禁煙バトルロワイヤル (集英社新書 463I)

 芥川龍之介に「煙草と悪魔」と題する短編がある。その名の通り、タバコを巡る悪魔と商人のかけ引きを綴った作品で、最後は商人の勝利に終わるものの、

 が、自分は、昔からこの伝説に、より深い意味がありはしないかと思つてゐる。何故と云へば、悪魔は、牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにする事は出来なかつたが、その代に、煙草は、洽く日本全国に、普及させる事が出来た。して見ると牛商人の救抜が、一面堕落を伴つてゐるやうに、悪魔の失敗も、一面成功を伴つてゐはしないだらうか。悪魔は、ころんでも、ただは起きない。誘惑に勝つたと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。

 という落ちが付く。タバコは悪魔が普及させたものだというのだ。本書はそんな「悪魔の快楽」、喫煙を巡る丁々発止のやり取りをまとめた一冊。愛煙家にも嫌煙家にも躊躇なくお奨めできる傑作対談集だ。

 相対するのは漫才コンビ「爆笑問題」の太田光と、かれの主治医で山王病院副院長の奥仲哲弥。話は肺がんを専門とする奥仲が、喫煙の害毒を語っていくかたちで進む。奥仲は何とかして太田にタバコをやめさせようとするのだが、太田はそのたびに新しい理屈をひねり出して対抗する。はたして勝利するのはどちらなのか?

 しかし、「禁煙バトルロワイヤル」という過激なタイトルに惹かれて読みはじめたひとは肩透かしをくうかもしれない。本書の議論は、一方がかたくなに禁煙を押し付けようとし、他方がその態度を「禁煙ファシズム」とさげすむ、そんなお決まりの構図とはひと味もふた味も違っているからだ。

 太田はたしかに愛煙家だが、決して頑迷にタバコを弁護するわけではないし、奥仲は禁煙を訴えながらも、「一日五本までなら吸ってもいいのではないか」と提言する。たがいに相手の立場を思いやる余裕があるのである。この「余裕」の二文字こそ、本書にあってほかのタバコ本にないものだろう。したがって、本書の議論の射程は凡庸なタバコ本をはるかに凌ぐ。

 まず、奥仲はタバコの快楽は錯覚だという。しかし、太田はその錯覚こそ快楽の根本だといい返す。あらかじめ自分をマイナスに追い込んでおいて、プラスに転じることを楽しむ、それこそが気持ちよいのだと。

 太田はタバコの快楽を身体の確認に求める。つまり、喫煙した瞬間、のどに抵抗を感じる。それが「ここに管がある、気管があるのか」と確認する喜びをもたらすのだと。かれにいわせれば、食事もセックスも同じ「自分の存在を確認する快感」に根ざしている。

 それだけではない。争いにもまた、相手に何かをぶつけて返ってくるリアクションによって自分の存在を感じる快楽があるという。ここにいたってタバコを巡る話は話は人間存在の根幹を扱う話題へと変わる。

 そもそも健康とは何なのか。それは自分の身体を深く実感することがない状態だ。肩こりがあるから肩の存在を感じる。腰痛があるからこそ腰の大切さがわかる。そう考えていくと、健康とは身体の確認からかけ離れた状態であるといえる。

 だから、健康は退屈なのだ。平和が退屈であるように。愛煙家がタバコを手放さないのは、必ずしもかれらがニコチンの奴隷であるからだけではない。そこにマイナスを通してプラスへと転じる快楽の基本構図があるからだ。

 両者はタバコを通じて人間にとって快楽とは何か、健康とは何か、平和とは何か、深く考えていく。自然、議論は哲学の様相を帯びる。はたして、健康は正しいことなのか? 不健康は悪いことなのか?

