ふう。一日休んでしまった。
いや、ちゃんと用意はしていたんですよ? でも、PCが落ちて原稿が消えてしまって――いい訳はいいか。
ペトロニウスさんが三つ前の記事に反応してくれていますねー。ありがとうございます。
もっとも、この記事はまだ完成しているとはいいがたくて、「落差」とか「コントラスト」といった概念はまだ整理しきれていない感じ。
ここにもうひとつ、「つじつま」を加えると、ぼくの「物語の面白さ/退屈さ」に関する話の基礎ができあがる印象です。
この話は「面白い物語とはどんなものか?」という非常にシンプルな疑問から生まれています。
「それはこういうものだ」と解説した本は枚挙にいとまがないのですが、ぼくとしてはいまひとつピンと来ない。
なんといっても、それらを読んでもすぐには面白い物語を分析できるわけではないわけです。
それらは、たとえば「『スター・ウォーズ』はこのような物語構造を採用しており――」、「『DEATH NOTE』はゼロ年代のかくの如き時代背景の産物で――」などと語りますが、非常にもっともらしいものの、「ほんとうにその物語構造なり時代背景が「物語の面白さ」に直接に関係しているのか」と考えると、判然としないところがある。
たとえばある物語がオイディプス神話と同じ類型を用いているとして、だからその物語は面白いのだ、と即座にいえるでしょうか?
構造的にはそういうことになるかもしれません。しかし、あたりまえですが、同じような構造を用いていても面白い物語とそうではない物語がある。その差はどこで生まれるのか?
何より、ひと通り物語理論を勉強してもだれもが面白い物語を作れるわけではないのはどうしてなのか?
ぼくはこのところがひっかかってどうにもならないのです。
そこで、自前でより実践的な物語理論を作りたいところであるわけなのですが、まあそんなもの簡単にできるわけがない。
だから、まずはいくつかぼくが面白いと感じた物語を取り出して「自分はなぜそれを面白いと感じたんだろう?」と分析してみたいと思っています。
そのプロセスがまさにこのブログのいくつかの記事であるわけです。
ちなみにぼくは「面白い」とは、「感情が動くこと」であると思っています。
喜怒哀楽と一般にいいますが、歓喜、哀惜、恐怖、驚愕、憤怒といった感情を引き起こして平板になりがちな日常に刺激をもたらす作品を「面白い」と称するのだという考え方です。
これだと、いわゆる「日常系」を捉えそこねることになりそうですが、日常系もやはり「漠然とした幸福感」をもたらすところに「面白さ」があるわけで、特別扱いすることもないだろうと思います(ただ、どうしてそれが「漠然とした幸福感」をもたらすのか、という問題は残ります)。
たしかに一部の奇形的に進歩した本格ミステリなどは非常に知的/構造分析的な「面白さ」ですが、それでもやはりまったく意外性がない単なるパズルは小説として高い評価を受けない。
よって、「面白さ」とは「感情が動くこと」、したがって、物語の面白さとは受け手の感情を動かすところにある、とりあえずそう定義してかまわないでしょう。
それでは、どのような物語がより受け手の感情を動かすのか?という話をするときに考えたのが、例の「落差」という概念です。
つまり、物語がある状態から、次の状態に移行するとき、その変化が急激で大きいほど物語は面白くなる、という考え方ですね。
もう少しくわしく説明してみましょう。作家の乙一は、『ミステリーの書き方』という本のなかで、物語を次のように定義しています
小説は文字が連なってできている一本の線だ。一本の線には両端がある。つまりはじまりと終わりのことだ。その二つをここでは発端と結果と呼ぶ。すべての物語は発端と結果を結ぶ線なのだ。ミステリを書くならば、発端と結果はすなわち、事件の発生と解決のことである。
