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torteさん のコメント

本が読めなくなっても、幸せですか?
No.4
120ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 あけましておめでとうございます。新年が明けて、アメリカのペトロニウスさんとLINEで通話したあとにこの記事を書いています。  昨年はたぶん100時間以上はペトロニウスさんと会話していますね(笑)。いや、誇張でも何でもなくほんとうにそれくらい話しているはずなんですよ。  ぼくはあまりにもたくさん友達と通話するので、よく「女の子でもそこまで話さないよ」とか「いったい何を話しているの?」といわれますが、いやー、話題は尽きないですね。  ここらへんがオタクの良いところで、新しい作品にふれればその作品の話題が自動的に発生するのです。実質的に無限の作品が存在するきょう、話題が枯渇する心配はまったくないといっていいでしょう。  さらにぼくは暇人なのでいくらでも会話ができるわけです。ただ、この暇というのも半分ウソで、マジメにその時代の作品をインプットしようと思った瞬間に忙しくなります。  この世にあふれる面白い小説、漫画、映画、動画、その他を受容し尽くそうと思ったらまさに時間がいくらあっても足りないわけですから。  まあ、昨年は比較的サボっていたんだけれど、今年はもうちょっと頑張って作品受容に努めたいと思います。いつまで続くかはわかりませんが……。  いやー、それにしても、昨年は幸せな一年でした。今年もおそらく幸せな年が続くと思います。ラッキーにしてハッピー。非常に楽しい人生です。  ぼくがこういうふうに書くとむかつく人もいるだろうけれど、そういう人のことを考えるとよりいっそう幸せになりますね。  まあ、それは人間ですから、時には沈むこともありますし、非モテで可哀想な恵まれないぼく、とか自分で信じてもいないことをさもほんとうのように書くことも良くあるのですが、基本的には幸福な人生だと思います。  36年間生きて来て、いまがいちばん幸せですね。ペトロニウスさんとも話したのだけれど、もう過去になんて戻りたくありません。異世界転生してチートな生活を送りたいなんてことも特に思わない。  ぼくは基本的に本さえ読めればほぼそれで満足できる低コストな人なのですが、その感覚はいっそう増している気がします。もう、何はなくとも生きているだけでけっこう幸せ。ぼくは運がいい、恵まれているとつくづく思います。  こういうふうに書くとそれだけで会員がひとりふたり減るかもしれませんけれどね。だからまあ、ほんとうのところ、弱者への共感とか、不幸な人々への配慮といったものはぼくには欠けているところがあるかもしれません。  じっさい、ぼくは精神的にも肉体的にも病と障害を抱えているし、プアだし、いつ崩れ去るかもわからない不安定な生活を送っていますが、それでも、全く不幸ではありませんから。  たぶんね、いまから10年くらい前に「不幸になること」を避ける道を選んでしまったんですよ。幸せになるルートを選択してしまったんですね。だから、いまは否応なく幸せになってしまっている。  これは、友達がたくさんいるからとか、ブログが注目されているから幸せなのだ、ということではないと思います。もちろん、それらの要素はぼくの幸福に大きく寄与しているのだけれど、本質的にはそれで幸せが決まっているわけではない。  そうではなく、人生のどこかのポイントで、ぼくは「不幸になる道」をあきらめたのです。そう、ぼくはよく「不幸になることはもうあきらめました」という表現をします。  あるいは「ほんとうは不幸な人になりたかったけれど、その道は挫折しました」とかね、そういういい方をするわけです。  これがどういう意味なのか、わかる人にはわかることでしょう。それはつまり、「特別な存在、聖なる弱者であることをあきらめました」ということなんですね。  ぼくの人生にもそれなりに大変なことはあるし、まあ不幸といってもいいような側面もたくさんあります。そこをクローズアップすれば、ぼくは自分を「特別不幸な存在」として認識することができるかもしれない。  そして、「こんなに不幸なのだから、自分にはこの世を恨む権利がある」とまで思い込むことができたかもしれません。ルサンチマンですね。  でもね、その道はもうあきらめました、ということなんですよ。仕方ないから幸せになりますね、というね。わかってもらえるでしょうか?  これは、ペトロニウスさんが「ビル・ゲイツになることはあきらめた」などというのと、正反対のように見えて、本質的には同じことです。つまり、「スペシャルな才能ではない、ごく平凡な存在である自分」というものを受け容れることにしたということなのです。  つまり、世界への恨みとか憎しみといった負の情念の導くまま、能力を高め、「成長」していくステージを過ぎ、人として「成熟」するステージに立った、ということなのだと思います。  ひとは若い頃、往々にして「自分の特権性」を探し求めます。「ほかの百億もの凡庸な人々と決定的に違う、特別な存在としての聖なるあかし」みたいなものを探しだそうと努力するわけです。  まあ、中二病といってしまえばそれまでなんですが、それ自体は決して悪いことではないと思うんですよ。「汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンのパイロット」みたいな特別性にあこがれることは、成長過程における自然な心理だとぼくも思います。  そこまでは行かなくても、自分には何か特別な才能があるんじゃないか、と考えたことがある人は少なくないでしょう。  しかし、もちろん大半の人はそんな「聖なるしるし」なんて持っていませんから、どこかの時点で「どこにでもいる平凡な存在としての自分」を受け容れて生きていくことになります。これがひととのしての成熟です。  でも、この時、ひとつ反則的な手段があることはあるわけです。「ひとより恵まれていない不幸な自分」というマイナスのアイデンティティを取得する方法です。 (ここまで2397文字/ここから2927文字)  
弱いなら弱いままで。
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