RIZIN.27でスダリオ剛と対戦するプロレスラー宮本和志インタビュー!全日本プロレス入門から今回の挑戦まで1万字でお届けします!(聞き手/ジャン斉藤)
――なので今日はいろいろと聞かせていただきます! いつ頃からRIZIN出場の話は進んでいたんですか?
宮本 今年2021年はボクのデビュー20周年なので、その節目にチャレンジしようと去年から準備してました。自分のキャリアを振り返るとアメリカでグレート・ムタの息子「ザ・グレート・カズシ」をやったし、 和製スタイナーとしてスコット・スタイナーと組んだし、 アニマル・ウォリアーとも組んでロード・ウォリアーズをやったし、あとやれることといったら総合格闘技なのかなと。これをやんないでプロレスラーの現役生活は終われないなという気持ちがあって。それでUFCにも出られていた光岡(映二)さんのところで去年の夏ぐらいからトレーニングしていました。
――突然の発表に反響はあったんじゃないですか?
宮本 そうですね。何年も連絡を取っていない知り合いからもありました。ボクには総合というイメージはないので、みんな意外に思うのかもしれないですけど、馬場さんが「シュートを越えたものがプロレス」と言われてましたが、根はそこなので。ボクは全日本プロレス出身なんですけど、当時のコーチがケンドー・カシン(石澤常光)で。道場はそういう練習しかしてなかったんですよね。
――いわゆるシュートですね。全日本時代の石澤さんは指導が相当厳しかったと伝説になってますけど。
宮本 地獄のような毎日でしたねぇ(苦笑)。
――石澤さんはちょっと前にWWEでもコーチをやってましたけど。
――宮本さんは福島県出身で、高校時代はかなりの不良だったんですよね?
宮本 いやあ、不良というわけじゃなくてヤンチャしていただけですよね。
――ボクも福島のいわき出身なんですよ。高校はどちらだったんですか?
宮本 あ、そうなんですか。ボクは小高工業ですね。
宮本 それはボクは関わってないですね(笑)。ボクは高校時代は相撲部だったんですけど、中学2年生のときから100キロ近くあって。まあ肥満体型でしたけど。ボクのおじいちゃんのおじいちゃんが元関脇のお相撲さんだったんですよね。
――そういう血筋なんですね。
宮本 ずっとおじいちゃんから「相撲をやれ」と勧められていて。当時は尖ってたので「やらないよ」って拒否してたんですけど。高校2年のときに福島国体が予定されていて、スポーツにすごく力を入れてるということで相撲部に入って。
――相撲をやりながら、ヤンチャもして。
宮本 当時はヤンキー漫画が多かったので、影響されて剃り込みを入れたり、眉毛を剃ったり、 ボンタンを履いたり。
馬場さんと面接したときの風貌!
宮本 けっこうケンカはやってましたね。ボクが住んでいた富岡町から小高までは電車で30分ぐらいで。その中でケンカになるんですよ。
――あの地域って電車の本数の少ないから、仲の悪い他高生や上級生なんかと鉢合わせになりがちですよね。
宮本 そうなんですよ!(笑)。電車に1時間に1本しかないですし、車両もそんなに長くないですし……。ケンカがすぐ始まっちゃって、あるとき相手をケガさせちゃって傷害事件になっちゃったんですよね……。
宮本 もう亡くなられてしまったんですけど。事情を聞いた米村さんから「馬場さんの全日本プロレスに行ってみないか」って誘われて、二つ返事で「よろしくお願いします」と。全日本プロレスがちょうどそのときに、いわきの平競輪場で大会をやったんですよ。屋外の特設リングで。
――すごいタイミング! いわきってなかなかプロレスがやって来ないんですよね。興行ができる体育館はあるんですけど、アクセスがめちゃくちゃ悪くて
宮本 あの体育館は山の上にありますもんね。そのとき馬場さんと元子さんと三者面談になって「すぐ学校やめて全日本プロレスに入りたいです」とお願いしたいんですけど、馬場さんは「高校ぐらいは出ないと親も悲しむだろう」と。 あらためて気を取り直して学校に戻って、卒業してから入門することになったんです。
―― 高校卒業すれば全日本プロレスに入門できると。
宮本 はい。相撲部屋からも誘いがあったんですが、全日本プロレスに入ると。
――プロレスは好きだったんですか?
