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memetaa2さん のコメント

 私はこの本を読んでいませんので、海燕さんの記事や外部リンクのあらすじだけを頼りにコメントします。

 この物語は、「極度の馬鹿が人並みの馬鹿に復帰する」話なのではないかと思います。

 主人公は残り数十年の寿命を、数十万円で売ってしまいます。生を軽んじることを馬鹿だとするなら、主人公は最初の時点では大馬鹿です。

 でも、最後には自分が助けた女の子が、自分と一緒になるために寿命を売ったことを喜んでいます。そして、残りの3日間がこれまでで最も価値があるとしています。

 「他人になにかをしてあげたら、何か報いが欲しい」というのは、多くの人間が持っている感情です。以前の主人公ならば、「誰かに何かしてあげたい」とすら思わなかったのではないでしょうか。また、残りの人生に価値があるとも考えなかったでしょう。

 こう考えると、主人公はマイナスからゼロにまで回復した、と言えるかもしれません。これが感動的で面白いかどうかは、実際に読んでいないので分かりませんが。
No.5
110ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
「死に何か期待してる?」 「少なくとも夜明けの船上でガキに撃たれてくたばりたくはなかったわけだ」 ――『攻殻機動隊』  ども。きょうも寝ころんでアニメを見つづける自称プロブロガーの海燕です。このところ、初期の『ドラクエ』並にシンプルなコマンドしかない人生を送っています。はっきりいってわたくし退屈! で、その無聊を慰めようと、三秋縋『三日間の幸福』を読んでみました。  ひとに奨めてもらった作品を貶すのはどうかと思うものの、正直、ぼく的には微妙な出来。ただ、ネットを見て回ると評価は非常に高くて、Amazonでも読書メーターでも「泣ける」、「感動した」という意見がたくさんあります。  ただ、ぼく的にはやはり疑問を解消し切れないので、その疑問点をここに晒しておきます。以下、完全ネタバレです。また、『三日間の幸福』で感動したひとは不快感を感じる内容かもしれないので、ご注意を。  さて、『三日間の幸福』とはこういう話。まず、何となく人生に絶望している青年クスノキが主人公。かれは寿命をお金に代えられるという店で、残り30年の人生をわずか30万円で売り払ってしまう。  かれの余命はのこりわずか3ヶ月となり、監視員としてミヤギという女性が送られてくる。実はミヤギも親の借金の弁済のため、同じ相手に自分の時間を売り、あと何十年もひとに見えない姿で生きていかなければならない身だった。  クスノキはミヤギと仲良くなるうち、眠っていた絵画の才能を目覚めさせ余命の価値を高騰させる。しかし、かれはミヤギの借金を返済するためにその余命も売り払ってわずか3日しか生きられない身となる。  ところが、そんなクスノキのまえになぜかミヤギがひとに見える姿で現れる。実は彼女も寿命を売って自分の人生を買い戻し、のこり3日の命となったのだった。  オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」のように、互いのため大切なものを売り払い合い、そろって余命3日となったふたり。しかし、クスノキはその残された3日間は素晴らしいものになると確信するのだった――。  よりくわしくは以下にあらすじがあります。 http://blog.goo.ne.jp/s-matsu2/e/0526a05129b495dad3feb9d40cccfbc0  で、ぼくはこの本を読み終えて、何とも首を傾げざるを得なかったんですね。たしかによくできた話で、作中のルールを裏切らず感動的な結末に持って行っていることはわかる。  わかるんだけれど、どうしても納得がいかない。これが感動的だとはぼくには思えないんですよ。だって、せっかくクスノキが自分の寿命を売って買い戻してくれた人生を売り払ってしまうミヤギは愚かに思えませんか?  名作「賢者の贈り物」に喩えられている最終章なのですが、正確には「賢者の贈り物」とは構造が違っていると思うのですね。  「賢者の贈り物」では、ある夫婦が、互いが相手も自己犠牲を行っているとは知らずに自己犠牲します。これは納得できる。