しかしその二つを結ぶ線が平坦で何の盛り上がりもなければ読者は飽きる。一本の線をどこかで折り曲げてジェットコースターのレールのように波打たせなければならない。そうして読者の心を揺さぶる必要がある。その折り曲げるポイントを把握するため、私はいつもプロットを書く。
さすがというか、簡にして要を得た説明であるわけですが、ぼくはかってにこの線を「ストーリーライン」と呼ぶことにしたいと思います。そのままの意味ですね。
乙一はまた、物語を左右するイベントが起こり、ストーリーラインが折れ曲がるポイントを数学用語から採って変曲点と呼んでいます。
変曲点(へんきょくてん)とは、平面上の曲線で曲がる方向が変わる点のこと。幾何学的にいえば、曲線上で曲率の符号(プラス・マイナス)が変化する点(この点では0となる)をいう。
さて、このように考えると、ストーリーラインの折れ曲がり方(物語中における状況の変化のしかた)には「角度」と「落差」があることになります。
そして、より「急角度」で、「落差が大きい」変化が「ドラマティック」ということになるのです。
前回取り上げた『ブラック・ジャック』の「ふたりの黒い医師」のエピソードを思い出してみましょう。
あの物語は
コメント
コメントを書く>ひと通り物語理論を勉強してもだれもが面白い物語を作れるわけではないのはどうしてなのか?
これは単純に、理論を分析・理解する能力と、それを実践する能力は別だからだと思います。
例えば、スポーツに関する研究者が、必ずしも良い記録を出せるとは限らないように。
しかし、シナリオ作りにはスポーツや音楽などと異なり、特別な身体能力や技術を問われるわけではないですよね。もちろん、ある種の知的能力は必要ですが、十分に知性を持っているはずの人でも面白い物語を作ることはむずかしい。やはりそれはふしぎな気がするのです。
シナリオ作りでいうのなら、求められるのは「創作能力」でしょうか。
知性を持っていても、面白い物語を作れるとは限りません。しかし、新しい商品を開発したり、人を呼べるイベントを企画できるかもしれません。
知性を十分に持っていても、個々の才能によって生かせられるモノの種類が異なる、ということだと思います。
その「創作能力」とは具体的にどういう能力なのか、持っている人と持っていない人は何が違うのか、が知りたいのですね。ひとりの持っていないものとして……。
創作には知識の有無といった意味での知性はそんな必要無さげ
知識しかない人が書いたら堅苦しいし教科書みたいな内容になる
例えば経営者なら組織運営や経済系のネタを作品に入れられるし医者なら専門的な知識や内部事情を物語に移せる
けどそれだけだと物語と言えない体験記にしかならないし読者に好まれる専門的な知識はどこまでか線引き出来ずに退屈させる
紙に引いた一本の曲線でも、見た目に、おもしろい曲線と、おもしろくない曲線とがあるくらいですから……。物語のストーリーラインでも同じことなんでしょうね。フラットな真っ直ぐの直線とか、サインカーブなどは、明らかに面白くない。ジェットコースターのラインみたいな線は面白く感じる。単純な落差だけでもないと思いますよ。落差でいえばサインカーブ最強のはず。
創作能力が「技術」じゃないという前提ですが、まずそこから見直すべきでは?
面白いストーリーラインを描く一連の操作は、そんなに知的な分野なのかなと。
ギター演奏における運指と同じで、優れた創作者はストーリーの取捨選択を無意識に行えるまでに習得しているわけですよね。なんとなく書けば面白くなっているという高度な領域。だとしたらそれは、なんとなく演奏すれば心を動かす演奏のできるギタリストと、脳のなかで使っている領域は同じなのでは?
ギターの演奏が知的活動ではなく技術とするなら、ストーリー創作も反復運動の果てに体で覚えこむ反射運動系の技術なのでは?
頭が良い人もギターを練習しなければギターが弾けるようにならないのと同じで、頭が良い人もストーリー作りの練習をしなければストーリーを紡げるようにならないということでしょう。