大好評「ゼロワンを作った男」中村祥之インタビュー第3弾。今回は20000字のロングインタビューで伝説のエンタメイベント『ハッスル』を振り返ります! イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付き!
中村祥之インタビュー
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長州さんは『ハッスル』の可能性を感じて「これ、天下取れるぞ!」と言いました
――ミャンマー、ネパールと海外でのプロレス興行が続いてたことで、海外滞在が長かったようですね。
中村 今年に入ってからは長かったですね。1月20日にミャンマーに入って、4月のネパールの大会が終わるまでですから、ちょうど3ヵ月。そのあいだ日本にいたのは10日間くらいで。現地で興行の準備はもちろんのこと、後始末もやらないといけないですから。
――興行をやってすぐに帰ってくるわけにはいかないんですね。プロレス初開催となったミャンマーは、興行前からトラブルが相次いで大変だったようですし。
中村 そりゃあもう大変でした。会場も変わるどころか、日にちも変わる(笑)。
中村 予定していた会場が使えなくなったことで日時を変更することになったんです。どうして使えなくなったか? 使用する会場は国が管理しているんですけど、ミャンマー新政府が集会をやるから貸せない、と。
――納得できない理由ですよね、それ(笑)。
中村 ちょうど新政府に移行していた時期なので、お上には逆らえないし、異議申し立てできない。海外での興行ではよくあることなんですよね。直前で会場が使えなくて、空き地でやったりするケースもあるし。
――というと、会場が使えないことも予測してたんですか?
――ギリギリの会場変更は想定してなかったんですね。
――それで日時を1日早めて2月12日やることになったんですね。
中村 選手の日程も、いろんなトラブルを想定して10日着にしてたんです。遅い組でも11日着。何か問題があって現地入りできないかもしれないので。そうやって備えていたことがラッキーでしたね。12日に試合だったので、これが12日着だったら間に合わない。
――トラブル対策が功を奏したんですねぇ。
中村 2月2日に12日に変更しますと発表したんですけど、現地としては当然延期すると思ってたんでしょうね。「どうする?」と聞かれて即座に「やります」と答えたら「本気か?客は入らないぞ」と。それでもやろうとする僕の熱意を知ったラウェイ協会さんと信頼関係が生まれて。会場だけじゃなくて興行ライセンスもラウェイ協会さんから借りれることになったんです。
――ミャンマーで興行をやろうとした以上、ライセンスは持ってたんじゃないですか?
中村 いや、それが僕も知らなかったんですけど、ミャンマーには3種類の興行ライセンスがあって。田舎で興行ができるライセンス、国内最大都市ヤンゴンでやっていいライセンス、あとミャンマー全土の中で国際選手を招聘してやっていいライセンスがあったんです。僕らは最後のライセンスを持っていないと興行をやっちゃいけなかったんですよね。
――ライセンスの詳細を知らなかったんですか?
中村 知らなかった。現地のパートナーも知らなかった。
――では、もし日程トラブルがなくてラウェイ協会との接点が生まれなかったら……。
中村 選手たちは空港で入国を止められて興行はできなかったでしょうね。日程がズレてラウェイ協会の人たちに知りあえてよかった。ラッキーだった(笑)。
――不幸中の幸いどころじゃないですね(笑)。チケットはどれくらい売れたんですか?
中村 お客さんはおおよそで2000名くらい。チケットも刷り直しで、10日間しかないわりには頑張ったかなって。プレイガイドと言われているところで売れたのはたったの17枚ですからね。当日券でどれだけ動くのかが勝負で。
――プロレス初観戦のお客さんの反応はどうでしたか?
