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和田京平レフェリーと木原文人リングアナの「語ろう全日本プロレス」…全日本を知り尽くした男たちのジャイアントな対談をお読みください!



――
木原さんが全日本プロレスに関わった80年代、京平さんはどういう存在だったんですか? 

木原
 それはもう雲の上の存在ですよ。ボクは小学生の頃からプロレスが大好きで全日本プロレスの会場に通うようになって。それで京平さんから声をかけられてリング屋さんの仕事なんかを手伝うようになったんです。

京平
 木原は根っからのプロレス好き。プロレス少年だったよね。でも、俺はプロレスを知らずにこの仕事を始めたから。 テレビではプロレスを見ることはあったんだけど。 

――
京平さんはリング設営から、プロレスの世界に入られたんですよね。

京平
 プロレスファンだから入ったわけじゃないから、プロレス好きの感覚がわからない。 木原の場合は子供の頃からプロレスが好きなの。「なんでコイツら、こんなにあっちこっちの会場に来るんだろう?」って不思議でね。

木原
 プロレス好きにもいろいろと種類があるじゃないですか。騒ぎたい人、あるいはじっくり見たい人。中には会場の片隅から売店なんかをじっくりと観察する人。それが俺だったんですよ(笑)。

――
マニアックすぎますね(笑)。

木原
 この体育館だとリングを片付けるには時間はどれくらいかかるんだろう?とか。そういうことに興味があったから、京平さん、原軍治さん(リングアナ)、仲田龍さんとかスタッフにももちろん目が行くじゃないですか。「ジョー樋口さんじゃないときに出てくる、頭がカーリーヘアの動きの良いレフリーは誰なんだろう? この人は和田京平という人なんだ」とか知識がついてくるわけですよね。で、ある日、会場に行ったら、リング片付けを手伝ったらパンフレットに選手のサインをもらってきてやると誘われて。京平さんはまだ28歳くらいの頃ですよ。

京平
 俺のことは怖かったと思うよ。イジメたりムチャは言わないけど、いまでいうとヤンキーっぽいところもあったから、ちんたら動いてたら「さっさと動けコノヤロー!」ってすぐに怒鳴り声が出てたからね(笑)。

木原
 仕事は厳しいけど、気さくに喋ってくれるから「いい人たちだなあ。また会いたいなー」って惹かれるんですよ。それからは自分たちから志願するわけですよ。

京平
 そういうプロレスファンは全国の町中にいたんだよね。東海地方は木原、東京だと仲田龍。こういった連中が大学や専門学校に通うために上京して、 後楽園ホールで興行があるとみんな集まってくる。「オマエどうしたんだ?」「こっちの学校に通ってます」「じゃあ、ちょっと手伝えよ」って。アルバイトとしてちゃんとお金を払ってましたけどね。

木原
 プロレスが見れて、アルバイトのお金がもらえるんだから最高ですよ。しかも本物のリングに触れるわけですからねぇ。

京平
 木原は友達を連れてきたよね。

木原
 それが西永(秀一/レフェリー)。西永はボクと同じ短大だったんですよ。西永が言うには「スタン・ハンセンvsテリー・ゴディを後楽園ホールのバルコニーで見てたら、学校で見たことある人間が血だらけになったコーナーを拭いていた」と。なんでそんなことをしてるんだと思って学校で俺のことを探すようになって。そこから知り合って日本武道館は人手がいるから一緒に手伝いに行こうと。

――
最近まで新生K-1に関わっていた宮田充さんもそのひとりなんですよね。

京平
 いまでは宮田くんはきちんとしてるけど、当時はもうビクついて、しゃべることすらね(笑)。

木原
 玉ねぎが嫌いでね。 

京平
 玉ねぎを無理やり食わせたなあ。あれはイジメだったな(笑)。

木原
 大会後は、京平さんによく遊びに連れていってもらいましたよね。友達と遊ぶ新宿と、京平さんたちと遊ぶ新宿は全然違うなって(笑)。そのぶん仕事は厳しかったですけどね。すぐに「何をやってるんだコノヤロー!!」って。

京平
 遠くからでもチェックしてたからね。「あの野郎はプロレスばっかり見てて動かねえじゃねえか!?」って(笑)。 

木原
 ハハハハハハハ。

京平
 その当時はリング屋の大将というかアタマだったから、若い奴らを見張ってる。 何かあると俺の責任になっちゃうからね。 そういう面では仕事には厳しかったよね。馬場さんや元子さんからは「アイツらいったい誰なんだ?」って言われたりして(笑)。

木原
 普通に売店に立たせてもらってグッズを売ったりしてましたよね。
ということは、お金にも関わることだから、ある程度は信頼していてもらったのかなって。 

京平
 そのへんは信頼できる奴しか入れられないですよ。悪さする奴もいなかったよね。 やろうと思えば簡単だったんだろうけど(笑)。そういえば木原は馬場さんと一緒に撮った写真をたくさん持ってるんだよ。俺なんか全然持ってないんだけど。

木原
 意外と皆さん、馬場さんとツーショットを撮ってる機会がないんですよ。

京平
 いまならカメラ付き携帯で撮るんだけどね。当時カメラ持ち歩いてる人間なんていないからね。それに当時の馬場さんと一緒に写真を撮るなんてありえなかったから。普通は言えないよ(笑)。

木原
 ボクは普通に言ってましたね(笑)。

京平
 いま考えると凄く貴重な写真ばっかりだよね。プロでも撮れない写真ばっかりだったと思うよ。あそこまで馬場さんの近くに寄れることはないから。

――
木原さんは学生時代、巡業もついて回っていたんですか?

木原
 学校サボって一緒について回ってましたね。

京平 いいアルバイトだったよな。逆に我々としては助かったんだよね、このプロレス少年たちに。全国を巡業しながら、若い連中といろんなところで遊んだ思い出は残ってるよね。いまは巡業があったとしても、夜はコンビニでメシを買ったりするじゃない。もしくは吉野家さんとか、至るところにメシを食うところがあって、いまのほうが便利は便利。当時の地方はごはんを食べるとこなんてなかったから。

木原 となると、全国どこでも焼肉になっちゃうんですよね。しかもそこそこ高い焼肉屋。

京平
 なぜかといえば田舎って当時は焼肉屋ぐらいしかなかったからね。いまは焼肉屋や居酒屋のチェーン店はあるけど、当時は町に着いたら、ごはんを食べる場所を探すのが大変。それにレスラーに見つからないようにね(笑)。

木原
 お店を見つけても、そこにレスラーがいないか「見て来い」って言われたことありますね。

京平 お店が少ないから、ばったり会うケースが多いんだよね。レスラーに見つかったらとことん飲まされるから。大熊(元司)さん、(グレート)小鹿さんに見つかったらアウトだよ(笑)。「来い来い来いコノヤロー!」って。

木原
 ハハハハハハ。そうなると、どこの町に行けば、どの店があるっていうのがわかってくるんですよね。

京平
 徳山の駅前だと屋台ね、いまはもうなくなっちゃったけど。そこには(スタン・)ハンセンや(ブルーザー・)ブロディなんかも来る。けっこう大きな屋台だから、あっち側は日本人、こっち側は外国人みたいに分けて飲んでね。あるとき天龍さんとハンセンがニアミスしたときはケンカになるんじゃないかって。

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