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  • 「手編みの靴下」

     毎年、冬になると母が手編みの靴下を編んでくれる。最初は娘にだけだったが、「私も欲しいです」と妻が言い、「ならついでに」とぼくの分も編んでくれるようになった。冬の朝、布団を出るときは必ずこれを履く。家で仕事をしているときもソックスではなくこれを履いている。手足が冷たくなる冬もこれを履いているだけで暖かい。    「今年も編み上がったわよ」という報せを受け、週末に母の元を訪ねた。    母の作業部屋で編み上がった靴下をそれぞれ頂く。それぞれに似合う色を母なりに考えてくれたらしい。毎年のことながら感謝しかない。と、娘がミシンを興味津々に見入っていた。 「何か作ってみる?」と母が言った。娘は少し考えてから言った。 「じゃあ、給食袋」  膨大な端切れの中から気に入った生地を選び、鋏で切って、縫う。娘にとっては生まれて初めてのミシンだ。保育園の頃から毎日使っているものではあるが、それがどのような構造をしているかまでは考えたこともなかったのだろう。紐を通すところはこうなっているんだよ、と小さな発見をするたびに目を輝かせて伝えに来てくれた。  子どもの頃はどの家庭にもミシンがあっ...

    2日前

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  • 「愛着」

     若い頃は数年に一度車を買い換えていた。 「節税対策になります」という税理士の先生のアドバイスだった。    売却のたびに想像以上に価値が下がっていることに落胆しながら、 5 台の車に乗った。どの車も好きだったけれど、節税の為には買い換えが当然だと思っていたからそこに感情は伴っていなかった。同じように住む場所も、服などの私物も手放すことに何の感情もなかった。モノに対する愛着が薄かった。何にも縛られず、身軽でいたい。自由に対する執着の方が勝っていた。  今の車は新車で購入して 11 年目になる。 18 歳で免許を取ってから乗り継いできた車の中でもっとも長い時間を共にしてきた。 「かわいいからこれがいい。これなら私も運転できそうだし」  選んだのは妻だった。   3 年後に娘が生まれた。後部座席に取り付けたチャイルドシートに乗せて産婦人科から家に連れて帰って以来、 8 年間娘を乗せて走り続けている。寝かしつけ。保育園の送り迎え。通院。家族旅行。家族の想い出が詰まったもうひとつの家だ。大切にメンテナンスしてくれる小さな工場と出会ったおかげで 故障しても修理して乗...

    4日前

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  • 「道草」

     下校時間が過ぎても娘が帰ってこない。    心配になって GPS で現在位置を確認しながらいつもの待ち合わせ場所に向かう。校門を出て少し進んだところでいつまでも止まっているなと思ったら少しだけ進んだりを繰り返している。ゆっくりゆっくり歩いているようだ。あぁ、誰かと一緒なんだなと安心する。ひとりのときはこちらが驚くくらいのスピードで脇目も振らずに歩いてくるからだ。  待ち合わせ場所に着く。娘はまだ学校を出たばかりのところでうろうろしている。何をしているんだろう。虫か何か見つけたんだろうか。それともジャンケンで勝った分だけ進むといった類いの遊びでもしながら歩いているんだろうか。  うららかな冬の陽射しが降り注いでいる。少し眠くなる。暇だなとコートのポケットに手を入れると 文庫本が入っていた。出掛けにポストから受け取ったところだったのを思い出す。ツイてるなと思いながら立ち読みを始める。   10 ページほど読み進んだがまだ娘は来ない。校門を出てからかれこれ 30 分が過ぎている。子どもの足でも歩いて 7 分くらいの通学路だ。何してるのかなと思いながら改めて GPS で現在位置を確認する。通...

