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新日本プロレス、ZERO-ONE、ハッスル、超大花火プロレスを作ってきた男、中村祥之ロングインタビュー。長州力の運転手から始まった中村氏のプロレス業界歴は、新日本の猛烈営業部隊の一員として全国を飛び回り、その後は破壊王・橋本真也の片腕となりゼロゼロ年代をかき回して、いまに至る。裏も表も知り尽くした中村氏の17000字にも及ぶ今回のインタビューでは、栄華を極めた90年代新日本バブルの実態、エースだった橋本真也が新日本に見捨てられるまで……を語っていただいた!






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「ハルク・ホーガンのギャラは7000万円ですよ。部屋にはフルーツも用意しておく決まり事もあって(笑)」


――中村さんも取材を受けた『真説・長州力』ですけど、あの本にどんな感想をお持ちですか?

中村 まだ全部は読めていないですけど。うーん、なんか長州さんが丸くなってるなって。丸くなったという表現が適切かどうかはわからないんですけど、「人間」になったなって。

――『真説・長州力』から「人間・長州力」が見えたんですね。

中村 そうそう。長州さん、人になったなって。

――じゃあ、以前の長州さんはなんだったんですかね?(笑)。

中村 昔は24時間1日じゅう、長州力を背負っていたというか。いまはオンとオフがあるんだなって。

――長州力というキャラクターを過剰なまでに演じていたという。

中村 いまは家の外に一歩出たら長州力でいる部分と、吉田光雄でいられる部分が出てきたということですよね。

――長州さんがジャパンプロレスとして全日本プロレスに参戦していた頃、大学生の中村さんは長州さんの個人事務所リキプロダクションでアルバイトしてましたよね。そのときは吉田光雄の部分は見えなかったんですか?

中村 あの頃はダース・ベイダーでしたよ(笑)。

――ハハハハハハハハハハ! 

中村 ホントに。近寄れない。

――そんな暗黒卿と何か会話した記憶はありますか?

中村 リキプロの頃は「はい」しか言えなかったんです。「いいえ」や「どうしてですか?」なんてことは口が裂けても言えなかったんですね。長州さんが口にするには「行け」「迎えに来い」くらいですし(笑)。

――中村さんは運転手のアルバイトをやってたんですよね。

中村 ボクの知り合いが「車付きのアルバイトがあるよ」と。学生だから車なんか買えないじゃないですか。面白そうだなと思って面接に行ったらそこに長州さんがいたという。

――プロレス関連の仕事につきたいというわけではなかった。

中村 全然全然。リキプロダクションは恵比寿のマンションにあったんですけど。部屋に入ると昼間なのにカーテンが閉まっていて、薄暗い照明がついてるだけ。そこにサングラスをかけた長州さんがいるんですよ(笑)。

――ダース・ベイダー!(笑)。

中村 長州さんの姿を見たその瞬間、固まりましたねぇ。

――長州さんの人間嫌いな部分が全面に出ている感じですね。

中村 あの頃の長州さんはとにかくマスコミに追っかけ回されていたんですよね。プロレス界では時の人で、プロレスマスコミが事務所に押しかけてくることが多かった。基本的に長州さんのマネージャーがさばいてはいたんですけど、マネージャーもずっと事務所にいるわけではない。ボクたちみたいなアルバイトだと隙があるじゃないですか。その隙に事務所に入り込んでくるという。

――当時はマスコミも攻めの姿勢だったんですね。

中村 長州さんがガングリオンで欠場したときは『東スポ』の若い記者が3日間くらい張り込んでいたりしてましたからね。長州さんの自宅マンションにも張り込んでいた。 

――そこまで追っかけ回されると人嫌いにもなりますね。

中村 と思うんですよね。ずっと監視されてるわけですから。心が休まるときがなかったんじゃないですか。そうしてボクは「プロレス界はこういうところなんだ」って言葉ではなく実地体験でおぼえていきましたね。

――長州さんに怒られたりしたことはあったんですか?

中村 長州さんに怒鳴られたことは……リキプロのときはないですね。うん。ボクは長州さんに対して失敗はしてないです。ドライバーをやってただけですから。

――長州さん専属のドライバーなんですか?

