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細田守最新作『バケモノの子』は、父性不在の世界における葛藤を描く傑作映画だ。
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細田守最新作『バケモノの子』は、父性不在の世界における葛藤を描く傑作映画だ。

2015-08-19 00:21
    バケモノの子 (角川文庫)

     「正しい言葉」が、ある。

     大切なあの人に投げかけるべき真実の言葉が。

     そのひと言はすでにのど元まで出て来ている。

     なんと告げるべきなのかもうとうにわかりきっている。

     だから、あとはただその言葉を放ち、形のない銃弾で相手の胸を射抜く、それだけ。

     さあ、早く。

     さあ。

     しかし、どういうわけかその言葉はのどから飛び出さない。

     どんなに必死になってもすべては無駄に終わる。

     懸命にのどを掻きむしればむしるほど、想いは冷め、言葉は遠のいていくばかり。

     待って。

     お願い。

     待ってくれ。

     もう少しでこの想いを言葉にできるんだ。

     しかし、もう遅い。

     だれよりも大切なその人は去っていく。

     切なる想いはだれにも届くことなく、伝わることもない。

     そしてどうしようもなく途方にくれる。

     たったひとり喧騒の町並みに放り出された迷い子のように。

     ひとがひとと対峙しようとすることは、そういうことのくり返しではないだろうか。

     きっとどこかに「正しい言葉」がある。

     それさえ見つけ出せば自分の想いを正しく伝えることができる。

     そう思い、そう信じながらも、どうしてもその言葉を見つけられない。

     だから表現は乱暴に堕し、態度は尊大に変わって、いつしかその言葉を目ざしていたことすら忘れてしまう。

     それが人間存在の哀しむべき一面だろう。

     ディスコミュニケーション。いつだってそればっかりだ。

     細田守がこの夏ぼくたちに送り届けてくれた新作アニメーション映画『バケモノの子』は、そんな切なくももどかしいディスコミュニケーションを繊細に描き出した傑作である。

     世界に見捨てられた少年の成長――そして、かれを育てることによって自分自身が育てられていく一匹のバケモノの成熟。

     つい先ほどまで劇場にいたわけだが、素晴らしい映画体験だったことを告白しておく。

     前作『おおかみこどもの雨と雪』の時はついに入り込めずに終わったが、この『バケモノの子』でようやく細田守の世界に指先が届いた気がする。

     つまりはこの人は恐ろしく真剣で生真面目なのだ。

     かれの作品を見ていると、ついもっともらしく解釈を連ねたくなる欲求に駆られる。

     そもそもこの映画を見る前、前作を敬虔な母性の物語とするなら、今度は力強い父性の物語だろうかと憶測した人は少なくないだろう。

     ぼくもその種の偏見を抱いて劇場を訪れたことは否めない。

     しかし、やはり映画は無心になって見るべきものだ。シンプルに母性だ父性だと割り切れないものがここにはある。

     物語は、母親を事故で喪った少年・蓮が渋谷の街へ飛び出していくところから始まる。

     見知らぬ人ばかりの雑踏で、ほんの偶然、かれは一匹のバケモノと出逢う。

     熊鉄。

     乱暴者で口が悪く、腕っ節こそ強いがまるで人望がない男。

     なぜか蓮を気に入った熊鉄はかれをかってに弟子にしようとする。

     それというのも、現実の渋谷と平行して存在するバケモノの街を束ねる「宗師」の地位が、もう少しでだれかに禅譲されるところだからだ。

     武術の腕前はほぼ互角ながら人徳で大差をつけられているライバル・猪王山を追い抜くためには、掟破りの人間の弟子でも育て上げてみせなければならないというわけ。

     かくして嫌われ者のバケモノと見捨てられた人間の、奇妙な師弟関係が始まるのだが、それは蓮の成長とともに破綻を迎えることとなり――と、プロットはサスペンスフルに進んでいく。