中村 僕が想像していた以上にお客さんの反応はよかったです。プロレスを楽しんでました。オープニングに「プロレスとは……」という紹介映像を流したんですけど、それだけでドカンと沸いて。
――前回のインタビューでは、プロレス未開の地で女子プロが強いという話をされてましたけど。
中村 もう沸きに沸きました。「おしんの娘」という名前でね、やってもらったこともあって(笑)。
――おしんの娘って(笑)。やっぱりアジアでおしんは強いですねぇ。
中村 ミャンマーでも浸透してるんですよ。「おしん」と言っただけでドカンですよ(笑)。
――おしん最強!(笑)。
中村 アジアの女性は基本的に格闘技に興味はないんですけど、おしんだけにはひっかかるということですね(笑)。
――「WWE=プロレス」と認知されているミャンマーで、田村潔司選手をメインに据えたのは意外だったんです。田村選手のスタイルだと正直、客受けは悪いだろうな、と。
中村 やっぱり「メイドインジャパン」のプロレスを持って行きたかったんですよね。WWEのマネはできるんですよ。でも、日本のプロレスを見せたくて。ただ、大谷(晋二郎)社長が海外に行けなかった時期で。子供さんが生まれるかどうかだったので、そこは無理は言えなかったんですね。大谷晋二郎を外したら、鈴木秀樹選手も日本風ですし、大きな会場の見せ方でいえば、KENSO選手もいる。田中(将斗)選手はリングの対戦相手はもちろんのこと、お客さんとも戦うことを知ってるので信頼できる。
――その中から田村選手を指名したんですね。
中村 日本のプロレスはWWEとは違うし、「プロレスってなんなんだろう?」とミャンマーの人に考えさせるような試合を見せたかったんです。ただ、田村さんは、ちょっとナーバスになってましたね。かなりの年数、プロレスの試合をされていないこともありましたし、周囲のレスラーや関係者は田村さんのことを知ってる人ばかりではない。そこを少しでも和らげようとして、U-FILEの大久保選手にもミャンマーに来てもらたっりしたんですけど。
――田村選手が戦いやすい環境を作ろうとしたんですね。
中村 でも、田村選手は対戦相手のジェームス・ライディーンのことを知らないじゃないですか。ミャンマーの人も、田村選手のようなプロレスは見たことない。そういう意味では、いろいろと難しかったかもしれませんけど、田村選手の佇まいは、さすがのものがありますよね。「プロレスはショーだ」と見ているお客さんに「あれ、これはなんなの……?」というエクスキューズは出せたし、今回はミャンマーにはどういうプロレスが向いているのかっていうリサーチ興行にはなりましたよね。ラウェイ協会の方に「事前にテレビでコマーシャルを流していれば、反響はもっと違かった」と言われたり、メディアも100社くらい取材に来てくれていたので。
――次回開催はもっとやりやすくなったんですね。
中村 「年内いつでもできるよ」とは言われてるんですけど、心の準備が……。自分のテンションが高まらないと、できるもんじゃないですよね。ミャンマーをやって次はネパール。いまはちょっと海外でプロレスの興行というエネルギーはないです(笑)。
――ミャンマーに続いて行われたネパール大会は、ひさしぶりの興行だったんですよね。
中村 ネパールは13年にやったのが最後でしたね。大地震で街が壊滅状態。多くの建物が壊れたままで、ネパールの人たちもネガティブな感情を持っていて、向こう10年はプロレスはできないと言われてて。そんな中、去年の年末くらいから「ネパールでプロレスでやりたい!」という若者がチームを作っていて、プロレス開催の機運が高まってたんですよ。でも、いろいろと問題はあって。まず会場の国立競技場は使えても、客席は震災の影響でブロックされてるんですよね。ひび割れの補修には何年もかかるだろう、と。だからグラウンドだけを使ってやることになったんですけど。
――普通だったら開催が難しい状態だったんですね。
中村 地震のあと、ネパールではコンサートから何から何まですべて自粛してたんです。ちょうど僕らの興行と同じ日にクリケットの国際戦が復活したくらいなんですよ。
――明るいニュースとしてプロレス興行は歓迎されたんじゃないですか。
中村 歓迎されましたね。国家元首が会場までに来てくれて。
――国家元首が!
中村 国家元首が来てくれたってことで、興行の様子が翌日の新聞にも載ったんですよね。ありとあらゆるテレビや新聞が扱ってくれたので、選手は翌日から有名人になって(笑)。
――プロレスが復興の象徴になったんですねぇ。
中村 この国家元首は強い人なんですよ。なかなか屈しないことで有名。インドから経済制裁じゃないですけど、ありとあらゆる物資の供給をストップされても、インドにNOを突きつける。人々の信頼が厚い国家元首がわざわざ会場に来てくれて、スピーチもしてくれたんですよね。そういう意味でレスリングの信頼は高まって、大会後には「プロレスラーになりたい!」という問い合わせが100件からあって。
――じゃあ、ネパールでも至急開催しないといけないですね(笑)。
中村 いますぐ乗り込んでやるテンションではないですよね(笑)。
中村 『ハッスル』には最初から関わってましたね。
中村 ないですね。W−1は橋本さんが出場したくらいかな。
――あ、出てましたね。破壊王とジョーサンとシングルマッチ(笑)。
中村 W−1って、いまのプロレス団体になる前にも何かありませんでしたっけ?
