というグランドルールは変わらないんだな!と感じたのです。もう少し敷衍して説明すると、バトルロワイヤルの目的はなんだったか考えてみましょう。それは、後期資本制の行きついた社会では、生きるための動機が失われていきやすい。それをもう一度ちゃんと実感しなおす為には、「生きること自体が目的」という万人が万人に対する闘争というシュチュエーションを仮設してみよう(サバゲーですね!←ちがうっ)ということでした。けど、そういう新しい秩序の形成(=反近代思想の帰結として文明を無に帰す)をしたところで、結局のところ、人類は同じ道をたどるわけです。人類が人類である限り、そんなに変わらないんですよ。もう一度同じことを繰り返すだけ。ああ、つまりこの設問自体は、あまり先のない問題設定なんだな、ということです。

 つまりは、人間が人間としての性質をもつ以上、どうあがいてもどこかで同じことをくり返すことになるわけで、社会を破壊しようとしても意味がないのだ。

 『自殺島』では「すべての男がすべての女を共有する」という、フリーセックス的な「楽園=地獄」も描かれているのだが、こういうものも、突き詰めていけばどこかで破綻して、いまの社会のシステムに近づいていくに違いない。

 なぜなら、人間の愛情や独占欲は克服できないからである。そして、女性たちが決してそのようなシステムを望まないからである。

 たぶん作者は知らないだろうと思うが(知っていたらびっくり)、この「性の暗いユートピア」は、アメリカの「オナイダ・コミュニティ」という村のシステムによく似ている。

 じっさい、そういうことを試したひとたちがいたのである。しかし、オナイダ・コミュニティは最後にはその欺瞞に耐えられず破綻した。

 つまりは、現代社会のシステムはどれもそれなりの理由があってそうなっているのであって、もういちど試してみても同じところに至る公算が高いのだ。ただ、それまでの間、女性たちが苦しむことになるだけのことである。

 ようするに「何もかもゼロに戻してしまおう!」という試みは、「ゼロからもういちど時間をかけて同じ社会に至るだけ」という結末に至ることがもう決まっているということ。その意味で「筋が悪い」ルートなのだということができる。

 つまり、この社会そのものを破壊しようとすることは、結局は問題解決にはならず、ただ問題を先延ばしすることにしかつながらないということなのだと思う。

 それならどうすればいいか? そう――この、あまりにも貴族的な「生の退屈」を一時的にも癒やすことができるものがあるとすれば、セックス、暴力、スピード、ギャンブル。そういったところだろう。

 自分自身をギリギリの極限状況に追い込んで初めて、「ああ、生きている」という実感は得られる。だから、これらをテーマにした漫画がたくさんあるのかもしれない。より健康的なところではスポーツとか一部のビジネスもそうですね。

 ああ、ここまで書いていて気づいたけれど、そうか、考えてみれば福本伸行などのギャンブル漫画もまた、「極限の状況で生きる実感を取り戻す」系譜の物語だったのだな。

 『カイジ』と『ホーリーランド』や『自殺島』は、やはり同時代のパラレルで同じテーマの物語なのだろう。

 カイジは、