前の記事の結びで「今月もよろしくお願いします」とか書いたんだけれど、よく考えなくてもまだ月末だった。どうして新しい月だと思い込んだのかな。まあいいか。さらにもうひとつ記事を書いてごまかすとしよう。


 古い記事ですが、この対談、素晴らしく面白かったです。

 「なぜ戦争はセクシーで、平和はぼんやりしているのか――戦争とプロパガンダの間に」という刺激的なタイトルながら、内容は具体的でわかりやすく、とても興味深い。ご一読をオススメしておきます。

 この対談のなかでは、「平和」が「戦争」に反対するという形でしか定義できないことに「ぼんやり」したものを見いだしています。

 つまり、戦争は銃や飛行機やカーゴパンツといった形で具体的な手ざわりをもってイメージできるのに対し、平和はあいまいだと。

 実に面白い指摘です。それなら、「平和」を具体的にイメージしやすいヴィジョンとして浮かび上がらせるにはどうすればいいのか。うーん、いかにもむずかしそうです。

 なぜそうなのかと考えていくと、結局のところ「平和」とはある種の幻想であるのだという事実に突きあたります。つまり、完全に平和な状態ではすべてのひとは「生」を十全に謳歌できるはずであるけれど、現実を見ればそうはなっていないわけです。

 日本は何十年も平和だったというけれど、それでもそこでは年間数万人が自殺していっている。あるいは、近年減少したとはいえ、交通事故で10000人を超える人が死んだりしている。

 そうでなくても、人生が辛い、苦しい、死んでしまいたいと思って生きている人間は数え切れない。じっさいには「戦争がない状況」は楽園でもなんでもないわけです。

 そして、それにもかかわらず、「いや、それでも戦争状態に比べればずっと良いんだ」、「間違えても戦争を賛美してはならない」という建前がある。

 だから、本音のところでは「こんな日常、ぶっ壊れてしまえばいいのに!」と思っていても、それを表出することは赦されない。

 つまり、どんなに生きることが苦しくても、「お前のいまの苦しさはまだマシだ」といわれているように感じられるような、そういう状況がこの日本では何十年か続いて来たわけです。

 「だから我慢しなさい」と直接いわれるわけではなくても、平和思想にはそういう含意があるように思えてなりません。

 そしてまあそれはじっさいかなりの程度まで事実なのでしょう。ぼくだって、毎晩空襲に怯えるような生活が幸せだとは思いません。戦場で補給不足のために餓死したいとも思わない。

 しかし――「戦争がない状況」としての「平和」が楽園ではない以上、「戦争のほうがまだマシなのでは?」という疑いは潜在的に残ります。

 ただ、通常、平和教育の現場では、それはあくまで「平和ボケ」であり、戦争の実態を知らないからこそ考えることなのだ、だからもっと戦争がいかにひどいのか教えてやらなければならない、というふうに考えられてきたように思います。

 こうして建前としての反戦と本音としての戦争への仄かなあこがれは乖離しつづけて行くわけです。

 きょう、「右傾化」といわれる現象が起こっているように見えるのは(ほんとうに起こっているのかどうかはわかりません)、そこらへんにひとつの原因があるのではないでしょうか。

 平和を大切にしなさいとか、ひとを差別してはいけませんといった訓戒は、表面的にはいかにも正しい。しかし、それはどうしようもなく「高みの視点からのお説教」という色あいを帯びます。

 それでも、経済成長が続いているあいだはそのお説教は効果を発揮したかもしれませんが、沈滞の季節を迎えるいま、一気に「抑圧された本年」が噴出しているのでしょう。

 それは「悪」でしょうか? そうかもしれませんが、ひと口に「ネトウヨの発狂」などといって済ませられるものではないでしょう。その種の高みに立った傲慢な視点設定は、事態を悪化させる役にしか立ちません。

 ぼくは「ネトウヨ」といわれる人たちの気持ちもわかるように思うのです。じっさい、中国の軍事的脅威は幻想とはいい切れないわけですから。

 「いや、中国に侵略の意図などない。脅威は存在しない」という人もいます。おそらくそうかもしれないと思いますが、それでも隣国の強大な軍隊は実在するのであって、その圧力は日々、ぼくたちの「平和」にのしかかっている。それは事実。

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