中村 長州さんが中心で、ほかにジャパンの選手でも長州さんに言われたら、という感じです。長州さんはその頃、BMW735という一番高いBMWに乗ってたんですよ。電話付きで。

――80年代で電話付きはヤバイですね(笑)。

中村 そんな車に乗るってのはステータスじゃないですか。いつ長州さんから連絡があるかわからないから、家に車を乗って帰って24時間いつでも迎えにいけるようにしてたんですよ。だから大学にもそのBMWで通学して(笑)。21歳でそんな車に乗れるってことでバイトを続けてたところはありますね。

――優越感に浸れるというか。

中村 優越感、優越感(笑)。お金じゃなくて夢のような世界に身を置いてるという。

――そのうち長州さんとジャパンプロレスはゴタゴタしてきますよね。

中村 ボクが入った頃からギクシャクし始めてて。でも、ギクシャクしてる意味がわからなかったから。ジャパンプロレスは知っていたけど、リキプロという長州さんの個人事務所があることも知らなかったし。そこでグッズなんかを売っていたわけですよ。長州さんの貯金箱やトレーナーとか。

――やっぱり相当売れたんですか?

中村 通販は梱包だけでも忙しくてそれだけで1日が終わってましたよ。あの頃は現金書留だったんで、それが束になって事務所に毎日届くんです。それを空けて宛名書きをして、グッズを梱包して、郵便局に持っていく。1日に何回も郵便局と事務所を行き来しました。そのグッズの売り上げだけで相当なもんだったし、事務所の人間が食べていけましたからね。

――リキプロのスタッフは何人いたんですか?

中村 ボクを含めて5人。4人だと忙しくて人手が足りないからボクを入れたわけですから。

――リキプロだけでもけっこうな年商があったんですね。

中村 グッズをプロレスショップに運ぶだけでも一日何往復。リキプロの業務が忙しくて全日本プロレスさんの会場に数回した行った記憶がないんですよ。そのあと長州さんがガングリオンで休んで、いつのまにか新日本の両国に長州さんが乱入して。

――運転手いえども離脱騒動はわけがわからなかった。

中村 わからなかった。「迎えに来い」「ここで降ろせ。待ってろ」「帰るぞ」の世界ですから。あとになって「そういうことだったんだな」って。で、長州さんが新日本プロレスに復帰したあと、ボクは大学4年の6月でリキプロダクションをやめてるんです。それは新日本に長州さんが戻ったことで、事務所がプロダクションとして機能しなくなったからなんですよね。

――権利も含めて新日本に集約されていったということなんですね。

中村 ボクは事務所で一番若かったんで「おまえももういいだろ」ってことでやめることになって。そうしたら当時の新日本プロレス営業部長だった上井(文彦)さんに誘われたんですよ。もともとアルバイト時代から面識はあったんですけど、「新日本で営業のアルバイトしないか?」と電話があって。ちょうど夏休みだったし、上井さんはわざわざ自分の母親に代わって「息子さんのことはちゃんと面倒を見ますから」と話をしてくれて。親も夏休みのあいだくらいはいいかなってことで。そこが縁でズルズルといまに至ってるんですけどね(笑)。

――上井さんは中村さんを新日本の社員にするつもりだったんですかね。

中村 そうですね。「ワシが面倒を見てやるからな」ってことは言ってくださいましたね。

――当時の新日本の営業は人手が足りてなかったんですか?

中村 興行数のわりには人がいなかったんですね、たしかに。当時の地方巡業はほとんど自主興行だったし、年間でなんだかんだで130興行近くはやってましたから、その数を4〜5人で回すのは至難の業。しかも当時はそこまでプロレスに爆発的な人気はなかったですしね。切符を売るのが大変でしたから。

――「冬の時代」と言われてましたね。

中村 最初は上井さんのサポートから始めたので、西日本、九州の担当が多かったです。だいたい興行のある30日から35日前に現地に乗り込むのが通常のパターン。そこから興行当日の1ヵ月間、ビジネスホテルに泊まりながら宣伝と切符売り。大学4年の夏休みから27歳までの5年間は、1年で340日くらいは出張してましたね。それはボクだけじゃなくて営業マンは全員そんな生活スタイルでしたけど。

