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00年代から女子格闘技を支えるベテランファイター富松恵美の1万字インタビュー。 プロレスラー時代から何度も怪我に泣かされ、腫瘍や内臓破裂と幾多の苦難を乗り越えて格闘技を続ける理由とは――(聞き手/松下ミワ)
――今日は、緊急事態宣言中の収録ということで、お電話でお話をおうかがいすることになりました。よろしくお願いします!
富松 よろしくお願いします。今日は私も仕事が休みなので、家で牛すじを煮てました(笑)。
――ハハハハハ! 最近、ツイッターに料理の写真がめちゃくちゃアップされてますもんね。
富松 ヒマだと、メシ作って飲むぐらいしかやることないので。
――“酒豪”とは聞いていましたが、さすがです! そんな富松選手は、扇久保博正選手や浅倉カンナ選手と同じパラエストラ松戸所属ですが、いまこの状況下で練習はどうされているんですか?
富松 パラエストラはクラスもなくなっていて、人はほとんど来ていないと思いますね。基本は自主トレで、私自身も1人で走ったり。ゴールドジムも閉鎖になっちゃったんで、家で腹筋するとかです。
――あと、お仕事は介護職に従事されているとうかがいましたが、そちらも大変ですよね?
富松 一応、都からは「介護職は続けてOK」と言われているんですけど、感染者が出たらどうなるかわからないですねえ。でも、意外と高齢者の方々はあっけらかんとしてますよ。認知症みたいなのがある方もいるんで、「志村けんが流行りの病気で死んだらしいねえ」という話を1日10回ぐらい言っている人もいます(笑)。
――そうなんですね(笑)。
富松 中には、飲み歩いている高齢者もいるんで、そういう人は出禁にしていて。「そういうの、やめられないの?」と聞くと、「飲むのをやめると死んでしまう!」みたいなことを言うんでねえ。だから、この騒動が収まるまではやめてねとは言ってるんですけどね。
――働いている側もリスクがありますね。
富松 というか、練習で感染して知らないあいだに高齢者に移してたら怖いので、練習にもなかなか行き
づらいというのはあります。まあ、自分の格闘技キャリアの中でもこういうケースは初めてですよ。
――くれぐれもお気をつけいただければ、と。で、今日は、その長いキャリアについてお聞きしたいんですが、まず、富松選手のスタート地点はプロレスなんですね。
富松 そうなんですよ。それまでスポーツは、小学校のときに『スラムダンク』の影響で始めたバスケットと、中学でやってたソフトテニスだけで。高校はスポーツでも有名な市立船橋に行ったんですけど、当時はお金を貯めようと思ってアルバイト中心の生活だったので。
――部活は何もやっていなかったんですか?
富松 いや、華道部と陶芸部でした(笑)。陶芸のろくろってあるじゃないですか。あれをやってみたくて。たまたま陶芸経験者だった担任と自分が同好会みたいなのを作ったんですけど、陶芸って、やっぱりろくろを回すところだけをやりたんですよね。だから、土を捏ねたりする大変な部分は、ほぼ先生にやらせてました。
――ハハハハハ! しかし、プロレスとの接点がなかなか見えてきませんね。
富松 ああ、プロレスは親が好きだったんですよ。母がブル中野さんとかが大好きで、よみうりランドで開催されるプロレスを見に行ってました。しかも、ルーツを辿るとおじいちゃんも力道山が大好きで。ある日、おじいちゃんが死んだときに写真を整理していたら、なぜかデストロイヤーのブロマイドが挟まっていたんですよね。
――筋金入りの家系なんですね。富松選手は誰が好きだったんですか?
富松 やっぱり蝶野(正洋)ですよ!
――おお~! だから試合のコスチュームも黒に!
富松 そういうわけじゃないんですけど(笑)。あのー、蝶野の入場曲の『CRASH』ってあるじゃないですか。母はヘビメタも好きで、あの曲を作っているRoyal Huntというメタルバンドのライブとかも観に行ったりしていたんですよ。なので、私も蝶野とつながった感じです。当時の『ワールドプロレスリング』とか、あのへんはもうだいたい見ていましたし、バイト代を初めて使ったのが、プロレス・格闘技専門チャンネル『サムライTV』の入会ですからね!
――とても、女子高生とは思えないです(笑)。
富松 高校時代は、私ともう1人プロレス好きの親友がいたんですけど、その親友は武藤が好きで。その子は「武藤だよ! 毒霧だよ!」とか騒いでましたね。でもそんなある日、私は突然、修斗に夢中になりまして。
――蝶野から修斗ってまた突然です!
富松 テレ東で放送されていた『格闘コロシアム』を観ていたんですけど、そこで修斗を知って「なんじゃこりゃ!」と。
――格闘技に衝撃を受けたわけですね。
富松 だから当時、同級生たちがファッション雑誌を見てキャピキャピしている中、私と親友だけは『格闘技通信』とか『ゴング格闘技』に夢中だったんですよね。で、その親友と一緒に総合格闘技というものを初めて観に行ったのが、NKホールで行われたVTJ’99だったんです。
――現地観戦していた、と。
富松 そのVTJに誘ったとき、親友はまだ「プロレスが一番だよ」と言ってたんですけど、「チケット代出すから!」ということで行ったら、その親友が桜井マッハ速人を見てもう大興奮ですよ(笑)。
――ハハハハハ!
富松 そっからは親友とバイト代を貯めて後楽園ホールに行ったり、大阪まで遠征したこともありました。それが高1とかですか。
――となると、修斗を知ってからは完全にプロレスから修斗にシフトを?
