大好評だった折原昌夫・前編インタビュー!(コチラ) 後編はSWS崩壊後のプロレスラー人生を振り返ります!
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――SWSが崩壊したあと天龍さんはWARを立ち上げますが、選手たちにはどういう説明があったんですか?
折原 えっとですね、SWSがなくなって、なんとなくみんな別々に分かれていく感じはあったんですけど。レボリューション、道場・激、パライストラの3つがどういうふうに分かれていくのかはよくわからなかったですね。ボクは天龍さんの付き人をずっとやらせてもらっていたので、天龍さんが作る「レッスル・アンド・ロマンス」に自然と行くもんだと思ってましたね。「おまえ来るのか?」と誘われる感じでもなかったです。それはカブキさんや石川(孝志)さんにしても同じじゃないですかね。
――言葉は交わさなくても一蓮托生というか。団体旗揚げに向けてのミーティングもなかったんですか?
折原 「WARはこういうふうに動いていく」っていうマスコミ向けの記者会見はありましたね。食事会というか決起会みたいなものはやりましたけど、まあメシを食って酒を飲むだけですよね(笑)。
――高給だったSWSからWARになれば確実に給料は下がるわけですけど、不安はなかったんですか?
折原 天龍さんのほうから全員に向かって「Sのときと比べたら給料の額は下がるけど、全員と一丸となって頑張ろう」という挨拶はありましたね。ほかの選手がどう思っていたかは知らないですけど、ボクは格でいうと下の選手だったので、使ってもらえるだけで嬉しいなって話で。ただ、毎月のお給料は入ってきませんでしたから、SWSみたいに。
――給料制ではなくなったんですね。
折原 上の人はどういう扱いを受けていたのかはわからないんですけど。給料だったのか、試合数によるのか。Sのときは使い切れないくらいもらってて、たくさん蓄えがあったわけじゃないですけど、多少は貯めてあったので。ひもじい思いはしなかったですね。
――WARに道場や寮はあったんですか?
折原 どっちもなかったですね。考えてみたら全日本、SWSと寮暮らしでしたから、初めてひとりで生活することになったのかな。道場はなかったので、ジムで各自それぞれ自分の肉体を維持するトレーニングをやってましたね。WARの事務所は桜新町にありまして、そこにはよく顔を出してました。ボクは天龍さんの付き人をやってたから、いろいろと雑用がありましたし。
――桜新町には天龍さんの奥さんが女将を務めた「寿司処 しま田」がありましたね。
折原 それは後々の話ですね。WARの事務所のほうが先にできて。1階が酒屋の倉庫みたいな感じで、その2階が事務所で。
――旗揚げ戦の雰囲気っておぼえてますか?
折原 いやあ、おぼえてないですねぇ。WARのインパクトといえば、やっぱり団体名ですよね。「WAR」って戦争って意味じゃないですか。外国人選手も「ホントにこれが団体名なのか?」って聞いてきましたからね。
――SWSはメガネスーパーが運営してましたけど、いきなりWARとして興行を打つのは大変だったんじゃないですか?
折原 天龍さんはそれまで興行をやってきたわけじゃないし、それこそポスターをどうするのかってことから、わからないじゃないですか。なので事務所の社員を雇い始めましたね。中村 (吉佐)さんという身体が大きくてリングアナウンサーをやってた人がいたんです。中村さんは顔がかなり広いこともあって、その人が中心になって地方の会場取りや営業をやってましたね。かなりできる人だったんで。
――そういう人がいないと興行って難しいんですね。
折原 完全にアウトですね。いまボクもイベントをやってますけど、都内でやるぶんには会場を押さえて、選手を呼べばできるんですけど。地方で少なくとも3〜4日やる場合は、営業の人間がいないと無理ですね。WARの中では中村さんしか興行の仕組みを知らなかったんですけど、途中でいなくなっちゃったんですよね。
――何か理由があったんですか?
折原 うーん、いろんな噂はありましたけど、WARの流れに対して嫌気が差しちゃったんじゃないですかねぇ。一時期は勢いがあったんですけど、途中から選手たちがいろんなことに疑問を持つようになっちゃって、WARから出ていくことになるんですけど。その頃ですよね、中村さんが地方巡業の最中にそのまま姿をくらまして。
――メガネスーパーからWARにお金は出ていたんですよね。
折原 出ていたと思います。でも、当時ボクは知りませんでした、Sから資金が出ていることを。ほかの人たちも知らなかったんじゃないですかね。
――ウルティモ・ドラゴンはSWS崩壊後も、メガネの田中八郎社長と親交が深かったじゃないですか。
折原 そのこともボクはわからなかったんですよ。Sがなくなったときにみんな関係が切れたんだなって思ってましたから。あとになって田中八郎さんから個人的に支援を受けてる人がいるんだなって知りましたね。
――ドン荒川さんもそうですよね。天龍さんはその後も付き合いがあったんですか?