――自宅で寝ることなんかないという

中村 シリーズが終わるといったん会社に戻るんですよ。そこで切符が何枚売れて、経費はどれくらい使いましたとか精算する。そうして次のシリーズの切符とポスターが用意されて、その中から担当地域をチョイスされるんです。それは恐怖ですよ。たとえば山口県から帰ってきたばかりなのに、その隣の広島県とか。東京に戻ってくる必要はなかったんじゃないかって(笑)。

――精神的にイヤになりますね(笑)。全国を回るから観光気分に浸れるときもないんですか?

中村 いろんなところに行ってるのに観光名所は全然見てないんですよね。営業で行ってるのに観光しても仕方ないじゃないですか。

――休みはあるんですか?

中村 休みは自分で作るもんだと言われましたけど。現地のお客様との付き合いも多くて、その交流ツールとしてゴルフを使いましたね。お客様との距離感を埋めるために、ボクは23歳の頃に上井さんに連れられてゴルフを始めて。上井さんはあのとき35歳か。上井さんは35歳でゴルフデビューして。関東だと土日にゴルフをするじゃないですか。田舎に行けば行くほど、土日にゴルフしないんですよ。

――土日だと割増料金になりますし、タニマチには平日に時間が空いてる方が多そうでうね。

中村 そうそう。平日に朝7時に「いまから道具を持って来い」と。お客様にゴルフ代を全額出してもらって、一緒に遊んでもらってるわけですよね。そういう付き合いを重ねることで切符を買ってもらったり。

――当時はプレイガイドだけの売り上げでは成り立たない世界だったんですか?

中村 あの当時はプレイガイドで売れることはなかったです。当日券で15〜20万円売れればいいかなあ、と。だから毎日飛び込みでもいいからチケットを売ろうとしてましたよ。売らないとホテル代も出ないし、飯も食えないから。

――プロレス中継がゴールデンタイムから離れていましたし、世間への訴求力が失われていたんですね。

中村 何をしても響かなかった時代ですよね。ある田舎を「ブレイジング・チェリーブロッサム・ビガロ」というシリーズ名を叫んでる田中ケロさんのテープを流しながら、宣伝カーを走らせていたことをいまだにおぼえてる。「世の中にビガロは関係ないだろ……」と思いながら(笑)。

――ハハハハハハハハハハ! 一番チケットが売れなかった興行のことは覚えていますか?

中村 大学4年のときのアルバイト時代、長野県の駒ヶ根市で興行があったんだけど。大分県の営業から帰ってきたばっかで「行ってくれ」と。開催まで17日しかなかったんですよ。「何をやるかは九州に5週間いたからわかるだろ」と。でも、九州は上井さんのお客さんを引き継いで回れたからよかったんですよ。長野県に知り合いはいなかったですけど、「知り合いは自分で作れ」と(笑)。

――縁もゆかりもない土地に放り出されたんですか(笑)。

中村 駒ヶ根市の天竜川沿いを毎日飛び込みで営業してましたね。結局、前売りで195枚しか売れなかったんですけど。この数字、いまだにおぼえてますよ(苦笑)。

――絶望的な数字ですねぇ。

中村 その頃は猪木さんが巡業に帯同してたんですけど。駒ヶ根市の大会当日に「この大会の営業担当を猪木さんが呼んでるよ」と。

――もうイヤな予感しかしません(笑)。

中村 当日券売り場にいたら、いまの新日本の菅林会長がニヤニヤしながら「祥之、猪木さんが呼んでるよ」と(笑)。で、控室に行ってみたら猪木さんにいきなり引っ叩かれたんです。

――ひえ〜〜(笑)。

中村 「何をやってるんだコノヤロー!」って怒鳴られて。こんなガラガラの会場で試合をさせるのか、と。だから大学4年生のときには闘魂ビンタを受けてるんですよ(笑)。

――中村さんはアルバイト営業で仕事を始めたばかりなのに(笑)。当時はプロレスファンがこぞって見に来るようなものではなかったんですね。

中村 いやいや、ザ・興行という意識ですよね。演歌歌手の興行に近い。ツールが宣伝カーとポスターしかないわけですよ。予算があるところはテレビスポットが打てますけど。

――90年代の坂口征二体制になってから、従来の興行システムが変わっていきますよね。

中村 革新的に変わりました。時代に合ったものになっていった。

――それまで全国津々浦々でやってた興行スタイルをいわゆる大都市集中型に変えて。

中村 興行を絞って集中してやろう、と。年間100くらいに落としたと思いますよ。

――営業の負担は減りました?

