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プロレスの原点とも言える激しい戦い「バチバチ」を信条している池田大輔インタビュー。藤原組、バトラーツ、全日本プロレス、NOAH……新日本系と全日本系を渡り歩いた男が語るプロレスとは何か?
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――池田さんは新日本プロレスの道場でプロレスが学べた「新日本プロレス学校」出身なんですよね。
池田 あそこに通ったのに2年ぐらいですね。そのあいだに入門テストを1回受けたのかな……いや、2回かな。もう記憶にないですけど(笑)。
――新日本プロレス学校にはどういう経緯で入学したんですか?
池田 新日本道場に入門を直談判しに行ったんですよ。そうしたら道場には誰もいなくて。当時道場の料理長だった太(ふとり)さんという方が「そういう人たち向けに新日本プロレス学校があるから、そこに入りなさい」と言われて。だったらそうするしかないなと。
――プロレス学校には毎日通ってたんですか?
池田 毎日は行ってないですよ。生徒の中でも気の合うメンツがいるじゃないですか。「今日は行こうか」なんて声をかけあったりして。
――一緒に通ってたのは誰になるんですか?
池田 プロレスラーにはなってないですね。レスリングの関東大会でチャンピオンになった奴なんですけど。
――西村(修)さん、金原(弘光)さんも通ってたんですよね。
池田 天山(広吉)、サスケもいましたね。
――プロレス学校ではどんな練習をしてたんですか?
池田 山本小鉄さんがいらしたときは、ヒンズースクワットや受け身をやったり。「好きなだけ練習しなさい」ってとくに時間は決まってなかったんですよ。気が済むまでスパーリングをやったりしたから帰るときは夜10時ぐらいになったり。基本的に道場は夕方から解放されてたんで。
――新日本プロレスの選手は午前中から夕方まで練習してて、そのあとはプロレス学校の生徒が自由に使えた。素晴らしい環境ですね!(笑)。
池田 選手とニアミスするときもたまにあったんですよ。鈴木みのるさんは誰か一人チョイスしてリング上でスパーリングみたいなことをやったり、片山(明)さんにイジってもらったり。自分が新日本の選手だったらイヤですけどね、よく知らない人たちが道場にいるのは(笑)。会社がやると決めたことで、お金を払って通ってるから文句は言えないんでしょうけど。
――プロレス学校の末期って、のちにユニバーサルプロレスでデビューする中島半蔵さんが現場を仕切っていたみたいな話を聞きますね。
池田 ですね。小鉄さんに任されたということで、自分らよりは立場が上で。コーチを受けたことは一度もないですけど、すっげえ怖かったですね(笑)。まともに口を聞いてもらえなかったです。
――同じ生徒なのに!(笑)。
池田 それで2年通ってたんですけど、ヘルニアを患ってまして、スクワットとかできなくなっちゃったんですよね。
――スクワットとか明らかに身体に悪いですもんね。
池田 まあプロレスをやってる時点で身体には悪いんですけどね(苦笑)。それで田舎に帰ったんですよ。
――あの頃はプロレスラーになれる機会ってなかったですよね。
池田 いまはいいですよねぇ、ホントに。当時を振り返えると「なんでプロレス学校に2年も通ってたんだ?」って思いますもん(苦笑)。
――その遠回りの経験にのちに……
池田 いやいや、ムダですよ!(笑)。
――ムダですか(笑)。いまはスクワット1000回ができなきゃプロレスラーになれない時代でもないですね。
池田 できないレスラーは多いんじゃないんですか。昔は1000回とかできてあたりまえでしたもん。
――大変な時代だったんですねぇ。
池田 大変じゃないですよ。それがあたりまえだっただけで。たまにスクワット1000回やりますよ、ヒマなときに。
――暇潰しにスクワット1000回(笑)。
池田 ゆっくりやって1時間ぐらいなんですよね。「はたしてスクワットに意味があるのかどうか?」っていうことは考えたことないですね。とりあえずプロレスラーはスクワット1000回やるもんだっていう時代だったじゃないですか。
――やってあたりまえ、できてあたりまえという。
池田 藤原組のときにフロリダのマレンコ道場に行かせてもらったんですけど、向こうでもやることは変わりないですよ。スクワット、腕立て、基礎体力。
――その藤原組も直訴して入門されたんですよね?
