どもです。またか、と思われることと思いますが、ブログの名前を変えました。

 「いまどきエンタメ解剖講座」というタイトルで、いまどきのエンタメを解剖していきたいと思います。

 結局、「ハッピーエンド評論家」としてはなんら活動をしないで終わってしまったことになるわけで、これは失敗だったな、と思いますね。失敗だらけなのですけれど。

 もうひとつ、新しいパソコンはどうやら20日あたりに届くようです。

 3年保証込みで70000円程度の安いノートパソコンですが、それでもいま使っている機体と比べると格段に性能が良いはずなんですよね。

 ちなみにぶっ壊れたパソコンは4年前の3月11日、そう、東日本大震災の当日に購入したマシンだったりします。

 だからどうだというわけではありませんが、時が経ったなあ、と思わせられます。

 震災の傷はもとより消え去るはずもないにせよ、ひとつの機械が寿命を終えるだけの時間が流れたのだ、と。感傷ではありますが……。

 さて、きょうは「議論」の話をしたいと思います。「正義」の話といってもいい。

 インターネットを眺めていると、広く一般に、何か主張をする人が議論を避けることは悪いことだ、というコンセンサスがあるように思います。

 自分に正義があることをわかっているなら堂々と議論をすることができるはずだ、ということでしょう。

 なるほど、それは一理あると思います。理屈の上では。

 しかし、現実に目を向けてみると、議論をすることによって事態が改善したという例はほとんど見つけることができない気がするのです。

 議論をすればするほど何が正しいのかあきらかとなり、すべての真実がつまびらかとなって、現状の問題はことごとく解決する、というのはどうやら幻想に過ぎないのであって、ほとんどの議論はただ対立を深める役にしか立たないというのが事実ではないでしょうか。

 なぜそうなのか。

 それは、およそ議論と呼ばれるものはほとんど、自分の「正しさ」ばかりを主張して相手の「正しさ」を否定することに終始するからではないでしょうか。

 少なくともインターネットのレベルでは、議論と呼ばれているものは、いかに相手の主張に耳を傾けず、ひたすら自分の主張をくり返しつづけるか、その勝負という次元に留まっているように思います。

 結果として、議論をした論者は互いに自分の主張の正しさをさらに確信し、より強固な信念を抱くに至る。そしてその主張はより先鋭化することになるのです。

 これがぼくが「議論をすればするほど意見はダメになる」という理由です。

 そもそもその種の議論とは、ひたすらに「自分は正しい、正しいんだ」と主張しあうだけの言語的決闘であって、いささかならず品を欠くことは否めない。

 その種の決闘は、どうしたって一種の権力闘争の趣きを帯びます。

 したがって、初めは純然たるロジックで公正に「正しさ」を見極めるはずだった議論は、そのうち単なる口汚いののしりあいへと堕ちていくことになるのです。

 じっさい、ネットですばらしく白熱しながらなおかつ公正なまま進んでいく議論を見たことがあるという人は少ないでしょう。

 それくらい、議論はうまくいかないものなのです。

 もちろん、