    6日前

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  • 「真名瀬の残照」

     夕暮れの 134 号線を葉山に向かっていた。後部座席の娘は窓の外を見つめて黄昏れている。これから大好きなバレエレッスンなのに元気がない。また学校で何かあったのだろうか。心配になって話し掛ける。   「黙ってて。今俳句考えてるから」  ぴしゃりとそう言われた。娘の中では今、俳句がちょっとしたブームらしい。  先日夕焼けを見たときに「秋の夕日に照る山もみじ」という歌詞を教えたのがきっかけになったようだ。秋。夕日。山。もみじ。別々の存在が太陽の力でひとつの色に溶け合っていく。鉛筆で文字を書いているうちにいつの間にかモノクロだと思い込んでいたのだろう。言葉が色を纏っていることに驚いていた。赤、青、黄色のクレヨンを使わなくても、緑、橙、紫という言葉を使わなくても、豊かな色彩を表現できることの愉しさを知ったようだ。  お腹空いた。喉渇いた。眠い。これは好き。あれは嫌い。生きていく為の道具だった言葉が人生を豊かにしてくれるものに進化している。成長を感じる。  御用邸を過ぎると信号のない細く曲がりくねった道が続く。しおさい公園。神奈川県立近代美術館。沈む夕日に追い掛けられるように走っ...

    2024-12-13

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  • 「一日一漸」

       毎日何かひとつ締め切りがある ( それはとても感謝すべきくことだし、うれしいことだ ) 。本当は二つも三つもあるのだけれど、一日にひとつしかできない。若い頃は頭を切り替えて二つも三つもこなしていたような気もするのだけれど、ひとつの原稿に対する責任感や到達度が上がったからか、もしくはぼく自身のパフォーマンスが落ちたかで当時のようには行かない。    毎日向き合う原稿のそれぞれがまるで違う脳を使う。月曜には月曜のぼくがいて、火曜には火曜のぼくがいる。自分でも明確に書き分ける為にこれは小原信治の仕事、これは青葉薫の仕事と気がついたら区別するようになっていた。  頭を切り替えるには走るか、酒を呑むか、さもなくば眠るしかない。日をまたぐときは眠っている間にも思考が続いている。だから眠りが浅い。一方でクライアントに原稿を送ってしまった後は眠りが深い。翌日に直すことになっても自分の中では一度手放しているから客観的な作業として対応できる。  中には一度書いたら終わりではなく、小さな締め切りを何度も重ねてキャッチボールしながら紡いでいるものもある。一度潜水した場所に休憩を経てもう一度潜っ...

    2024-12-11

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  • 「Your My Only Shinin' Star」

     同じ教室で一緒に勉強していたひとりがある朝突然いなくなったような喪失感があった。一度も話したことはなかったけど時折り振り返って髪を掻き上げながら鉛筆を走らせる俯いた顔や友達と笑い合っているのを盗み見ていた人―――。  翌日の朝、同じ1969 年生まれの同学年の方とオンラインで打ち合わせがあった。日本で生まれ育ち、今は外国で暮らしている方だ。 「ショックですよね」開口一番その方が言った。 「ショックですよね」ぼくも言った。  ただそれだけで色々なことが分かり合えた。  出会ったのは 15 歳の冬だ。 春からの高校生活は同じ年だった彼女の華々しいデビューとともに始まった。同学年のトップランナーを走り続けてきたひとりだった。   15 歳からの人生が走馬灯のように思い起こされた。  20代のとき「とんねるずのみなさんのおかげです」という番組で彼女にコントを書かせて頂いたことがあったのを思い出した。  2024年12月6日金曜。教室の机がひとつ空いてしまったような淋しさ がいつまでも消えなかった。

    2024-12-09

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  • 「世の中には悪い奴もいるんだよ」

     娘が学校で泣いた。    失くした文房具が壊されて机の上に置かれていたそうだ。すぐに先生に訴えた。「心当たりのある人は正直に名乗り出るように」と先生は言った。「こんなに悲しいことはない」と。  誰からも手が挙がることはなかった。壊した本人でなくとも、机の上に置いた人物すらも名乗り出ることはなかったという。  悪気があるのかないのか。泣いている娘を見て、先生の話を聞いて、胸は痛んだのか。罪の意識は芽生えたのか。芽生えた罪悪感は小さな心にはまだ重すぎるのではないだろうか。  娘のことも心配だった。みんなの前で泣いたことが傷になっていないか。かわいそうと思われたことでプライドが傷ついていないか。  担任の先生からも電話で報告があった。子どもたちの未来のために今何をすべきかを深慮されていた。大人として分かり合えることも多かったが、決定的に分かり合えない部分もあった。子どもを傷つけられた親は性悪説で、傷ついた子どもも傷つけた子どももそれ以外の子どもも平等に見ている先生は性善説だということ。いじめは低年齢化している。小学校二年生がピークである。新聞などでそんな統計を...