中村 営業の負担は減ったというより、より集中して営業ができるようになりましたよね。あっちこっち行かずによくなった。それまでの興行は東京から始まって、西へ行ったら西からまた東京に帰ってくる。北も同じ。3週間あるならオフは1日だけでそのルートの中で興行を打ちまくってましたから。市町村の小さい体育館でもやってましたよね。

――だからなのか、古いプロレスファンって、足を運んだことのない土地でも体育館情報に詳しかったですからね(笑)。

中村 あの頃は全女もあったけど、それこそ全女は空き地でもやってたでしょ。特設リング。半端じゃない興行数ですよ(笑)。

――そんな古くからの興行システムはどういう理由で変わったんですか?

中村 坂口さんが新日本の社長になられたときに上井さんが営業本部長になって。上井さんは若いボクらとコミュニケーションを図って「どうしたら切符が売れるのか?」ということを絶えず話し合っていたんです。

――営業部全体で今後の新日本を考えていた結果なんですか。

中村 上井さんはボクら若い子の意見を吸い上げて坂口さんに伝える。あの時代、新日本が伸びた要因はそこじゃないですかね。上井さんはアイデアの泉でしたよ。悪いことを含めて(笑)、思ったことをすぐに口にするから。思ったら行動に出ないと気が済まないんですよ。

――意見を吸い上げる坂口さんの存在も大きかったんですね。

中村 あと猪木さんは毎日会社にいる人ではなかったけど、坂口さんは毎朝来られて夕方までいる方だったんですよ。だから坂口さんが社長になったあとは会社に緊張感がありましたよね。それに坂口さんには各地に知り合いが多いじゃないですか。社長自ら電話をしてくれて「営業の人間が行くのでよろしくお願いします!」と。それも凄く大きかった。社長自ら電話があるから向こうもいろいろとやってくれるんですよね。

――猪木さんはそういうタイプじゃないですよね。

中村 あと武藤さんがWCWから帰ってきて闘魂三銃士が全員揃ったことも大きいですよね。

――武藤さんが凱旋帰国したときのNKホール大会は、新しい息吹を感じましたね。

中村 あのNKホールは切符が売れましたよ。橋本さんと武藤さんのタッグマッチ対決。ファーストコンタクトの橋本さんのローキックで、武藤さんのヒザの靭帯が切れるという伝説の試合(笑)。

――あのシーンは強烈でした(笑)。その年の夏に後楽園ホール7連戦もチャレンジして。

中村 『バトルホール・ア・ウィーク』。倍賞(鉄夫)さんが突然「後楽園で一週間やるぞ」ってそのタイトルを言い出して。あの興行は売れましたね。あそこからだと思うんですよね、新日本が上がっていったのは。地方でやるより東京のほうがいいだろうと。経費もかからないし、テレビ朝日も地方まで来てもらって収録してもらうよりは、大げさな話、1カ月分の収録ができちゃうじゃないですか。後楽園ホールで一週間やるってのは奇想天外で発想で、のちに両国国技館で一週間やるっていうとてつもない企画に発展していくわけですけど。

――そうして90年代のプロレス人気に火がついていくんですね。

中村 いい時代でしたねぇ。でも、ボクはリキプロ出で外様なので、生え抜きって感じじゃないですか。あくまでリキプロから来た人という意識が消えなかったんですよ。あと上司の上井さん自体が出戻りなんで。その上井さんに入れてもらってたんで。

――上井さんは旧UWFから戻ってきたんですよね。

中村 だから見えない大きな壁がありましたよね。内部なんだけど外注みたいな。「おまえ営業だけど、長州さんや上井さんのアレだろ」って感じで。

――営業という立場だと、レスラーと交流することはあるんですか?