――上井(文彦)さんが矢面に立っての第2次W−1もありました。第2次も旧K−1の主導でしたけど、第1次はK−1、PRIDE、全日本プロレスの協力体制が敷かれていて。
中村 そうだそうだ! W−1と契約したゴールドバーグが全日本に来てましたよね。
――ゴールドバークは、当時PRIDEの常務だった榊原さんの会社と契約したんですよね。
中村 それで全日本に貸したんですけど、W-1も続かなくて契約を消化できなかった。
――そのうちK−1とPRIDEがケンカ別れして、ゴールドバークの契約を消化するために榊原さんがDSE主催のプロレスイベント『ハッスル』をやることになって。
中村 そうだそうだ(笑)。橋本さんが出たW−1は東京ドームですよね?
――それが第1次W−1の最終興行ですね。その前後に石井館長の脱税逮捕、森下社長の自殺もあったりして、マット界激動の時期だったんですけど。
中村 『ハッスル』というイベントが始まったのは04年1月4日ですけど……『ハッスル』という名前になるまでも数ヵ月かかってるんですよね。DSEとしては、PRIDEは格闘技として成立しているから、プロレスイベントをやるなら住み分けをしていきたい、エンターテインメントとして振り切っていきたい、と。でも、僕たちの立場では、そういうことはなかなかできないんですよ、正直。
――DSEはプロレス界の外にいるけど、中村さんたちはプロレス界の中にいるわけですもんね。
中村 そうです。なんだかんだ山口(日昇)さんを窓口としてDSEと話をしていったんですけど。
――山口日昇は当時kamiproの編集長で、榊原さんのブレーンでしたね。
中村 最後の最後には高田(延彦)さん、小川(直也)さん、橋本さん、榊原さん、山口さんらがいる緊迫した空気の中、『ハッスル』はどういったものを打ち出すのかという会議をやって。
――それまで小川さんとDSEの仲は良くなかったんですけど、『ハッスル』をきっかけにして関係は修復されていきましたね。
中村 これは個人的な考えですけど、DSEはまずプロレスで小川さんと信頼関係を築いたうえで、PRIDEにも出したかったんじゃないかなって。
――つまり、田村さんをPRIDEを出すためにDSE仕切りのUスタイルイベントを有明コロシアムでやったようなもんですよね。
中村 そうそう(笑)。
――小川さんがPRIDEヘビー級GPに出たことでDSEは莫大な収益を上げましたから、『ハッスル』の投資は安いもんだったのかもしれません(笑)。
中村 小川さんとプロレスの話をしてみると、WWEが大好きなんですよね。だから『ハッスル』は乗りやすいコンテンツだったんじゃないかな、と。小川さん本人としても新日本プロレスではないステージで、新たなプロレスの実績を作っていこうとするモチベーションは凄く高かったことをおぼえてます。小川さんの意見も会議で取り入れられていくので、新たな刺激を持って臨める場だったんじゃないですかね。
――小川さんは先頭に立っていろいろやりましたよね。
中村 小川さんは本気で世間にアピールしていこうとしてましたよね。そこは猪木イズムっていうんですかね。対世間というものを意識して「あの小川さんがここまでやるの?」って我々スタッフも引っ張られていきましたから。
作/アカツキ
――でも、中村さんの立場からすれば「これはちょっと……」という企画は多かったんですよね。
中村 プロレス側の人間だったので、即答でイエスと答えられないことが多かったんですよ。「ここまではできますけど、そこはどうでしょう?」と変にプロレスを守ろうとしてしまった。そこで「プロレスと名乗らないのであればできます」と。だから『ハッスル』は「ファイティングオペラ」を名乗るようになったんですよ。
中村 『ハッスル1』は高田本部長のままだったけど。
――高田延彦として小川さんと橋本さんと乱闘してたんですよね。高田総統が初登場した横浜アリーナは、あまりにも意味不明すぎて冷えきってましたけど(笑)。
中村 あの冷え切った感がのちのちの爆発に繋がると思うんですけどね(苦笑)。
――しかし、高田さん、「高田総統」の変身によくOKを出しましたね。
中村 「このアイデアを誰が高田さんに言うのか」っていう問題はあったんですけど(笑)。ところが、実際に高田さんに話を振ってみたら即座に「やろう!」と。高田本部長のまま『ハッスル』に出るのは気持ちが悪かったんでしょう。「こっちのほうがやりやすい」ということで。
――高田本部長のままだと、逆にリアリティがないんじゃないかということですよね。