 この本には、亡くなった忌野清志郎についてふれた箇所がある。

奥仲 禁煙しようという方は、やっぱり自分の健康に危機感を持っておられるんだと思うんです。最近では、吉田拓郎さんや柴田恭平さん、忌野清志郎さんとか、喫煙歴の長い芸能人の方のがん告白が話題になっていますが、そういう話を聞いても、太田さんは、これはまずい、やめようかなという気にはならないですか。

太田 ならないですね。だって、僕らRCサクセションを聞いていた世代ですけど、忌野清志郎はタバコを吸っている方がずっと魅力的ですよ。今はやめているのかもしれませんけど。

 忌野生前の会話であるわけだが、太田は、いまでも同じことをいうだろうか。いうだろう。ネットには忌野の死と喫煙を関連づけ、「またもタバコが貴重な命を奪った」と結論する意見が少なくないが、太田はそのような見方を採らないと思う。

 かれはいう。

太田 僕が言いたいのは、がんになっちゃいけないんですかという話なんです。だって、がんになった人の感動的なドラマがいっぱいあるわけで、僕自身は、がんがなきゃつまんないだろうとすら思うんですよ。極論すれば、人間、死ななくなったら面白くねえよってことです。たとえば、今は肺結核は不治の病ではなくなったけれど、昔の文士とか、結核が死に至る病だったからこそ生まれた文学というのもいっぱいあるじゃないですか。そういうことは、どう考えるのかと僕は言いたいんですよ。果たして長生きすることが、そんなにいいことなのかと。

 だから、太田は忌野が亡くなったからといって、自分の意見をひるがえしはしないだろう。ここで太田が提言している、そもそも、がんにかかることはいけないことなのか、ひとはだれも皆長生きしなければならないのか、という問題は考える価値があると思う。

 タバコがなぜこうも問題視されるのか。いうまでもなく、健康を害するリスクを高めるからである。しかし、それなら、ひたすらにリスクを減らすことだけが正しく、リスクを増やす行動を取ることは愚かなのか。ぼくは、そうともいいきれないと思う。

 その理屈でいうなら、登山などは愚行としかいいようがないはず。山に登らなければ存在しない遭難死のリスクをわざわざ背負うわけだから。しかし、一流の登山家は一般に賞賛すべきひとと見なされている。この落差は何なのか? 登山のリスクを採るひとと、タバコのリスクを採るひと、両者のあいだに何の違いがあるというのか?

 ぼくには、何の違いもないように思える。両者とも、リスクを支払ってでも得るものがある、という判断を下しているに過ぎない。ただ単にリスクを減らすことだけを考えるなら、最も効率的な生き方は、家から一歩も出ないことだ。

 いや、それでは貧困というリスクを背負うから、最低限の仕事だけはこなし、あとは酒も呑まず、大食いもせず、趣味ももたず、友人ももたず、暮らす。

 そういうライフスタイルは魅力的だろうか? ぼくにはとてもそうは思えない。それくらいなら、いくらかのリスクを背負って何らかの生きがいをもった方がいい、とほとんどのひとが思うのではないか。

 そもそも、どうあがいてもリスクをゼロにすることはできない。生きていることそのものがひとつのリスクなのだ。それなら、自分自身でリスクとメリットを秤にかけ、選択していく行為は愚行とはいえないだろう。その意味で、喫煙は愚行ではない。

 もちろん、だからといって、ひたすらにリスクを増やしていったら、すぐに破滅するだけだ。だから、問題は、いかにしてリスクを管理するかということなのではないか。ようするに、喫煙というリスクを背負う代わりに、人一倍健康に気を配る、そういう生き方もありなのではないか、ということ。

 一見すると矛盾しているようだが、決してそうではない。むしろ、それこそ生きるということだと思う。何のリスクも犯さない人生はつまらない。リスクに満ちあふれた人生はすぐに破綻する。ならば、その中間で、綱渡りしながら生きていく、そして運悪く綱から落ちたなら潔くそのことを受け入れる、それこそ採るべき道ではないか。

 きっと、忌野清志郎もそうやって生きて、そして死んでいったのだと思う。だからぼくは、かれがタバコを吸いつづけたことが間違いだったとは思わない。太田のいうとおりだ。忌野清志郎はタバコを吸っていたほうがずっと魅力的なのだ。

 ――と、このような意見を数年前に発表したところ、実に非難轟々だった。そしてその内容は、曰く忌野清志郎に対する侮辱であるとか、喫煙者と登山者をいっしょにするなとか、まあ、だいたい予想できた反論ばかりだった。