宮本 プロレスは好きでしたねぇ。四天王プロレスや闘魂三銃士で盛り上がっていた時代なので、 そういう誘いがなくてもプロレスはやってみたいと思ってましたし。高校の昼休みなんかは、他の子はサッカーとかで遊んでるときにヒンズースクワットをやってましたからね(笑)。
宮本 それはもう喜んで「入ってくれ」と。おふくろは毎週のように学校に呼び出されて怒られてましたからね(苦笑)。
――やっぱりワルじゃないですか!(笑)。
宮本 まだ10代だったので、ヤンチャだったんですよね。
――高校卒業後、全日本に入門しましたけど、すぐにやめちゃったんですよね。
――プロレスラーになるなら10代で、という考えがまだ残っていた時代ですね。
宮本 『週刊プロレス』を読みながら全日本プロレスが大変なことになってるなあと思ったら、まさか元子さんから実家に電話かかってきて。
―― 1ヵ月しかいなかった元・新弟子に連絡をするって、元子さんも宮本さんの存在が引っかかったんですかね。
宮本 そこはわからないですけど……最初の面談から入門するまでに2年ぐらいのあいだ、しょっちゅう後楽園ホールに見に行ったりしてて。元子さんと並んで試合を見たりとか。
――要するに元子さんに気に入られていた。
宮本 しょっちゅう怒られてましたけどね(笑)。 そういうこともあって元子さんが声をかけてくれたんじゃないかなって思いますね。でも、2年ぐらい経っていたし、ボクとしてはお断りするつもりでお会いしたんですけど。実際に会ったときに元子さんから馬場さんの T シャツをもらって「事務所の片付けを手伝ってくれない?」と言われたら気持ちが傾いてしまって。 「あなたはいつから合宿所に入れるの?」「明日から入れます!」って答えました(笑)。
――そこで元子さんが声をかけなかったら、いまの宮本さんは……という。選手はほとんどノアに移ったらから合宿所は誰もいなかったんですよね。
宮本 もう1人一緒に入った子がいるんですけど、すぐにやめちゃって。 合宿所に行ったら、みんなが出て行ったあとなので、すごく荒れてたんですよね。
宮本 いろんな物が捨ててあったりしてて、ボクからすれば宝の山なんですけど。コスチュームや昔のジャージとか、ゴミどころか宝の山ですよ! でも結局トラック2台ぶんぐらいは捨てたのかな……。
――もったいないですねぇ。
宮本 ホントもったいなかったですよね。馬場さんのスーツや革靴、小橋(建太)さんのオレンジ色のコスチュームとか。プロレスグッズ専門店が高く買ってくれたんじゃないかなって。
――もうひとりの新弟子がいなくなったら、どうやって練習してたんですか?
宮本 シリーズがあると、いろんな選手が道場に来てたりしてたし、当時はシリーズが長かったので、そんなに合宿所にもいることはなかったですし。練習は最初の頃は手探りで自分でやっていたんですけど、元子さんが太陽ケアさんとジョニー・スミスの2人をシリーズが終わってからも常駐させてくれて。アメリカに帰らず半年間ぐらい付きっきりでボクのことを見てくれたんです。
――それは貴重な経験ですね。
宮本 ジョニー・スミスはグラウンドのレスリングを教えてくれて。 キャッチみたいなレスリングですよね。腕をひとつ取るにしても、何十とおり何百とおりのパターンがあるんだよと。本当にためになりました。ボクの師匠はその2人で、巡業が始まると藤原組長が気に入ってくれて、付きっきりで教えてくれて。
――藤原教室じゃないですけど。
宮本 藤原組長とスパーリングをやっていると元子さんが怒るんですよ。だから元子さんが見てる前ではできなかったんですけど。やっぱりシュートの練習をしちゃいけないみたいで。
――ああ、全日本プロレスの基本は受け身ですもんね。
宮本 「そんなことをやるんだったら受け身の練習をしなさい」と。元子さんが来ると藤原組長が「やめだ、今日はやめだ」と(笑)。
――元子さんこそ王道ですね(笑)。
宮本 元子さんにもいろんなことを教わりましたけどね。礼儀もそうです。 当時六本木の事務所に行くときは襟付きのシャツで、ズボンにシャツをインしなければいけないという厳しい掟があって。
宮本 そういった元子さんの指導があったから、社会的なことが身についたので。元子さんにすごく感謝してますね。
――元子さんと合わない人は合わないんでしょうけどね。
宮本 元子さんって怒るときはめちゃくちゃ怒りますからね(笑)。愛情がある怒り方なので、あまりあとも引かないというか。
宮本 再入団してからはずっと川田さんの付き人をさせていただいて。試合後は必ずエタノールで背中を拭いてましたね。
――エタノール?
宮本 川田さんはすごく潔癖症というか、きれい好きなので、 いまを先取りしてたんですけど。全身をエタノールで消毒しないと気がすまないという方で。カット綿にエタノールをつけて川田さんの身体を拭かなきゃいけないんですけど。3週間の巡業だったらエタノールの瓶を10本ぐらい持ってかないと足りないんですよ。
宮本 川田さんの歴代の付き人はみんな用意してたんじゃないですかね。
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