中村 PRIDEも『ハッスル』も、どっちも得をしない。高田本部長と高田総統にキャラ分けすることに高田さんはノリノリで。小川さんもそういう路線に乗ったし、橋本さんも悪ふさげじゃないですけど、「俺はジュリー(沢田研二)みたいになりたい!」と(笑)。
中村 船頭たちがやると言った以上、ほかの選手もやらなきゃダメな流れになって。高田総統も最初は笑われていましたけど、『ハッスル』初の後楽園ホール大会『ハッスルハウス』からコツを掴んだ感じはありました。あの大会、20分でチケット売れ切れですよ。ファンからも大会内容を絶賛されて。
中村 『ハッスル1』のときは、4万人収容できるスタジアムバージョンですよね。7000人の観客発表だったけど、会場はスカスカだったじゃないですか。大晦日のPRIDEはギチギチに入っていたのにね。
――『ハッスル1』は新日本プロレスの東京ドームと興行戦争になりましたし、無謀にもほどがあるというか。
中村 もちろん3日や5日にズラすことも考えたんですよ。挑戦するじゃないですけど、あえてぶつけたところはありましたね。
――そこはDSEが考えそうなことですよね。
中村 『ハッスル』って、僕らのプロレスの基本的な考えと、DSEの希望をすりあわていくスタイルでやってたんですけど。キ◯ガイみたいに会議をさせられましたよ。1日10時間を週5回やってましたね(笑)。
――そんなに!(笑)。
中村 なかなか決まらないわけですよ。要はDSEのプロレスチームは“プロレス素人”ばっかでしょ。プロレス学でいえば1時間で終わるようなことでも「こうはできないのか?」という話になって、ワガママな希望がガンガン出てくるんですよ。
――プロレスを知らないからこそ、良くも悪くも発想に限界がない。
中村 あるときの会議なんて、写真集が持ち込まれて「インリン・オブ・ジョイトイで何かできないか?」と。そんなところから話が始まるんですよ?(笑)。
中村 インリンさんは最初は東海テレビマターの企画だったんじゃないかな。
――インリン様って最初はマネージャー的役割で試合をする感じじゃなかったですよね。
中村 そこから話がどんどんと進んで「インリン本人は試合をしてもいいと言っている」と。でも、僕らからすれば「プロレスをナメるな!」っていう話になるんですけど、運営側は「これはプロレスではない。ファイティングオペラだ」と。
中村 そうそう(笑)。リングに上がる以上、危険を伴う。ましてやインリンさんのビジュアルを保つためにヒールを履いて試合をする、と。ピンヒールだとマットに食い込むから「ヘタしたら足首を折れますよ」と言ったんですけど。
――ヒールを履いてプロレスって、インリン様ってけっこう高度なことをやってるんですよね。
中村 だから改良に改良を重ねて、プロレス専用のヒールを開発してね。
――プロレス専用のヒール! お金をかけるなあ(笑)。
――それで小川直也vsインリン様が実現したんですね。
中村 「ありえない」ことをやるのが『ハッスル』でしょう、と。小川さんは即答でOK。あとはどうケガをさせないかを考えると、インリンさんと小川さんのシングルマッチはできないじゃないですか。運営側がボクの顔を見て「素人さんができるなら、プロレス団体の人間ならできるよね」ってことで、僕も試合に出ることになって。
――ありえないことをやるのが『ハッスル』!(笑)。
中村 運営側の提案に「NO!」と言える隙はなかった(笑)。2vs2でも成立しないということで最終的に3vs3。小川さんとインリンさんの試合を成立させるための兵隊がそれぞれ2人ずつ。
――それでインリン様、アリシンZ、ダン・ボビッシュvsHikaru、中村カントク、小川直也の6人タッグマッチになった。同じ“素人”の中村さんが入ることでバランスを取ったんですね。
中村 リングでボクが一番最初にインリンさんと戦ってるんですよ。携帯電話のカメラでインリンさんを激写するというね(笑)。
――どんなプロレスデビューなんですか(笑)。
中村 愛知県体育館のメインイベントで、素人のボクがどの面下げてリングに上がればいいんだって話ですよ。そこは葛藤したどころじゃなかったですよ、ホントに。
――プロレスの怖さをよく知ってるわけですもんね……。
――うわあ……。
中村 本当に怖かったですよ。
――しかし、素人になんでそんな大技を……。
――あの試合で小川さんはインリン様にM字固めでピンフォール負けして、『ハッスル』の目論見どおり大きな反響がありましたね。
