NKB興行統括・竹村哲氏とライターの高崎計三氏による「Dropkickメルマガ読者が知らないキックボクシングの世界」! キックぼんやり層のアナタは必読です(聞き手/ジャン斉藤)
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・沢村忠から天心vs武尊まで…キックボクシングの始まりと、その光と影■細田昌志☓高崎計三
――日本キックボクシング連盟(以下NKB)の竹村さんがキックボクシングの歴史において重要な役割をはたしてると高崎さんから伺いまして。「キックぼんやり層」ですが、ご教示よろしくおねがいします!
高崎 ハハハハハハハハハ。
――まずは竹村さんの経歴から伺わせてください。
竹村 ええと、もともとは SNAIL RAMP というバンドのボーカルをやっていて、それは1995年から始めて途中に活動休止2年間を挟みながら、 2015年8月のライブを最後にほぼ活動停止しています。キックは2001年の30歳のときにジムに通いだして。2002年11月にNKBでデビューして、43歳のときにウェルター級ベルトを獲って、2015年に引退しています。
竹村 そうなんですけど、引退後は運営に関わるようなかたちではなくて、大会パンフレットに1ページのコラムを連載するくらいだったんですが……。NKBの前任のマッチメーカーがやめることになりまして、2018年の頭にNKB代表の渡邉(信久)から「マッチメーカーをやってくれないか」と急に言われたんです(笑)。
高崎 竹村さんはそれまでNKBのリングで司会的な仕事をやっていたんです。
竹村 あー、そうだ、そうだ。全然忘れてましたよ(笑)。前の大会のMVP を発表する仕事をしてたんですよ。
高崎 つまりスポークスマン的な立ち位置だったんですよ。もともとボーカリストだから選手より全然声がでかい(笑)。
高崎 竹村さんが暗躍してマッチメーカーになったじゃないですけど……やがて興行にスーツ姿で来るようになって(笑)。
竹村 俺が何か悪いことをやってたみたいじゃないですか?(笑)。
高崎 そんな話が飛び回っていたという(笑)。マジメな話、どこかのジムの会長さんがやらないんだったら竹村さんなんだろうなって思ってました。
――00年代のK-1MAX時代も鎖国ですか。
竹村 完全鎖国。
高崎 NKBからK-1MAXに出た選手はいたんですけど、そのときはNKBから離脱するしかなかったんです。それが小野瀬さんがマッチメイカーをやるようになって、最初はフリージムの選手がNKBに出ていい、ということに変わったのかな。
――鎖国を解いたというより、長崎の出島ができたみたいな感じですね(笑)。NKB加盟ジムってそんなに多くはないですよね。
竹村 全然多くはないですよ。
――それでも鎖国を貫くってすごいですね。
高崎 NKBの年間スケジュールというと、後楽園ホールが5回。以前は8月に茨城のジム主催の水戸興行があったんですけど、いまはなくて、 あとは大阪で年2回ぐらい。階級もいまはどこの団体もウェルター級の上が「スーパーウェルター級」だったりして小刻みに分かれてるんですけど、NKBって階級にスーパーがないんです。だから約5 キロ刻み。
――珍しい!
竹村 あと、あいかわらず当日計量です。もうウチにだけになりましたね。当日計量は。
――前日計量に変える予定はあるんですか?
竹村 いまのところないです(キッパリ)。
高崎 当日計量なのはタイがそうだからなんですよね? 渡邉会長が「ムエタイが当日だからな」と言っていて。
竹村 基本はそうです。代表の渡邉はこだわりが強い人なので、ヒジありは絶対。鎖国が解かれたときもヒジなしルールに出て行くのはNGで。 いまではヒジなしの試合に出ることは許してもらったんですけど、NKBのリングでは女子選手以外の試合はヒジありは絶対です。
――なるほど。鎖国というよりは自分たちのルールがにこだわってきたということですね。
高崎 いや、それはあくまでひとつの理由で、鎖国に至る歴史があるんです。そもそもNKBという団体は4団体が参加する画期的なものだったんです。結成は2001年。NJKF(ニュージャパンキックボクシング連盟)、渡邉会長の日本キック連盟、キックユニオン(K-U)、アジア太平洋キックボクシング連盟(APKF)がそれぞれの興行をやりながら、ランキングやチャンピオンを統一してひとつでやろうと。NJKFが音頭を取って始めたんですけど、いろいろあってそのNJKFが離脱。
――音頭を取った団体が!
