先日、『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』を読んでから、「絶望」についてぼんやり考えている。

 あの事件の犯人は、絶望している人だ。かれは自分の罪を反省もしないし後悔するつもりもないという。そして、懲役を終えた後はすみやかに自殺するつもりだという。

 それは、まあいい。個人の意志であり、自由である、とひとまずはいうことができるだろう。しかし、ぼくがどうにもうんざりしてしまうのは、そこからひとつの主張を感じ取ってしまうからだ。

 「ほら、おれはこんなに不幸で絶望している。おれの不幸や絶望を救うことができるか? できないとすれば、お前たちの愛も正義もすべて欺瞞だ」と。

 じっさいに犯人がそう口にしたわけではないので、ぼくの思い込みかもしれない。しかし、かれの時に繊細で時に粗雑な社会分析を見ていると、かれは絶望することで社会から自分を遊離させ、社会の欺瞞をあぶり出そうとしているのではないかと思えて来る。

 そして、それはある程度成功しているように思える。なぜなら、この社会ではその構成員全員に幸福に生きる権利がある、ということになっているからだ。

 ということはつまり全員が救われなければウソだという話になるわけで、いま現実に絶望している人はこの欺瞞をつくことができる。

 お前たちは全員が救われるべきだというが、おれは救われていないぞ。社会の犠牲になっているぞ。お前たちのいうことなんて全部ウソだ。欺瞞だ。世にもばかばかしい虚構に過ぎない、と。

 で、仮にぼくがそれに答えるとしたらどうなるか。ぼくはいうだろう。まったくその通り。全員を救うことなんてできません。でも、あなたの反社会的行動は社会にとって迷惑です。だからその行動の責任として課せられた罪状は受け容れてください。死にたいというなら社会に迷惑をかけずに黙ってそこで死んで行ってください、と。

 さて。この場合、ぼくはひどいことをいっているだろうか? まあ、こういうことをいうと基本的人権の立場から怒る人が出て来ることは当然である。

 どんな悪人であっても幸せになる権利はある、ましてこの犯人は哀れな虐待環境の犠牲者である、その可哀想な人物の告発に耳を傾けようともしないで「その場で死んでいけ」とは、お前はなんとひどい奴だ、と。

 まあ、そうかもね。ぼくはひどい奴なのだろう。ぼくはどうしてもどこぞの愛と正義と人権の使徒さまみたいに「すべての人間は幸せにならなくてはならない」と信じることはできない。

 この社会では、どうしたって、絶望して死んでいく人間が出て来るものだとしか思えない。

 「だれも社会から見捨てられるべきではない」というのはほんとうだ。しかし、その理想は理想として、現実には社会の監視の目が行き届かないところで死んだり絶望したりする人間は出て来る。

 そしてまた、そういう人を救うために無制限に社会的リソースを使うわけには行かない。そういうわけなので、「ほら、おれは絶望しているぞ。どうにかして救ってみせろ」という人に対しては、「残念だけれど、無理。死にたければ勝手に死んでね」というしかないと思っている。

 それでは、その可哀想な個人を救えない愛や正義や人権にはまったく価値がないのだろうか。いや、そんなことにはならない。なぜなら、それによって救われている人もいるからである。

 つまり愛も正義も人権も、決して万能ではないが、ないよりははるかにマシなのである。それは限定的な意味しか持っていないが、その限定された範囲の人々は救うことができる。それだけで十分に偉大な概念だといえる。

 ただ、それでもすべての人を救い出すことはできない。自ら絶望することを選んだ人を、無理やり幸せにするようなことはできないし、きょうも殺されて死んでいく子供を救い出すのにすら間に合わない可能性がある。

 それが、現実世界というものである。