ですが、『三日間の幸福』ではミヤギはクスノキの自己犠牲を知った上で、いわば後追いで無意味な自己犠牲に走る。これはやっぱりばかげているんじゃないの、と思うわけです。  いや、それくらいクスノキのことを愛していたのだ、ということにしても良いでしょう。ミヤギはクスノキと三日間を過ごせるだけの寿命だけ選んで売り払うこともできたわけだから、残り三日間を残してすべての人生を売ってしまったことは、あきらかに「クスノキのいない世界には生きて行きたくない」という意思表示です。それはまあわかる。  愛する人といっしょに死んでしまいたいという想いは美しい純愛だといえなくもない。しかし、それに対するクスノキの反応が納得がいかないのです。ミヤギが目の前に現れたとき、クスノキはこういう態度を取ります。 「あなたと同じです。全部売っちゃいました。あと三日しか、残ってません」  頭が、真っ白になる。 「クスノキさんが寿命を売った直後、あの代理監視員の人が連絡をくれたんです。あなたが自分の寿命を更に限界まで削って、私の借金の大半を返してしまったということを、彼は教えてくれました。話を聞き終える頃には、私はもう、決めていました。手続きも、彼がしてくれました」  きっと俺は、そのことを、悲しむべきなのだろう。  すべてを犠牲にして守ろうとした相手が、俺の気持ちを裏切り、再びその生を投げ打ってしまったことを、嘆くべきなのだろう。  それなのに、俺は幸せだった。  彼女の裏切りが、彼女の愚かさが、今は、何よりも愛おしかった。  ――ふーん、そうなんだ。幸せなんだ。とぼくは何だか白けてしまうのですが、この反応、どう思いますでしょうか? 疑問には思わないでしょうか?  だって、これ、「俺のために死んでくれてありがとう」、「きみがあと何十年も残っている人生を俺を慰めるため棒に振ってくれて嬉しいよ」という意味ですよね。そうとしか受け取れないわけなのですが。  ここでぼくは「何だ、ほんとはたいしてミヤギの幸せなんて祈っていなかったんじゃん」、「結局は自分が死ぬ時にいっしょに死んでくれる相手ができて喜ぶ程度の愛情なんじゃん」と思ってしまうわけなのです。  というか、こういうことが「愛」だという価値観なんだろうな、と思うわけなのですが。自分が何かを差し出す。相手も何かを差し出す。お互いに犠牲を出し合って満足に耽ることを称揚しているのでしょう。それはちょっとどうかと思うよ。  これはあまりに意地の悪い見方でしょうか。けれど、ぼくはこういうのは自己犠牲とはいわないと思うんですよ。これはつまり、心中の話なのだと思います。人生に絶望したふたりが一緒に死んでしまうというお話ですよね。わずかに残されたその最後の日々だけは幸せだった、と。  感動的な心中ものもあることはわかる。しかし、そもそもすべてがクスノキの30年もの人生を30万円(ほんとうは30円)で売ってしまうという愚行に端を発していることを思えば、やはり白けた気分は消せません。  読書メーターでは乙一の作品と比較して論じている人もいましたが、ぼくにいわせれば乙一の作品とはまったく違う読み味の作品だと思います。  たしかに乙一のいくつかの作品では「相手を救うために自分が犠牲になってもかまわない」という献身が描かれます。「Calling You」とか典型的ですね。  しかし、それはどこまでも一方通行の献身であって、救われた相手はその後も生きて行くという構造になっています。つまり、自己犠牲に対する「報い」はない。  それに対して、『三日間の幸福』は主人公が自己犠牲に対して「相手が一緒に死んでくれる」という「報い」を得ていて、それが感動を呼ぶという構造になっている。  ここでぼくは思うのです。ああ、やっぱり善行をしたら報いが欲しいんだろうな、と。つまりここでは「無償の愛」というものが信じられていない。  たしかにクスノキはミヤギのために無償で人生を投げ打ったかもしれませんが、でも、彼女が同じように人生を投げ打ったことを知って即座に「幸せ」を感じるのだからやっぱり「報い」が欲しかったのです。  あるいはミヤギのクスノキに対する自己犠牲にしても、ただ「かれといっしょに死にたい」、「もうこれ以上生きていたくない」という想いから出ていることは明白ですから、純粋で無償とはいえません。  もちろん、人間心理の描写としてこれは納得いくものではあるし、人間とはこういうものなのだ、という理解のほうがあるいはリアルではあるかもしれません。