池田 直接行きました。新日本プロレス学校のパンフレットに藤原(喜明)組長の写真も載ってて「私たちが指導します」みたいな感じで書いてあったんです。組長にプロレスを教えてもらえると思って入ったんですよね。
――でも、指導は受けたことないんですよね?
池田 新日本の道場では、一度もお会いしたことなかったですね(笑)。
――ハハハハハハハハ! こうなったら会いに行くしかないと。
池田 田舎に戻ってるときに友達の家で藤原組の東京ドーム大会の映像を見せられて。その頃はプロレスを全然見てなかったんですけど、また火がついてしまって。
――ヘルニアの状態はどうだったんですか?
池田 完治しないまま乗り込みました。
――えっ!?
池田 完治もしてないし、アポも取らずに。
――凄いなあ。
池田 プロレス学校のときに知り合った臼田勝美さんが藤原組に入門してたんですよ。臼田さんから道場の場所を聞いて。臼田さんは八王子の自宅から通いだったんですよ。みんなは毎日だったんですけど、臼田さんは1日置きだったのかな。あんまり覚えてないですけど。
――1日置きの通いって珍しいですね(笑)。
池田 組長は基本的にやりたいんだったら、やらせてやるっていうスタンスなんですね。
――じゃあ池田さんの入門もオッケーだったんですね。
池田 そうですね。道場に行ったらテレビの撮影クルーが来てたんです。あの頃の組長はバラエティ番組とかたくさん出てたじゃないですか。ちょうど撮影クルーが帰るときで、道場の前に立っていたら組長から声をかけていただいて。「おい、誰だおまえは?」「入門したいんです」「じゃあ明日から来い!」と。
――あっという間じゃないですか(笑)。
池田 「明日は日曜日か。月曜日から来い」って。年齢を聞かれたので25歳と答えたら「ジジイだな!」って豪快に笑ってましたね。
――当時のプロレス界だと新人にしては年齢高めではありますね。
池田 すぐに入門できたことは自分もビックリで。テストかなんかでコッテリ絞られると思ってたんですけど。
――当時の藤原組には誰がいたんですか?
池田 自分が入った頃には、のちのバトラーツのメンバーがほとんどいて。石川雄規さん、島田裕二さん、船木勝一(FUNAKI)さん、田中稔さん、臼田勝美さん、小坪弘良(つぼ原人)さん。1年後ぐらいに(モハメド・)ヨネやアレク(サンダー大塚)が入ってきましたね。
――池田さんも最初は通いだったんですか?
池田 通ってました。
――近くにアパートを借りてですか?
池田 いや、そんなお金がなかったので、友達のところに転がり込んで。友達もずっといられると困るということで、組長に「道場に住まわせてください」と直訴して。藤原組をやめるまで道場に住むようになっちゃったんですよね(笑)。
――練習生の頃は給料は出てなかったということですよね。
池田 出ないですね。昼間に練習して、夜はバイトしてました。あとから入ってきた奴はみんなやめちゃうから、自分がずっとちゃんこ番だったんですけどね。ちゃんこもみんなでお金を出し合って、そのお金をやりくりして材料を買うんですよ。
――団体からちゃんこ銭は出ないんですか。
池田 自分たちは好きで組長のところに習いに行ってるだけなので。プロレスの修行をしてるだけなんです。
――あー、団体というより修業の場なんですね。
池田 組長はお昼になると近所の喫茶店でいつも食事をされていて。た〜まに一緒にちゃんこを食べてましたけど。「オマエらはいつも貧しいちゃんこだな。ガハハハハハ!」と笑いながら(笑)。
――生活も顧みずにプロレスラーになりたい一心だったということですね。
池田 みんな貧乏で服も買えなくて。あの頃バギーパンツが流行ってたんじゃないですか。
――ロードウォリアーズが履いていて。
池田 石川さんがいっぱい持っていて、「これ履きなよ」って。だからみんなバギーパンツを履いたんですね(笑)。
――プロレスファン憧れのブツでしたね(笑)。デビューできるかどうかは誰が判断するんですか?