中村 「空中元彌チョップ」のときですよね。
――参戦のきっかけも、DSE社員が和泉元彌の同級生だったとかで。そこから話が拡がるのもどうかしてるんですけど(笑)。
中村 そうそう(笑)。和泉元彌さんもよく練習してましたね。『ハッスル』は人材にもお金をかけてましたけど、準備にもお金をかけてましたよ。
――どれもダラダラした試合にならなかったし、芸能人プロレスの基礎を作りましたよね。
中村 しょっちゅう記者会見なんかで青山のDSE事務所に呼び出されていろいろやっていたし。事務所近くの喫茶店でモンスター軍に襲撃されたりしてね。
中村 DSEの社員がメチャクチャ怒られてましたよ(笑)。だいたいボクは素人なんですよ。「中村カントク」として野球のユニホームを着させられてオープニングアクトをやることだって、いま考えたらおかしな話なんですよね。ドリフターズのDVDを渡されて『8時だョ!全員集合』のオープニングダンスをおぼえろって命令されたりね(笑)。
――ハハハハハハ! 長州さんくらいですよね、運営側の要望をはねつけたのは。
中村 運営側が長州さんを『ハッスル』に出したいと。その理由が長州さんに『ハッスル』ポーズをやらせたいから。そこに拘ってるんですよ。ボクは絶対にやらないと思ってたし、『ハッスル』ポーズをやるくらいなら長州さんは新日本プロレスに戻るくらいの人ですから。でも、長州さんはネゴシエーションを取っていけば聞く耳を持たない人ではない。なんだかんだあって、長州さんが『ハッスル』に出るときに、DSEの事務所で高田さん、小川さん、橋本さん、長州さんという4巨頭の顔合わせがあったんですよ。
――その顔合わせだけで金が取れます!(笑)。
中村 一部の関係者以外はシャットアウト。もうね、張り詰めてましたね、空気が。凍ってましたよ。長州さんと高田さんは久しぶりの顔合わせ。小川さんと長州さんも浅からぬ因縁がありましたし。運が悪いことに高田さんの「泣き虫」という本が出てしまったんですよ。
――高田さん自身のプロレス史を振り返った本が、『ハッスル』開始直前に出版されたんですよね。その内容に多くの人間は“暴露本”と捉えて。
中村 DSEの人たちは、ああいう本が出ることを知っていたのに、ひた隠しにしてたんですよ。
――中村さんが知ったのはどのタイミングだったんですか?
中村 『ハッスル』旗揚げの記者会見の数日前です。
――酷い。本当に酷い(笑)。
――あの本の筆者は金子達仁であって、高田さんではないという言い訳ができましたけど……。
中村 まあでも通用しないですよね(笑)。ゼロワンとしても、『ハッスル』から引いたほうがいいんじゃないかという話になって。それこそミスター高橋本の高田さん版じゃないですか。そんな高田さんが関わるなんて、プロレス界からすれば、とてつもなくイヤなイベントですよね。
――『ハッスル』ってプロレスマスコミからは徹底的に嫌われてましたけど、まあ当たり前ですよね(笑)。
中村 一番嫌われてたと思うんですよ。でも、それすらも『ハッスル』でネタにしてしまうしかないんじゃないか、と。しょうがない、出ちゃうんだからって感じになって。
――そのあと『ハッスル2』の進行台本が流失した事件もありましたよね。『アサヒ芸能』に掲載されて。
中村 あれも『ハッスル』が意図的にやったんじゃないかって思われるわけですよ(苦笑)。あの進行台本には事細かにいろんなことが書いてあって。『ハッスル1』のときから「こういったものを配るのはマズいですよ」とは言ってたんですけど。プロレス界ではありえないじゃないですか。
――そんな物騒なものを裏方全員に配ってたんですね(笑)。
中村 「これ、回収するんですか? 家に持って帰られたら大変なことになりますよ」「そこまで言うならナンバリングを振って回収する」と言ったはずの台本が流失するという(笑)。
――ハハハハハハハハハハ! ズンドコすぎます(笑)。
中村 ナンバリングしたところでコピーを取られたら犯人はわからないじゃないですか。「泣き虫」に続いて、それすらも『ハッスル』の流れに組み入れるしかないだろうってことになって。
――中村さんがリングで白紙の台本を叩きつけて、ウヤムヤにしてましたね(笑)。そんな出だし最悪な『ハッスル』に、あの長州さんがよく上がりましたねぇ。
この記事の続きと、ハッスル誕生と崩壊、スティング、KEI山宮、藤波辰爾、さくらえみとアイスリボンなどがまとめて読める「12万字・詰め合わせセット」はコチラ