高崎 キックユニオンとAPKFはもともと小さい団体だったこともあって活動縮小。 いまでは渡邊会長の日本キック連盟イコールNKBみたいな感じになってますけど、もともとは違う概念だったんです。
竹村 4団体が参加した機構ですよね。
高崎 最初は王座決定トーナメントとかやったんですよ。
竹村 ああ、あのトーナメントめちゃくちゃ長かったですよね。途中で選手が引退しちゃったりして(笑)。
高崎 ハハハハハハハ。NKBの名のもとに各団体はプロモーターになっていくっていう、ボクシングみたいな組織を理想としてたんですけど……。
――なるほど。そういう経緯があるから他団体と交流がしずらいんですね。
竹村 そうです。フリーだけじゃなくて他団体の皆さんと交流してかないとこの先はないから。最初は「ダメだ」って渡邉会長から言われたんですけど。
――こだわりの店ですね!(笑)。
竹村 俺もかなりしつこいので、 2回断られて3回目もお願いしましたから。そうしないと絶対にマッチメイカーはやれないと思ってたので。それで渡邉会長が根負けして「ダメだと思うけどやってみろ。絶対に失敗すると思うけど、失敗しないとわからないからな」って言われました。
――渡邉会長はなぜ失敗すると思ったんですかね。
高崎 それは渡邉会長のこれまでの経験からですよね。NKBの構想以前から、キックの集合離散の歴史を経験してますから。
――なるほど……。竹村さんがマッチメイカーに就任した当時、他団体とはどういう関係だったんですか?
竹村 まずKNOCK OUTさんには選手を出してました。シュートボクシングさんはルールが違うので男子は出てないです。新生K-1さんやRISEさんはヒジなしなので出していませんでした。
高崎 NJKFはNKBの分裂の経緯があるので交流はしていなかった。
――NJKFの代表って伊原信一さんですか?
竹村 それは新日本キック協会でニュージャパンキックとは違いますね。名前が紛らわしいんですよ(笑)。
高崎 全日本キックから別れた藤田(真)理事長が作ったのがニュージャパンキック(NJKF)。藤田理事長の悲願はキック界の統一で、その足がかりにNKBを始めたんですよ。……斉藤さん、整理がついてますか?(笑)。
――な、なんとか……。NKBと新日本キックの仲はどうなんですか?
高崎 それがNJKFよりも距離がある関係で(笑)。
竹村 これはもっと古い話なんですよね。もともとは日本キックボクシング連盟で渡邊会長と伊原代表は一緒にやっていて。伊原代表がそこから新日本キックを作るので、渡邊会長からすれば超身内が抜けたという話なんです。
高崎 しかも伊原代表が日本キックを抜けて立ち上げたのが日本キック協会。さすがに名前が同じだということで「新」をつけて新日本キック協会になったんですけどね。
竹村 その経緯は知らなかったです(笑)。
――とにかく過去にいろいろあって他団体とは交流しづらいと。
竹村 で、ボクがマッチメイカーになって、真っ先に団体交流を始めたのは一番ハードルが高いと思われてた伊原代表の新日本だったんですよ。
――一番因縁の深い(笑)。
竹村 最初に新日本さんに接触したことを渡邉に報告したら第一声が「……竹村、なんでそこから行ったんだ?」と(笑)。
高崎 それくらいありえないと(笑)。
高崎 当然伊原代表もNKBが来て驚いたんですよね?
竹村 まず治政館の長江(国政)館長に相談したら「新日本キックの興行においでよ」と。 てっきり紹介してくれると思って、当日会場で長江館長に挨拶したら「あそこにいるから行ってきなさい」と。 本部席にいる伊原代表を指差したんです(笑)。
高崎 伊原代表とは面識がなかったんですよね?
竹村 全然なかったです。もう行くしかないと思って、大会中に伊原代表の後ろから声をかけさせていただいて。「NKBの竹村と申します。交流させていただけないでしょうか」と(笑)。
高崎 あきらかに怪しい(笑)。
竹村 伊原代表は驚いて「おまえは本当に日本キックの人間なのか?」と最初は全然信じてもらえなくて。
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コメント
コメントを書く待ってました!!個人的にアメトークのキック大好き芸人の時に「竹村さん出せ!」って思ってたので嬉しかった。色々な情報オープンにして観客集めて皆、Winになって欲しい。
NKB発足当初の後楽園大会を何度か見ていました。
今の立ち技、キック界はK-1ルールが主流になってしまいましたが、NKBはK-1が無くしてしまった昔からのムエタイ・キックのルール、3分5ラウンド、首相撲有り、肘有りでK-1との違いを見せて頑張って欲しいです
竹村さん、常識人だしいい人だなぁ
ライブに行った事ある。有名バンドじゃないか