中村 ほとんど言っていいほど交流はなかったですね。当日レスラーに会場で試合をしてもらって帰ってもらうだけ。たまに打ち上げでご挨拶するけど、まず会場で口を利くことはない。

――営業畑の中村さんはどういうプロレス観があったんですか?

中村 そこは凄くシンプルになって、自分のやることはひとりでも多くお客さんに来てもらうことしか考えてなかったです。どんな手を使おうと切符を売ることしか考えてなかったですね。2001年に新日本をやめてゼロワンに移る直前までチケットを売ることしか考えてなかった。プロレスの中身なんてまったく考えたこともなかった。

――営業の立場だとそういう考えになるんですね。

中村 ただ、いま振り返ってみると、北朝鮮の「平和の祭典」を現地で見たことはけっこう大きい財産になってるなって。あのイベントは、猪木さん、倍賞(鉄夫)さん、永島(勝司)さんのラインじゃないですか。周囲は「お金を損をしてまでなんでやるの?」って冷ややかな感じで。外様のボクもどちらかというと冷ややかチーム。でも、あのときはなぜかわからないですけど、永島さんに頼んだんですよ。「北朝鮮に連れて行ってくれ」と。単なる営業マンが。

――北朝鮮に行きたい理由が何かあったんですか?

中村 うーん……ただ、行きたかったんでしょうね。この機会じゃなかったら一生行けないような場所ですし(笑)。永島さん、ボクとは年齢は違うんですけど、同期入社なんですよ。永島さんが『東スポ』の記者から社員になったときにボクも新日本に入って。あと専修大学の先輩後輩の間柄ということで、名前をおぼえてもらってて。それで北朝鮮に連れて行ってもらった。そこからですね、プロレスに対する考え方が変わっていったのは。

――カルチャーショックを受けたんですか?

中村 ショックもショックで。日本でいえば、5万人の東京ドームが最高の箱じゃないですか。北朝鮮のときは2日間で38万人。あの光景を見たときは腰を抜かしましたねぇ。あと我々のためだけに別の会場で10万人のマスゲームもやってもらったんですよ。

――ウエルカムパーティーが10万人のマスゲーム(笑)。

中村 アントニオ猪木、新日本プロレスという組織はここまでのことをやれる組織なんだ、凄いところに入っちまったなって。あの興行は結果的に新日本にとって大ダメージになったんですけど、あの絵はプレイスレスだと思いますよ。1億2億損したというかもしれないけど、はたして1億2億出したらあのマスゲームができるかといえばできないし。

――当時の新日本はかなり儲けていたイメージがあるので、1億2億は大金とはいえ、北朝鮮の失敗で切羽詰まってしまったのが意外だったんですよ。

中村 結局、選手たちのギャランティが上がったからじゃないですかね。売り上げもよくなったというけど、ドン底から上がったくらい。たとえば500枚しか売れなかったところが800枚売れるようになった。ちょっと気持ちに余裕が出てきた程度で。ドーム興行をやっても大掛かりな演出をしてましたからね、お金をかけて。

――WCWとの業務提携で年間1億円近く払ってたんですよね。ファイトマネーは別で。

中村 もう大笑い。スティングとか呼んでいたけど。

――nWo絶頂期にオリジナルメンバーをワンマッチだけのために呼んでましたよね。とてつもないことをやってるなって(笑)。

中村 ハルク・ホーガンが来たときあったでしょ。

――グレート・ムタと福岡ドームでシングルをやったときですかね。

中村 あとから聞いたんですけど、そんときのホーガンのギャラが7000万円。

――ええええええええええええええええええええええええ!

中村 7000万円。

――そりゃ金もなくなりますね(笑)。

中村 ホーガンを含めて関係者は全員ファーストクラス、ホテルはスイートルーム、部屋にはフルーツを用意してないといけないという決まりごともあったらしくて。プロレス界って凄いんだなって(笑)。

――所属選手の年俸もけっこう払ってたんですよね。

中村 とてつもない金額だったんじゃないですか。億までいかないにしてもその半分は。