ただ、これが感動的かというと、ぼくにはそうは思えないのです。  作者はあとがきでこのようなことを書いています。 「馬鹿は死ぬまで治らない」という言葉がありますが、僕はこれについてもう少し楽観的な見方をしておりまして、「馬鹿は死ぬまでには治るだろう」くらいに考えています。  ひと口に馬鹿といっても実に様々な種類の馬鹿がいますが、ここで僕のいう“馬鹿”は、自ら地獄を作り出す種類の人々のことです。 (中略)  ですが、ぼくはこうした馬鹿を、死ぬまでには治るものと考えているのです。より正確にいえば、「死の直前になって、初めて治るだろう」というのが僕の考えです。幸運な人はそうなる前に治るきっかけを得られるかもしれませんが、たとえ不運な人でも、自身の死が避けられないものであると実感的に悟り、「この世界で生き続けなければならない」というしがらみから解放されたそのとき――ようやく、馬鹿から解放されるのではないでしょうか。  このあとがきが『三日間の幸福』の内容について語っていることはあきらかです。つまり、『三日間の幸福』とは、「死がせられないものであると実感的に悟」った主人公が「馬鹿から解放される」物語だというわけです。  ペトロニウスさんふうにいえば、ナルシシズムの檻からの解放の物語ということになるでしょう。しかし、ぼくにいわせれば、作者は死に期待しすぎているように思えます。「死」を持ち上げるあまり、「生」を軽んじてはいないでしょうか。  べつに「命は大切にしないとダメだよ」などと教訓めいたことをいいたいわけではありません。しかし、「生」を軽んじるならば、必然的に「死」もまた軽いものとならざるを得ません。  ぼくにはクスノキにせよミヤギにせよ、まだ生きることの価値を知らないからこそ、それをたやすく投げ出せるに過ぎないように思えてしまうのです。つまり、クスノキもミヤギも「馬鹿」が治っていない。物語はテーマを全うできていないと感じられるのです。  そもそも「馬鹿が治る」とは、「「この世界で生き続けなければならない」というしがらみ」という重くて面倒なものを、それでもなお受け入れるということではないでしょうか。  生きて行くことが辛いから、苦しいから、それを投げ出して愛する人と一緒に死にたい、という想いを否定することはできませんが、しかし少なくともぼくはそういう考え方をする人物を「馬鹿から解放されている」とはいえないと思うのです。  最後、この物語はこう閉じられています。  多分、その三日間は、  俺が送るはずだった悲惨な三十年間よりも、  俺が送るはずだった有意義な三十日間よりも、  もっともっと、価値のあるものになるだろう。  ここにあるものは決定論的な人生観です。右に進めばこうなる、左に進めばこうなる、さて、どっちがいい? どれに価値がある? という人生観ですね。  しかし、人生とは生きてみることによって初めて理解されるものであるはずです。それは「悲惨」とか「有意義」といった言葉で要約できるものではそもそもないのです。  どんな悲惨な人生にも笑顔がこぼれる一瞬があるかもしれず、どんな幸福な日々にも憂鬱が棹さすひと時があるかもしれない。その「価値」を定量的に測って値打ちを決めることはそもそもできない。  クスノキはそのことがわかっていないからこそ、人生を売る店で自分の人生に安値を付けられたとき自暴自棄になって30年を売り払ってしまった。まさに「馬鹿」です。  そして物語が最後まで至ってもかれはまだ「生」の意味するところをわかっているようには見えない。この意味で、ぼくは『三日間の幸福』はテーマの完遂に失敗していると思う。  でも、ネットを探し回ってもそういうことを書いている人は見あたらず、ぼくは首をひねってしまうのです。ぼくが間違えているのかな、と。どうにも合点が行かないのだけれど。  「死」にあこがれ、心中を美しいと思う人がいることはわかる。いっしょに死んでくれる女の子がいたら泣けるという心理もわからなくはない。しかし、それはしょせん「自ら地獄を作り出す」ことと裏表の心理であるに過ぎず、「馬鹿」から解放されているとはいいがたい。ぼくはそう思うのですが、どうでしょう。 
弱いなら弱いままで。
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