笹原 いや、じつはボクがこの業界に入る前に下北のお店でお会いしてるんです。20歳ぐらいのときですね。
雀鬼 あ、そうなの?
笹原 会長はおぼえてらっしゃないと思いますけど(笑)。下北に会長のお店ができてまだ間もなくの頃です。ボクは大学生の頃から麻雀が好きだったこともあったので仲間内と「桜井章一のお店ができたらしいから行ってみよう」ってことで上京したんですよ。
雀鬼 へえー、そうだったんだ(笑)。
笹原 お店に足を踏み入れたら会長がいらして。地方から来たことを伝えたら凄く良くしていただいて、柳史一郎さんの小説『伝説の雀鬼』にサインしてもらったり。
――つまり一人の雀鬼ファンだったんですね。
笹原 もともとボクが勝手にお慕い申し上げていて、PRIDEをやるようになったときに、ボクが桜井章一に会いたいという理由もあってヒクソンとの無敗対談を企画したんです(笑)。それが97年のことですね。
雀鬼 あれから笹原さんにはよくしてもらってね。こんなジジイが毎回PRIDEに行くなんてちょっとおかしいんじゃないかなって思いつつもさ(笑)。というよりさ、斉藤はわかると思うけど、あんまりオレって興奮しないじゃないですか。
――何が起きても冷静沈着ですよね。
雀鬼 でもね、PRIDEのリングを観に行くときは凄くワクワクしたんだよ。「なんでこんなにワクワクするんだろう……!?」っていうくらい。そういうものを観させていただいたことは本当にありがたいことで。女の子がデートしてくれるっていってもちっともワクワクしないのにね(笑)。
笹原 女の子よりPRIDEでしたか(笑)。そういえば、ボクはVシネマ『雀鬼』シリーズにチョイ役で出させていただいて。赤坂のバーという設定で会長がそこのマスター、ボクはお客さんです。『まいっちんぐマチコ先生THE MOVIE』以前に出演歴があったんですよ(笑)。
――『まいっちんぐマチコ先生』がデビュー作じゃなかった、と(笑)。
雀鬼 人の縁って不思議だね。それまでプロレスや格闘技界からはだいぶ離れていた。力道山まで遡るかなあ……。
笹原 力道山からヒクソンですか(笑)。
雀鬼 俺は遠藤(幸吉)さんと親しくさせてもらったから、日本プロレスの道場にもよく顔を出していたんだけど。そういえば、PRIDEの道場で小路(晃)や戦闘竜と取っ組み合いをやったことがあったな(笑)。
――何をやってるんですか(笑)。
雀鬼 でも、ヒクソンと知り合うまではけっこう距離が空いていたんだ。たまたま格闘技の雑誌を読んでヒクソン・グレイシーという人間の考え方に共鳴したというか興味を持ったんです。「このヒクソンという人間は実際にはどんな動きをするんだろう……?」ってね。
笹原 そこにボクがタイミングよく対談の企画を投げたわけですね。
雀鬼 そこからヒョードル、ノゲイラ、シウバと興味ある人間と接点が持てたっていうのは本当にありがたいです。しかし、笹原さんはどうしてこの業界に入ったの?
笹原 最初に名古屋で就職した会社は格闘技とはまったく無関係だったんですけど、その会社の社長がヒクソンと知り合いだったんです。それでその社長と高田(延彦)さんと知り合いが「高田vsヒクソンをやれないか」というところから話が始まって。
雀鬼 うん、うん。
笹原 ボクは格闘技好きだったこともあって、そのプロジェクトに関わるようになったんですよね。その宣伝活動の一環として会長とヒクソンの対談をセッティングしたです。あの対談、 2人が会った瞬間に、空気が変わりましたよね。
雀鬼 なんか緊張感があったよね。
笹原 話し始めた瞬間にヒクソンの表情が変わったんですよ。当時のヒクソンってもの凄くたくさん取材を受けていたんですけど、あんなヒクソンを初めて観ました。ヒクソンが「オレのことをこんなに理解してくれる人がいるんだ……」みたいな空気になったことは過去にはなかったんですけど、会った瞬間に打ち解けあえて。
雀鬼 自分の中でもそういう感じはあった。ヒクソンは日本語がわかんないし、俺も英語はあんまりわからないけども。握手をしてお互いに身体を触って「柔らかいねえ」っていうジェスチャーを交わしたところから対談は始まったんだよ。
笹原 言葉は通じてなくてもお互いの目がキラキラしてる感じがあったんですよねぇ。
雀鬼 途中からPRIDEはヒクソン抜きにして進んだじゃないですか。笹原さんはどういった心境だったんですか?
