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恵方巻の起源は悲運の皇族・長屋王? 謎の松江藩主・堀尾吉晴とは
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恵方巻の起源は悲運の皇族・長屋王? 謎の松江藩主・堀尾吉晴とは

2014-01-31 08:30
    [caption id="attachment_63985" align="aligncenter" width="500" caption="恵方巻の元祖と伝えられる堀尾吉晴が築城した松江城天守"][/caption]

    2月3日は節分である。節分といえば恵方巻だ。

    さて、恵方巻を初めて食べたのは戦国武将で、松江藩(現在の島根県松江市)・初代藩主の堀尾吉晴(ほりお・よしはる)だという話をご存知だろうか? 恵方巻はよく知られているように大阪の海苔問屋が広めた風習である。海苔問屋では、堀尾吉晴が恵方巻の元祖だといっているのだ。

    (恵方巻は、)戦国時代の武将(堀尾吉晴といわれる)が、節分の日に丸かぶりをして出陣したら戦に勝ったので、以後瑞祥としたことに端を発する。

    ※沓沢博行氏が紹介する、大阪海苔問屋協同組合の事務局長の職に就いていた藤森秀夫氏からの聞き取り

    陰陽道で安倍晴明が定めた“恵方”を向いて食べていることからみても、なにかこの堀尾吉晴という人物は呪術に関係がありそうではないか。堀尾吉晴と恵方巻のことをもっと調べようと、松江市教育委員会に早速電話してみた。

    ■堀尾吉晴は今でも松江では神として祀られている
    「堀尾吉晴さんと恵方巻についてお話を聞きたいのですが」と筆者が言うと、「吉晴公ですね」と、職員の皆さんは堀尾吉晴に敬称をつけて呼んでいるのが印象的だった。松江では、やはり堀尾吉晴は神さまであった。市内の松江神社の祭神は堀尾吉晴公なのだという。

    地元の古い歴史に詳しい、史料編纂室の稲田氏にお話を聞いたところ、驚くべき回答があった。

    「堀尾氏については活躍の時期が畿内で、豊臣秀次の宿老をやっているなど相当活躍していたので、知名度が高かったことは考えられる。出雲に来たのはだいぶ後なので、むしろ、松江では資料が少なく分かっていないことが多い。

    堀尾吉晴公が恵方巻きを食べたという話は初耳です。ただ、当時は風水や方角を相当気にしていたことは事実なので、関連性もあるかもしれない。今の松江では恵方巻の風習はありません。最近になって関西から入ってきました。大阪では堀尾吉晴公は太閤記の講談にも出てくるので人気がありました。

    (稲田氏)」

    ――大阪の講釈師が堀尾吉晴公と恵方巻を広めたのかもしれませんね。

    「ええ、吉晴公は秀吉の合戦にもほとんど出ていましたし、大阪では知名度はあったと思いますよ」

    この話を手がかりに、“風水や方角”を気にしていたということで、堀尾吉晴と呪術の関わりについて、さらに調査したところ、意外なことがわかった。堀尾吉晴はなんと、偉大な魔術師の子孫であったのだ。吉晴は奈良時代の左大臣、陰陽道の呪術に長けたことで有名な長屋王(ながやのおう)の子孫なのだ!

    ■堀尾吉晴は陰陽道の大家・長屋王の子孫。呪術に長けていた?

    野史に詳しい東京大学名誉教授の竹内理三さんが編纂した『角川日本史辞典』には、長屋王についてこうある。

    ながやのおう 長屋王 684ー729(天武13-天平1)

    天武天皇の孫。高市皇子の第1皇子。(中略)724年(神亀1)聖武天皇即位とともに左大臣となり、藤原氏に対抗するする勢力をなした。729(天平1)密告により邸宅を囲まれ、天皇の命により妻子とともに自殺。これを長屋王の変という。藤原氏陰謀の犠牲となったと考えられている。

    その罪状は「習得した陰陽道(左道)を駆使して時の天皇とその近臣を呪った」という、ライバルの藤原氏の陰謀であったことがほぼ定説となっている。なお、竹内さんのいう“密告者”は後に不審死を遂げている。堀尾吉晴は、長屋王の唯一許された孫、磯部王の子孫・高階一族の末裔である。

    ■「陰陽師でもないのに陰陽道に通じた」高階一族は密教・修験道・神道の行者を輩出。一族には“後宮の女帝”・高階栄子も!
    高階一族は「子孫には諸省の卿・国守などを歴任、院政期には院の近臣として権勢をふるうもの多く、後白河法皇の寵妃・高階栄子も同族の出である(竹内さん)」というから、藤原氏の襲撃により潰された後も、隠然たる勢力を持っていたようだ。高階栄子は、昔の大河ドラマ『義経』で、夏木マリ演じる美貌の妖妃として登場している。市川ジュンの名作マンガ『よう輝妃』の主人公としても有名である。

    「正式な陰陽師の官位もないのに、陰陽道に通じているので破滅した」といわれた藤原信西も一時期『高階通憲』を称していたし、一族からは天台密教総帥・天台座主や、修験道の元締め・京都曼殊院や醍醐寺三宝院の僧も出ている。ほかに有名人では室町幕府で権勢を振るった高師直がいる。