 ロジカルにこちらの急所を狙ってくるような巧妙な意見はひとつもなかったと記憶してる。つまりは、世の中にはそれほど情緒的なタバコ嫌いが多いということ。忌野清志郎がタバコを吸っていたことを否定することは、つまりは忌野の意思を否定しているわけだから、ぼくにはそちらのほうがよほど侮辱であるように思えるのだが。

 そもそもぼくがタバコに注目しているのは、タバコを巡る論争のことが気になるからである。ありとあらゆる議論のなかでも、タバコ論争ほど熱く長くそして不毛なものも少ない。

 それは愛煙家と喫煙家のハルマゲドンである。愛煙家は嫌煙家を「禁煙ファシズム」と呼び、嫌煙家は愛煙家を憐れむべきタバコの奴隷とみなして、もうかれこれ二、三千年はすれ違いを続けているようにぼくの目には見える(もっと長いかもしれない)。

 こういう論争は正確には論争とは呼べないと思う。あえていうなら「擬似論争」とでもいうべきだ。たがいにたがいの陣地を守るばかりで一歩も譲らないので、100年続けても進展を見ないだろう。

 ネットでもこういう議論もどきはしばしば見かける。ぼくはたとえば原発問題などにも同質のものを感じる。推進派にしろ反対派にしろ、自分が絶対の真理を代表していて、あいてはばかばかりだと思っているから、いつまで経っても対等の議論が成立しないのである。 

 あるいは科学的真実や歴史的事実を巡る問題ならそれもいいかもしれない。しかし、喫煙問題にしろ原発問題にしろ、そういうたしかな土台をもつ問題ではないと思うのである。

 それはいわば人間のライフスタイルを規定しようとする問題なのであって、いずれにしろ「正解」などはありえないのだから、まず、とりあえずあいての話も聞いてみろよ、とぼくなどは考える。絶対善と絶対善の、あいてを絶対悪とみなした擬似議論ほど不毛なものはない。

 このとき笑えたのは、どの批判もぼくが喫煙家であることを前提にして書かれていたことだ。ぼくは生まれてからこの方、喫煙していた時期が一度もない「完全非喫煙者」なのに。

 ようするに、非喫煙者は喫煙者を嫌うもの、という思い込みでしか物事を見ることができないひとが大勢いるのだ。喫煙者の立場になって考える非喫煙者、などというものをそもそも想像できないのである。

 北村薫の直木賞受賞作『鷺と雪』には、このようなセリフが登場する。

――身分があれば身分によって、思想があれば思想によって、宗教があれば宗教によって、国家があれば国家によって、人は自らを囲い、他を蔑(なみ)し排撃する。そのように思えてなりません。

 この台詞に倣うなら、「タバコがあればタバコによって、人は自らを囲い、他を蔑し排撃する」といえるだろう。『禁煙バトルロイヤル』の議論はそういったしょうもない擬似議論と一線を画している。

 ぼくは何冊ものタバコ本を読んだが、これほどフェアな本はほかにない。たいていの本は嫌煙家の立場に立って「とにかくタバコは悪。絶対やめなさい」とお説教するか、あるいは愛煙家の立場に立って「そんなのひとの勝手だろ。ごちゃごちゃ言うなファシストどもが」と腹を立てるかなのだ。

 議論とは、こういう思考の限界を飛び越え、あいての立場を思いやり、自分と意見の違う人間に対しても一定のリスペクトを抱ける人間どうしでしか成立しない、きわめて高度な対話形式である。自分の気に食わない意見に対してはすぐさまかっとなって匿名で罵倒して満足するような人間にはとうてい達しえない高みだ。

 太田光のいう「忌野清志郎はタバコを吸っている方がずっと魅力的ですよ」という意見に反発を感じるひともいると思う。しかし、反発をすぐさま激発に直結させるようなひとは議論には向かない。言葉の応酬は大人のたしなみ、しょせんからだだけ育った子供の手には負えないしろものなのだ。

 と、思うよ、ぼくはね。