池田 組長です。突然言われます。「オマエ、次にデビューしろ」って。
――池田さんのデビュー戦の相手はドン荒川さんで。
池田 はい、荒川さんです。試合もおぼえてます。荒川さんは何度か藤原組の道場にいらしたことがあって。自分が一番下だったので、竹ノ塚の駅から道場までワゴンでお連れするんですよ。
――道場での荒川さんの印象って何かありますか?
池田 組長と荒川さんが相撲を取ってましたね(笑)。
――新日本道場時代と変らないですね!(笑)。
池田 たまに練習が相撲だけの日ってあるんですよ。組長からすれば、自分ら相手にスパーリングをやってもつまんなかったんじゃないですかね。先日組長がおっしゃっていたのは「歳が30ぐらい離れてるんだから、話が合うわけねえじゃねえか」と。たしかにそうなんですよね(笑)。だから練習が終わったら近所の喫茶店でひとりでご飯を食べていたんでしょうね。
――デビューして初めてギャラがもらえるんですね。
池田 凄く嬉しかったですねぇ(しみじみと)。額は言えないですけど「デビュー戦でこんだけもらえるんだ!」ってビックリしました。そういう意味では、いまのプロレス界とはちょっと違いますよね。
――いまはファイトマネーも下がってますし……。リングスにも参戦されてじゃないですか。どういう流れだったんですか?
池田 わからないです。
――わからない!(笑)。
池田 「やれ」と。そういう言い方はされてないんですけど、あのときは島田さんがリングスでレフェリーをやられていたので。
――島田さんはどういう人でした?
池田 あのままですね。
――よくわかります!(笑)。
池田 こないだも偶然会いましたけど、あのままですね(笑)。
――リングスに出ることは組長の許可があってのことなんですよね?
池田 どうだったんでしょうねぇ。許可はいると思うんですけども、当時はどういうやりかただったのかわからないですね。リングスもオファーがあったら、四の五の言わずに出るってことですよね。リングスのスタイルが好きかといえば、そこまで好きではなかったですけど(笑)。自分はプロレスが好きなんですけど、藤原組にいるかぎりは出るということで。そういう団体ですからね。
――藤原組は藤原さんを残して皆さんやめられますよね。あの離脱は何がきっかけだったんですか?
池田 よくわからなかったですね。なんて言ったらいいんだろうなあ。
――以前石川さんにインタビューしたときに、外部の人間が取り仕切ることになったことで、藤原さんと選手のあいだに溝ができたと言ってたんです。
池田 じゃあ、それじゃないですかね(笑)。当時はそこまで中に入ってなかったんですよ。
――雲行きの悪さも感じてなかったんですか?
池田 雲行きの悪さは常に感じてたんですよね。
――常に雲行きが悪かった。
池田 いや、それは冗談です(笑)。
――ハハハハハハ。今後のことを組長とお話されたこともないんですか?
池田 ないですね。あったとすれば、札幌中島体育センターの控室で「プロレスはジプシーみたいなもんなんだから、自分の好きなようにやればいいんだ」と言われたのが答えなのかなって。そんなこと直接言われたことに驚いたんですけど、石川さんたちにはもっと前に何か話していたのかもしれないですけどね。
――池田さんはその言葉で何かを察したわけですね。
池田 そういうことですね。気が利かないので付き人としては失格だったんですけどね。よく怒られたし、「うるさい!」ってグーで殴られたこともありましたねぇ。
――何を言ったらそんな目に!!(笑)。
池田 まあ、いろいろと間違えてたんですよね(苦笑)。
――池田さんは仕方なく藤原組から離れたということなんですか?