    2024-12-06

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  • 「うたごえ」

     週末、鎌倉に合唱を聴きに出掛けた。義父が所属する合唱団の公演だ。メンバーのほとんどがシニア層。高齢者の合唱という光景にまたひとつアフターコロナを実感した。     2024 年、義父にとっては妻を、妻にとっては母を、娘にとっては祖母を、そしてぼくにとっても母親のひとりを亡くした一年だった。発病から数年に渡る闘病に寄り添ったことも手伝ってか、時間が経つに連れて喪失感が波のように何度も押し寄せてきた。昨日までのそんな日々のことが歌声の中に走馬灯のように甦ってきた。  泣けばいいんだ泣けばいい  ひとりのときは泣けばいい  中盤で歌われていたのは先日急逝された谷川俊太郎さんの作詞による合唱曲の数々だった。義母が亡くなった後、合唱団に加入した義父が歌うことで悲しみを乗り越えてきたことが伝わってくる。  後悔をくり返すことができる  だがくり返すことはできない  人の命をくり返すことはできない    長年人生を併走してきた伴侶を亡くした義父だけではない。共にステージで歌っているメンバーのひとり一人がいろいろなことを経て今このステージで歌っているのだと思う。  すべ...

    2024-12-04

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  • 「海はラブリーかい?」

     大竹海岸を訪れたのは 23 年振りだった。    茨城県鉾田市。長い海岸線沿いを走る国道 51 号線。潮で錆びた看板。放置されたままの廃屋や廃車。外国の田舎町のようなその風景に魅了されたのは 32 歳のときだった。 2001 年 7 月期の連続ドラマとしてテレビ朝日で放送された「早乙女タイフーン」。夏の海水浴場を舞台に活躍するライフセーバーたちの物語。その舞台に選ばれたのがこの大竹海岸だった。  キャストやスタッフの移動時間を考えると本当は東京から程近い湘南や千葉の海が良かったのだろうけど営業中の夏の海水浴場でドラマの撮影許可が降りることはなかった。けれどライフセービングというビーチカルチャーがオーストラリアの発祥であることを思うとやはり「いばらきのゴールドコースト」と呼ばれる大竹海岸以外に相応しい場所はなかったんだと思う。  脚本を書いたぼくも幾度となくこの海を訪れた。実際に執筆していた場所は横浜の自宅だったけれど最終話を脱稿するまでの半年間、精神はいつもライフセーバーたちと一緒にこの大竹の海にいた。彼らのひと夏の青春を海岸の上の方でいつも見守っていた。放送が終わった後もし...

    2024-12-02

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  • 「おおあらいでおおわらい」

     サメには軟骨しかないと知った。おまけに内臓を守る肋骨もないので腹部がウイークポイントだということも。サメの凶暴さはボディの弱さを隠す為のものなのかもしれない。解説を聞きながらシャークなんとかという名のボディが打たれ弱いハードパンチャーのボクサーを想像していた。    大洗水族館はサメの飼育に力を入れている施設だ。日本最多の 50 種類が展示されている。子どもが生まれてから水族館に行く回数が増えた。油壺。江ノ島。鴨川。そして、大洗。娘がいなかったら水族館なんてどこも同じだという認識で終わっていたと思う。 立地場所の海にどんな魚が生息しているかを再現してくれているのが興味深い。水族館のある町の居酒屋や寿司屋で地魚を注文する時の参考にもなる。旅先で刺盛りが運ばれて来たときに「これ今日、水族館で泳いでたね」なんて妻と盛り上がったりする。娘はぽかんと見ている。まあ、あまり良い使い方とは思えないけれど。  娘は今やぼくよりも魚に詳しい。「だって海っ子だもん」と知っている魚介の生態を解説してくれる。ぼくはうんうん、と聞いている。そういうときはいつも水槽の魚じゃなくて娘の横顔を見ている...

    2024-11-29

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