おつるいさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
前の記事の結びで「今月もよろしくお願いします」とか書いたんだけれど、よく考えなくてもまだ月末だった。どうして新しい月だと思い込んだのかな。まあいいか。さらにもうひとつ記事を書いてごまかすとしよう。
http://synodos.jp/international/11835
古い記事ですが、この対談、素晴らしく面白かったです。
「なぜ戦争はセクシーで、平和はぼんやりしているのか――戦争とプロパガンダの間に」という刺激的なタイトルながら、内容は具体的でわかりやすく、とても興味深い。ご一読をオススメしておきます。
この対談のなかでは、「平和」が「戦争」に反対するという形でしか定義できないことに「ぼんやり」したものを見いだしています。
つまり、戦争は銃や飛行機やカーゴパンツといった形で具体的な手ざわりをもってイメージできるのに対し、平和はあいまいだと。
実に面白い指摘です。それなら、「平和」を具体的にイメージしやすいヴィジョンとして浮かび上がらせるにはどうすればいいのか。うーん、いかにもむずかしそうです。
なぜそうなのかと考えていくと、結局のところ「平和」とはある種の幻想であるのだという事実に突きあたります。つまり、完全に平和な状態ではすべてのひとは「生」を十全に謳歌できるはずであるけれど、現実を見ればそうはなっていないわけです。
日本は何十年も平和だったというけれど、それでもそこでは年間数万人が自殺していっている。あるいは、近年減少したとはいえ、交通事故で10000人を超える人が死んだりしている。
そうでなくても、人生が辛い、苦しい、死んでしまいたいと思って生きている人間は数え切れない。じっさいには「戦争がない状況」は楽園でもなんでもないわけです。
そして、それにもかかわらず、「いや、それでも戦争状態に比べればずっと良いんだ」、「間違えても戦争を賛美してはならない」という建前がある。
だから、本音のところでは「こんな日常、ぶっ壊れてしまえばいいのに!」と思っていても、それを表出することは赦されない。
つまり、どんなに生きることが苦しくても、「お前のいまの苦しさはまだマシだ」といわれているように感じられるような、そういう状況がこの日本では何十年か続いて来たわけです。
「だから我慢しなさい」と直接いわれるわけではなくても、平和思想にはそういう含意があるように思えてなりません。
そしてまあそれはじっさいかなりの程度まで事実なのでしょう。ぼくだって、毎晩空襲に怯えるような生活が幸せだとは思いません。戦場で補給不足のために餓死したいとも思わない。
しかし――「戦争がない状況」としての「平和」が楽園ではない以上、「戦争のほうがまだマシなのでは?」という疑いは潜在的に残ります。
ただ、通常、平和教育の現場では、それはあくまで「平和ボケ」であり、戦争の実態を知らないからこそ考えることなのだ、だからもっと戦争がいかにひどいのか教えてやらなければならない、というふうに考えられてきたように思います。
こうして建前としての反戦と本音としての戦争への仄かなあこがれは乖離しつづけて行くわけです。
きょう、「右傾化」といわれる現象が起こっているように見えるのは(ほんとうに起こっているのかどうかはわかりません)、そこらへんにひとつの原因があるのではないでしょうか。
平和を大切にしなさいとか、ひとを差別してはいけませんといった訓戒は、表面的にはいかにも正しい。しかし、それはどうしようもなく「高みの視点からのお説教」という色あいを帯びます。
それでも、経済成長が続いているあいだはそのお説教は効果を発揮したかもしれませんが、沈滞の季節を迎えるいま、一気に「抑圧された本年」が噴出しているのでしょう。
それは「悪」でしょうか? そうかもしれませんが、ひと口に「ネトウヨの発狂」などといって済ませられるものではないでしょう。その種の高みに立った傲慢な視点設定は、事態を悪化させる役にしか立ちません。
ぼくは「ネトウヨ」といわれる人たちの気持ちもわかるように思うのです。じっさい、中国の軍事的脅威は幻想とはいい切れないわけですから。
「いや、中国に侵略の意図などない。脅威は存在しない」という人もいます。おそらくそうかもしれないと思いますが、それでも隣国の強大な軍隊は実在するのであって、その圧力は日々、ぼくたちの「平和」にのしかかっている。それは事実。 (ここまで1830文字/このあと1920文字)
私もまた「戦争になるくらいなら、真綿で首を絞められるような地獄の日常を選ぶほうが良い」と思っているので、それをベースに書きますね。
平和を実感するのは難しい。海燕さんが書かれたとおり、敵味方共に血みどろになって死んでゆく戦争は分かりやすいけど、「戦争が無い状態」と言う意味の平和は相対的なもので感覚として分かりにくい。その意味の平和を約70年享受してきた私たち日本人は尚更そうでしょう。
だからもう「戦争は悪いから絶対にダメだ」という一方的な抑止では、みんな納得できなくなってるんだと思います。その上で、なお「戦争は絶対にダメ」というのなら、現実の戦争を断片でもいいから知る必要がある。
しかし、戦争を実際に経験した方々が戦争を語っても、実感の無い我々にとっては想像上の産物でしかない。結局はリアルな戦争を見るしかない。私たちが戦争をわが身の事として考えられるまで現実の情報を吸収する。それは無害な映像を映す置物になってしまったTVでは難しい(概念の話で止まらざるを得ない)。
最終的には「おのおのが戦争について自分で調べるように仕向けること」これしかないのかな。情報を得ようと思ったらいくらでも手に入る(精度はともかく)時代なのだから、いろんな情報に自ら当たって自分の意見を形成することを促したほうが、結果的に戦争の抑止につながるんじゃなかろうかと愚考します。学校や社会に、なんらかの方向性のある情報しか与えられないのが最大の問題。自分で調べるのが結局現実を見る一番の方法。戦争に限ったことではありませんが。
だから、入り口は何でも良い。ガンダムでも艦コレでもガルパンでも銀英伝でも。
あ、劇場公開中の『フューリー』良かったです。主人公の成長物語であり血みどろの地獄であり戦車がカッコいい。そして戦争の異常性をありありと描く。
入り口はフィクションのほうが敷居が低くていいかもしれませんね。
こんなとこです。
長々と本当にすいません。
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