池田 組長に「自由にやれ」と言われるのであれば、しょうがないですよね。もう藤原組にはいられないんだなって。そのあとも組長とはご一緒するときがあったし、何かあったわけじゃいんですけどね。
――組だと破門とか物騒な言い方になっちゃいますけど、“卒業”というか。
池田 っていうことになっちゃいましたよね。藤原組がなかったらプロレスラーになれなかったし、組長は親父のように思える存在なんですよね。「いつまでも家にいるな!独り立ちしろ!」っていうことかもしれないなって。
――そうして石川さんを中心に格闘探偵団バトラーツが旗揚げしますが、90年代はインディ全盛とはいえ、若手中心の団体は想像できなかったと思うんですね。
池田 藤原組という看板があったからプロレスができたところはあって。だって、自分らには何もなかったじゃないですか。デビューしたばっかりのペーペーでしたし。
――石川さんと今後のことを話したんですよね。
池田 話したと言っても、最終的にバカ話になっちゃいますよね、いっつも。「ダメだコリャ!」って感じで(笑)。ホントに団体なんてできるのか想像もつかなかったですけど、石川さんは頑張ってましたよね。スポンサーになってくれそうな人に会いに行くっていうことで一緒について行ったり。とはいっても、話し合いの輪には入らないんですけどね。だから何がどうなってるのかはわからなかったです。
――バトラーツは越谷に道場を構えることになって。
池田 あのときも家がなかったので、当初は石川さんのマンションの一室を借りてたんです。道場ができてから、また道場住まいに戻って。
――若いからこそできる生活ですねぇ。
池田 歳を取ったら難しいですよね。そんなことしませんよ(笑)。
――バトラーツってうまくいくと思いました?
池田 いやあー、全然思ってなかったです。というか、そんなことも考える余裕がなくて、もう目の前のことをやるしかないと思ってましたよね、自分は。会議のときに「スポンサーをつけたら自分たちの思うようにできなくなるから、スポンサーをつけないで頑張ろう」みたいなことを島田さんが言ってたのかな。
――えっ、島田さんといえば“スポンサー殺し”のイメージがありますけど(笑)。
池田 だからバトラーツは貧乏でしたね。
――バトラーツの中で、殴る、蹴る、極め合うという原始的なスタイルが“バチバチ”として注目を浴びますよね。
池田 自分が思うがままに戦っただけで、誰かと「こうやろう」と話し合ったりしたわけじゃないんですよね。石川さんも自分のやり方に合わせてくれたんですかね? 相性がよかったというか、噛み合ったというのか。「オマエのは痛いんだよっ!!」ってよく言われましたけどね(笑)
――痛い……ですよねぇ、あの戦いは。
池田 バチバチって格闘技っぽいスタイルだと思われがちですよね。バトラーツの頃の試合を見てない人は理解できないんじゃないかなと思うんですね。
――あの時代のバチバチを見てないとわからない。
池田 自分がバトラーツをやめたあとに、バトラーツが格闘技っぽい路線になったみたいで。どんな試合をやっていたのかは見てないんですけど。その時代とゴッチャにしてる人もいるみたいで。
――たしかに後期は所属選手がMMAに出たりしてましたね。その色とは違うと。
池田 最近でもいろんな団体に呼ばれるときに「バチバチでやってください」と言われるんです。で、バチバチでやると相手から「……痛かったです」って言われるんですよ。バチバチでやると、頭が真っ白になっちゃうんですよ。
――頭が真っ白になるほど……固いプロレスって相手から嫌われるじゃないですか。バチバチとはまだ違うんですよね。
池田 固く行くところのポイントの違いですよね。言葉にするのは難しいんですけど……お客さんに伝わらないならバチバチするなっていうことですかね。お客さんに伝わらないと意味がないですから。だってお客さんに伝わらなかった蹴りのほうが痛かったりするんですよ。
――ダメージが伝わる蹴り、ダメージがある蹴りは違うということですね。そしてその2つは被るものでもある。
池田 やっぱりお客さんが湧かないと、こっちもどう攻めたり守ったりしていいかわからないですから。プロレスって遠くから見るお客さんもいるじゃないですか。そこまで伝わるような動きは求められますよね。
――木村浩一郎さんを取材したときに「バチバチってシンプルに言うと何をやってもいいんです。何かあったらやられたほうの責任だよって。だからといって急所を狙ったらダメだし。でも、初めてやる子はおもいきりやるもんだって勘違いしちゃうんですよ」って言ってたんですね。
池田 ああ、キム兄がそんなこと言ったんですか。まあ、ただの格闘スタイルだと思ってる人はいるんでしょうね。プロレスの溝のところを掘り下げてるだけなので……言葉ではちょっと説明しづらいですよね。
――以前池田さんはインタビューで、自らの身体を叩いて打撃の効果音を鳴らす行為を否定されてましたよね。
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