「徒桜」
桜を見上げて思うのは、今年の桜を見ることができなかった人たちのことだ。
白い花びらの一枚一枚にあたらしい春を迎えることなく旅を終えた人たちの顔が重なっていく。
今年は特にだ。この三ヶ月でスマートフォンの電話帳に繋がらない番号が三つも増えた。
若い頃は桜が咲くことに喜びしかなかった。新しい季節の始まりに対する期待しかなかった。もちろん見上げた桜に娘を重ね合わせると今だってそういう思いになる。でも、同時に哀しさの成分が年々色濃くなっているような気がする。数年前までは「あと何回桜が見られるんだろう」という自分自身の限りある未来についての悲哀だった。けれど、今年の桜を見られなかったという現実はそれ以上に質量の ある悲しみだった。
たぶん、 5 年前の 3 月に父が亡くなったときからだと思う。父の亡骸とともに病院を出ると市道の桜並木が花開いていた。 3 日前に病院に担ぎ込まれたときはまだ蕾だった。あと一歩で今年の桜を見ることができなかったことが父の無念さを象徴しているように思えたのだ。
これが人生を重ねるということなのだろうか。年を取るということなのだろうか。...