     終盤、蓮が向き合うことを余儀なくされるのはかれが封印した「もうひとりの自分」だ。

     自分自身がそうであったかもしれない可能性。シャドウ。

     その存在は巨大な闇となってバケモノも人間も飲み込んでいくのだが――。

     映画全体を見ればそこまで洗練されたシナリオとはいいがたく、時折り、錯綜する展開を屋台骨が支えきれなくなっていると感じる時もあった。

     しかし、骨太な物語の力とファンタジー特有のマジカルなイマジネーションは、最後まで映画を先へ先へと牽引しつづけ、クライマックスでは美しい展開を迎える。

     その正しくも奔放な想像力の冒険は良質な児童文学を思わせるものがある。

     まさにアニメーションを見る快楽そのものである。

     『バケモノの子』というタイトルだから、熊鉄と蓮の関係を擬似的な父子関係と見、形ばかりのニセモノの親子が本物になっていくプロセスと見ることもできるだろう。

     じっさい、その見方は間違えていないと思う。

     しかし、ぼくはここに「親子」、「父と子」という関係が解体されたあとでのひとりの人と人の真剣な対決を見いだしたい。

     「見捨てられた子供」である蓮はいかにもアダルトチルドレン的に見えるが、かれを渋谷の街に放り出したかに見える大人たちにしても、ほんとうにそこまで悪しき存在なのかはわからない。

     冒頭、いかにも悪役然として描かれている蓮の祖父母にしたところが、真心から蓮を身請けしようとしたのでないとだれにいえるだろう?

     また、蓮のほんとうの父親もまた、別れた妻の死後、必死にかれを探していたのだった。

     だれもが必死で、だれもが懸命、ただそこには「正しい言葉」が欠けていて、だから「正しい関係」にはたどり着けない。そういうことでしかないのではないだろうか。

     蓮と熊鉄の関係もまた一日にして終わっていてもおかしくなかった。

     ところが、どんな奇跡か、ひととの関わり方をしらず、まして愛し方や教え方など考えたこともないであろう熊鉄と、世界から見捨てられたと信じる蓮は、互いの魂の欠けたところを補い合うかのように成長していく。

     いずれが父でいずれが子か、いずれが師でいずれが弟子かは、ここにおいてはもはや重要ではない。

     熊鉄は蓮を育てることによって自分自身のなかの子供を癒やしたという見方もできるだろう。

     だが、ここでも「正しい言葉」は致命的に欠けていて、ふたりはおっかなびっくり、くっついては離れてをくり返す。

     蓮が熊鉄と真剣な関係を築けたことは、ほんのささやかな偶然、「縁(えにし)」というべきだろう。

     はたして人として未熟な熊鉄に親として師としての資格があったのかどうか、それはわからないし、おそらくそんな資格を持っている者はだれもいないのかもしれない。そう思う。

     「先生」という言葉がある。「先に生まれた」と書く。

     じっさい、ひとを教え導く先生とは、「先に生まれた」だけのことに過ぎないのかもしれず、あとはすべて対等なのかもしれない。そうも思うのだ。

     「正しい言葉」がある。「正しい愛し方」が、「正しい教え方」がある。

     けれど、決してそれに手が届くことはなく、ひとにできることはただあがきもがくだけ。

     愛し方なんて知らない。愛され方なんてわからない。

     ひとはだれもが不完全な形でこの世に落とされて、溺れないように泳ぎつづけているだけなのだ。

     熊鉄も。

     蓮も。

     蓮の父親も。

     全知全能と見える宗師だってそうなのだろう。

     その意味でここに「父」はいない。

     『バケモノの子』は、絶対的な父性が不在の世界でそれでも懸命に「縁」をたどり、「絆」を見つけようとする人々を描いた作品だ。

     「正しい言葉」がある。そして「正しい関係」があり、「正しい親子」がきっとどこかにいる。

     いいや、違う、そんなもの、どこにも存在しない。

     じっさいにあるものは、不器用に関わりあいながら、時に愛し、時に憎み、時に成し遂げ、時にしくじる生身の人間同士の関係だけだ。

     理想は遠く、幸福は届かない。それでも、一歩ずつ前へ進んでいこう。

     映画はそう訴えかけているように思える。 
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