    長屋王家(高階氏)は平安貴族の中でも特殊な霊能力を持つ家とされていた。更にそれに拍車をかけたのが、伊勢神宮の巫女のトップ・斎宮を母に持つ養子をもらったことである。

    伊勢神宮の斎宮は霊能力が高く、生きながら龍に変化して敵対者を蹴り殺したという話が、天台座主・慈円の史書・『愚管抄』に残っている。

    堀尾吉晴は高階業遠の四男の一族で、ここの家は特に修験道との関わりが強い。(下図参照)

    堀尾吉晴は陰陽道に詳しかったようで、松江築城の時も“鬼門封じの寺社”を千手院・華蔵寺・普門院(もと豊國神社)を建て、荒神を鎮める呪術をするための「祈祷櫓(きとうやぐら)」という櫓も作っていた。

    祈祷櫓、などという呪術用の櫓は他の城にはない。鬼門封じの寺社が複数見られるのも、江戸城を除いて、ほかの城にはない。

    松江は小泉八雲が後に『怪談』を書くような街であるから、怪奇現象が多く伝わっており、吉晴がそれを鎮めたという伝説もいくつか残っている。家臣も易者の小瀬甫庵(おぜ・ほあん)がいたし、吉晴の友人にも謎の虚無僧(城の人柱になったとも、祈祷櫓に住んだともいう)など、呪術者が多くいた。

    小瀬甫庵は風水や易学に詳しく、松江城の縄張りも甫庵の作だという。

    しかし、堀尾家は怪奇現象による一族の不審死が相次ぎ、約30年で徳川幕府に、跡継ぎがいたにもかかわらず「養子の禁制を破った」といういちゃもんを付けられ、滅ぼされてしまった。堀尾本家は徳川の一族で松江を治めた松平家の家老になったが、一族・家臣は散り散りになった。小瀬甫庵も講談師・医者・易者として流浪の道を歩んだという。甫庵の太閤記には、『修羅場読み』と言われる、講談調の描写が含まれているという指摘もある(岩波古典文学大系『太閤記』解説より)。そして、恵方巻発祥の地・大阪は講談の盛んな街であった。

    ■呪術に詳しい堀尾吉晴・小瀬甫庵が恵方巻を広めた?
    堀尾吉晴が恵方巻を始めた、という説は、甫庵の話が、講釈師の口伝として、人から人へ言い伝えレベルで残ったのかも知れない。実は、堀尾吉晴は賤ヶ岳の戦いの時に、秀吉に命じられて握り飯などの兵糧を支度させられており、その後独断で戦線を離脱して出陣、大勝利しているのだ。これが恵方巻の起こりであり、堀尾旧臣で呪術に詳しい小瀬甫庵が“恵方”や“丸かぶり”を考案したのではないだろうか? そして、講釈師の口伝えで広まるうちに、細かい由来がいつの間にか抜け落ちたのではないだろうか? 霊能力に優れていたにも係わらず、謎の滅亡をした堀尾氏を鎮魂するために、小瀬甫庵が考案した呪術こそ“恵方巻”だったのではないだろうか?

    しかし、ここで問題が出てくる。戦国時代には、今のような板海苔がなく、海苔巻きはなかったのだ。では、堀尾吉晴が食べた“巻きずし”とは、何なのだろうか? これも実は解決できるのだ。戦国時代には、兵糧『笹巻毛抜ずし』という、笹で巻いたお寿司があった。

    小瀬甫庵という人は易学で歴史を読み替えることが好きな人だった。元々、節分は易学でいう『一陽来復』で、これを一本の黒い太棒で表す。これが甫庵の弟子たちの伝承の中で、江戸末期から明治にかけて恵方巻の巻きずしにやがて変化したのではないだろうか。花街で伝えられたというのも、花街に講釈場が多くあったという古老の言い伝えと一致する。池波正太郎の回想によれば、明治大正期は、日頃忙しく働いている庶民が花街の映画館に行けるのは、正月のときだけだったという。花街以外にこの風習が広がらなかったのも、庶民が中々花街へ行けなかったから……かもしれない。

    恵方巻を食べるときに、こういう話を思い浮かべながら食べるのも、また一興ではないだろうか?

    (参考文献・取材協力)

    論考・光武敏郎『堀尾吉晴』(秋田書店・歴史と旅臨時増刊・戦国武将総覧所収)

    論考・小椋一葉『悪疫病という名の死魂 長屋王』(秋田書店・歴史と旅・1994・9月)

    論文・沓沢博行『現代人における年中行事と見出される意味 一恵方巻を事例として- 』(『比較民俗研究』2009・3)

    松江市教育委員会、他、多数の方々からご意見・ご教示を頂き御礼申し上げます。

    ※画像引用元

    松江城:ウィキペディア

    (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsue_castle01bs4592.jpg)

    系図:筆者自作

    ※この記事はガジェ通ウェブライターの「松平東龍」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?

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