折原 ボクは付き人として天龍さんに付いて回ってましたけど、田中八郎と会う機会はなかったですね。天龍さんはもともとタニマチに揉み手で近づいていくことが苦手な人だったので。地方のタニマチから「飯を食いに来い」って誘われても絶対に行かない人ですから。ボクが天龍さんの代わりに行くと「おまえが来ても面白くないよ!」って渋い顔をされて(笑)。
――途中でメガネスーパーからの支援を打ち切られますよね。その報告もなかったんですか?
折原 それもなかったですね。支援を受けていたことも知らなかったですから。ボクはWARに旗揚げから参加して、中盤くらいまでいたんですけど。あの人が新社長としてWARに来るじゃないですか、武井(正智)さん。天龍さんの奥さんの弟さんです。
――武井さんはどういう流れで社長に就いたんですか?
折原 あのとき天龍さんを社長に置いておくのは荷が重いという声があって。やっぱりリングで戦う人間だから、試合に専念してもらいたいってことを天龍さんの奥さんが雑誌でも言い始めたんですよね。社内でも天龍さんは疲れている、新しい土台を作らなきゃいけないっていう声が挙がったときにポンと連れてきたんですね。
――それが武井さんだった。
折原 武井さんは京都の不動産屋をやってた人で。ある日突然天龍さんを連れてきて「今日から社長だから、言うことを聞いてくれ」と。そこから選手たちが「なんであんな人間を連れてきたんだろう?」ってブツブツ文句を言い始めて。そこからWARという団体が崩れていったんですね。
――みんなは天龍さんが大将だから付いてきたところはあったんでしょうね。
折原 いままでどおり天龍源一郎のワンマンであれば、何があってもガマンはできるし、天龍さんの一声には従うんですよ。でも、武井さんの一声は聞けないですよね。結局、天龍さんも「なんだおまえら?」ってやっぱり身内の肩を持ちますから。
――武井さんの味方をすることで、ほかのレスラーとのあいだに溝ができてしまったという。
――「折原、やっちゃえ!」と(笑)。
折原 経営的な苦しさはあったと思うんですね。「給料も下がっていくけど……」って天龍さんの口から出てきて。「えっ、ここから下がるの?」っていう生活の不安が初めて出てきましたね。試合の予定はあるから食っていけないというわけではなく。
――折原さんはWARで一度引退されますよね。
折原 新日本の対抗戦に出ていたときに腰の具合が悪くてやめたんですよ。大変でしたよ、すぐに引退させてくれなくて。武井さんと揉めていたので天龍さんから「そういう理由なんだろ?」と言われてね。「違います。ホントに腰なんです」と。
――引退してどうするつもりだったんですか?
折原 ボクは個人で爬虫類ショップをやってたんですよ、川崎の方で。「ボスケ」という名前でスペイン語で森という意味なんですけど。もともと子供の頃から毒系やコミュニケーションが取れない生き物が大好きで。
――いつ頃から爬虫類ショップを始めてたんですか?
折原 WARが立ち上げの頃からやってましたね。最初は自分のペットとして飼ってたんですけど、どんどんレベルが上がっていくんですよ。子供のうちはミドリガメとかハムスターで満足してたんですけど、大人になれにつれ珍しいものになって。ちょうど爬虫類ブームだったので一気に値段が跳ね上がってたんですよ。だったら自分でショップをやっちゃったほうが仕入れ分で安く済むんじゃないかなって。それで始めたんです。
――趣味と実用を兼ねたわけですね。
折原 家で飼える場所もなくなるくらいですから。毒系のもので12種類。サソリ、ヘビ、虫系とか。
――WARから一人暮らしを始めたんですよね。それまではどうしてたんですか?
折原 SWSの寮でいろいろと飼ってたんですよ(笑)。タランチュラ、カメレオン、ワニとか。
――SWSの寮にタランチュラとワニ!(笑)。
折原 ボクの部屋で飼ってたんですよ。タランチュラは若手が住んでいる大部屋に逃げて大騒ぎになりましたね(笑)。