富松 だって、体型も全然違うし、見た目もカッコいいじゃないですか。私自身も総合格闘技をやってみたいと思ったので、当時すでにあったパラエストラ松戸に通おうか迷ったんですけど、千葉県内でも松戸と津田沼は方向がまったく逆で。「学校が終わってから行くのもなあ」と思ったんで、やらなかったんですけどね。だから、最初はライターになりたかったんですよ。
――えっ、そうだったんですか!?
富松 だって、観に行けない大会とかもある中で、雑誌を見ると感動がよみがえるじゃないですか。だから「ライター凄え!」と。大学もマスコミ学科みたいなのを志望しようと思ったんですけど、親に学費を出してというのも気が引けたので、やめました。そしたら、普段観ていた『サムライTV』で、ジャガー横田さんが「プロレスの大オーディションします」というのが流れて。
――それが、富松選手が入門された『吉本女子プロレスJd’』だったんですね。
富松 そう。だから、就職はこれでいいかなって。母に相談しても「やってみれば?」という感じだったので、本当は総合格闘技をやりたかったんですけど、プロレスも戦いの世界だし、それでオーディションを受けました。でも、煽りとしては「大オーディションだ!」と謳われていたんですけど、じつはエントリーは2人しかしてなくて。
――2人! ちなみに、何か対策はしていたんですか?
富松 私も吉本ナントカという団体はよくわからなかったし、ジャガーさんがいるから大丈夫だろうという感じで。受けると決まってからは1人でスクワットとかして、実際のオーディションでも、みんなの前で腕立てとかやってとかやりましたね。
――それで合格だった、と。
富松 2人とも合格です。でも、もう一人は短大生だったんですけど、留年しちゃって。結局「私、行けなくなった……」ということで、私1人だけ横浜の寮に入ることになりました。
――それは不安ですねえ。
富松 だから、新弟子は私1人だったんですけど、一つ上の代の松尾永遠というレスラーが一回辞めてですね。その後、戻ってきてもう一回入門するんですよ。だから、松尾と同期になって「よかった、1人じゃない!」みたいな感じでしたね。
――女子プロレスということは、先輩の雑用とかもやってたということですよね?
富松 100%やってました。寮に入るときも「とりあえず布団を持ってきて」ということだったので、家族と一緒に寮に布団を持って行ってたら、ちょうどランニングの時間だったらしくて。「じゃあ、布団を置いて早く走る準備して」みたいな。家族と別れる時間もなくバタバタでしたね。
――けっこう大変な目に遭うこともありました?
富松 うーん、よく「暴力が凄い」とか「理不尽な世界だ」とか言われがちですけど、ジャガーさんがかなりいい人で、そういうのが嫌いな方だったらしいんですよね。だから、殴られたり理不尽なことは一切なかったです。
――じゃあ、わりと穏便に。
富松 寮には一つ上の先輩と、二つ上の先輩で家が遠い人だけが入ってて、買い出しとか掃除とかはやってましたけど。まあ、あとは練習ですよね。私、柔道とか何もやってなかったので、なんか受け身の取り方がおかしくて足が曲がらなくなって。徒歩10分の距離をタクシーに乗って移動せざるを得なかったこともありました(苦笑)。
――ほぼゼロスタートだと、そうなりますよねえ。
富松 そんな中、プロテストを受ける日が決まってたんですけど、たしか、その内容が腕立て、腹筋、ロープワーク、受け身、最後にスパーリングという感じだったんですよ。それを代表とかが見て合否を決めるという感じだったんですけど、「この日、富松もプロテストやるから」ということだったのに、なぜかロープワークだけずーっと教えてもらえてなくて。プロテストの数日前に「あのー、ロープワークはどうしたらいいでしょうか……?」と聞いたら、先輩も忘れてたみたいでギリギリで教えてもらった気がしますね(笑)。
――めちゃくちゃだ(笑)。
富松 で、ロープってけっこう硬いから、練習すると背中にコブみたいなのができちゃって。結局、そのコブの名残があるままプロテスト受けなきゃいけなかったので「もっと早く教えてくれよ!」と思ったことはありましたねえ。
プロレスラー時代の富松
――デビューは2001年となってますが、そのあと2年間ぐらいはずっと試合も出場して。
――デビューは2001年となってますが、そのあと2年間ぐらいはずっと試合も出場して。
富松 出てました。でもちょっと病気をしたので、ちょこちょこ欠場してましたね。
――差し支えなければ、どんな病気だったんですか?
富松 ええっと、前はあまり言いたくなかったですけど、もう言ってもいいか。ちょっと、胸に腫瘍ができてしまったんですよね。
――胸に腫瘍……。それ、まさか乳がんですか?
富松 悪性だったら乳がんですね。でも、当時まだ若かったから良性で。2回腫瘍だけ取ってもらったんですけど、手術しても見えない細胞が残っているかぎりまた出てきちゃう、と。そうなったらもう胸の乳腺を根こそぎ取らないといけないということだったので、結局は取ることにしたんです。だけど、取ると片方だけショボーンとなるじゃないですか。だから、背筋を剥がして胸に移植するという手術もしたんですよ。
――そんな大掛かりな手術を……。
富松 だから、じつはいま現在も、左の背筋が左胸に入っているという状態ですね。そうなると、術後は胸を蹴られるとダメだし、受け身を取るから背中も危ないということで、結局プロレスは引退を余儀なくされました。
――そんな短期間で引退とは、心境は複雑ですよね。
富松 いざ、やめるとなると、つらかったですね。でも、おかげさまで病気は再発せず。まあ、何年間は検査をしていましたけど、もう通院しなくてよくなりました。でも、プロレスラーって先輩に「食べるのも仕事だ」とかって言われるじゃないですか。引退した後も「私はアスリートだ!」という意識があるから、めっちゃ食べてたんですよね。そしたら「ヤベエぞ!」ってぐらい、ただの肥満になりまして(笑)。
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