笹原 もちろんヒクソン・グレイシーは人間的に凄く興味があった選手だし、PRIDEという企画を作った選手なので、彼がPRIDEに上がらなくなったことに関しては凄く残念でしたけども。そこから何か新しいものを作っていくしかないなと思ってやってましたけど。
雀鬼 でもさあ、笹原さん。あの頃のヒクソンって日本人にとっては「敵」だったじゃないですか。
笹原 そうですよねぇ。
雀鬼 ね。いわゆるプロレスラーを応援するファンが多かった。PRIDEには「日本人vsガイジン」「プロレスvs柔術」みたいな構図があったりしてさ。
笹原 そこは我々も商売的にあえて煽っていたところがあると思いますけどね(笑)。
雀鬼 オレも小ちゃい頃はそれで興奮していたわけですから。それはプロレスの流れというか、シャープ兄弟という敵がいたから力道山は英雄だったわけでしょう。でも、会場にいると「周りは全員、ヒクソンの敵か……?」と思うときがあったんですよ。
――ボクも会長の隣で高田延彦の応援をしてましたからね(笑)。
雀鬼 この野郎はふざけてるし、後ろでも高田選手を応援してる騒がしいヤツがいるかと思ったら浅草キッドのお2人だったりな(笑)。とにかく「グレイシーは敵だ!」っていうムードがあった。
――グレイシーってなかなかプロモーターに対しても心を開かないイメージがありますね。
笹原 まあ、彼らはプロとしてそういうポーズを取ってるところはあると思いますけども。普段は馬鹿話をしたり全然普通でした。でも、ヒクソンはあまりそういう隙を見せなかったと思いますけど。ヒクソンは常にヒクソン・グレイシーでしたね。
雀鬼 そこは24時間、ずっとヒクソン・グレイシーでいるっていう感じだよね。
笹原 ボクが見るかぎりでは、リラックスしてるところはありますけど、「眠っていてもライオン」みたいな雰囲気でした。
雀鬼 いや、彼は持ってるね。品じゃないけど、野生の心みたいなものを。ヒクソンは自然が好きじゃないですか。
――試合前に山ごもりしてましたね。
笹原 ああ、試合前に「山を用意してくれ」と言われてましたね(笑)。いまだとちょっと考えられないです。当時だからこそできたんだと思いますけれど。
雀鬼 ホントだよねえ。「ジムの設備があるところで練習したい」とかだったらわかるけど、「山を用意してくれ」ってね(笑)。
笹原 「木があって、水があって」っていろいろとリクエストされました。いまそんなファイターがいたら「ふざけんな!」て思いますけど(笑)。
雀鬼 そういうことが許された時代だったんだよね。そこはやっぱりグレイシー柔術という価値観を下げたくないわけですよね。だから交渉にも非常にうるさかったのかもしれないですよ。
――結局、ヒクソン最後の試合は『コロシアム2000』の船木戦になりましたけども、そのあとPRIDEからオファーはされていたんですか?
笹原 いろいろマッチメイクを考えるなかで、かならず名前は出てきた選手ですね。実現できる、できないという話じゃなくて。PRIDEはヒクソンと高田さんが産み落としたイベントですから、どうしても名前は出てきますよね。
雀鬼 ヒクソンはやる気ではいたんですよ。ただね、息子さん(ハクソン・グレイシー)が……。