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★2014年11月にDropkickメルマガで掲載された記事を再録します
プロレスと格闘技の境界線が曖昧だった「プロ格・大航海時代」の90年代――格闘家のプロレス転向の嚆矢ともいえた村上和成16000字インタビューです!(聞き手/ジャン斉藤)
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・【リングス退団編】俺はそんなことを絶対に言っていない■長井満也
――いまは格闘家が気軽にプロレスのリングに上がれる時代ですけど、村上さんは意識不明に脳挫傷……命がけでプロレスに取り組んでましたよね。
村上 あー、そこは時代的なものもあると思うんですね。ボクの場合は佐山(サトル)先生や小川直也という人間に出会って、もっといえばアントニオ猪木にプロレスというものを教えられたわけですから。
――プロレスデビュー当時から濃い方々との付き合いがあって。
村上 じつはボクはガキの頃からプロレスをバカにしていた人間で。格闘技やってた頃も「なぁ〜にがプロレスだよ?」と文句を言っていたほうなので(笑)。それがこんなにもプロレスに惚れこんでしまって……。ボクの人生でプロレスくらいなんですよ、ここまで惚れ込んでしまったものって。
――村上さんは新弟子生活を経てデビューしたわけじゃないですよね。
村上 はい。だからプロレスの練習をしたことがなかったんですよね。それに猪木さんが小川さんに出した指令が「村上にはプロレスの練習をさせるな!」ですから(笑)。
――ハハハハハ! プロレスをやるのに!
村上 「おまえは本能のままに戦え!!」と。それはいまでもそうなんですけどね。受け身とかは現場で勉強していくというか、「これは痛いな」「このまま受けるとヤバイな」ってそんな状態。だから最初は「なんでみんなロープに振られるんだろう?」ってバカにしてたんですけど。でも、ちゃんと背中にロープを当てて返らないと危険なんですよね。
――ロープの中には鉄のワイヤーが入ってるから、ヘタに受けると危険ですね。
村上 それでロープを利用したほうがいいことがわかったんですよね。それでも理解するのに5〜6年はかかりましたけど(笑)。あとボクがラッキーだったのは「本能のまま戦え!」とは言われたけど、実際にそう戦ったら相手が大ケガすることもあるじゃないですか。「本能のまま戦え!」という猪木さんの難しい言葉を具現化してくれたのは、バトラーツの石川(雄規)社長だったんですよね。
――なるほど! 石川さんって“猪木プロレス”を真剣に考えて実践してましたね。
村上 そうです、そうです。石川さんは猪木さんの黒いタイツや赤いタオルも真似てましたし、猪木さんのような試合をしていた。ボクがバトラーツに上がったときに「何をやってもどんなことをやってもいいんだよ」と言ってくれたのがその石川社長で。その言葉を受けてボクは試合になるとケガをさせたり、ケガをしたり……たいていはケガをさせるほうだったんですけど(苦笑)。
――そうやって場数を踏むことで、村上さんの暴走スタイルが確立されていったんですね。
村上 はい。バトラーツで経験が積めたのは大きいですよね。
――小川さんとはその経験の違いがあったのかもしれませんね。
村上 小川さんはWWEとかアメリカンプロレスが大好きだったりするじゃないですか。
――じつはハルク・ホーガン大好きですからね(笑)。
村上 そうなんですよね(笑)。それでいて猪木さんや佐山さんにプロレスとは何かを教えられ、新日本プロレスとも緊張関係がある中で、リングに立ち続けてきたので、小川さんはどうしても「コノヤロー!」というスタイルにはなっていきますよね。
――経験が浅い時期から先鋭的なストロングスタイルが求められてしまったと。
村上 それは小川さんしかできない役割でしたし、一緒に長くやってきましたけど、ボクとは立場は違いましたよね。あとUFOのときは小川さんの命令もあって身体を絞ってたんですよ。でも、永田裕志の蹴りをもらったときに「この身体ではダメだ」と思って。永田裕志もボクと同じ本能のまま戦ってくるタイプですけど、それだけに細身だとあの蹴りは耐えられないんですよね。
――永田さんのキックでプロレスに目覚めたところもあるんですね。
村上 当時のボクは90キロもなかったですからね。ボクと戦う相手は蹴ったり殴ったりバンバンくるわけで、ボクはその攻撃をガッチリ受けて「そんなの効かない!」とアピールしなくちゃならないですから。それで肉を付けるようになったんですよ。
――村上さんは格闘家の頃からプロレスラー志望ではなかったんですよね?
村上 考えもしてなかったですよね。というか、ボクの場合、人生の分岐点がほぼほぼ自分の意思じゃないんですよ。高校の柔道部の監督の命令で拓殖大学に入りましたし、大学卒業間際に拓大の先輩にあたる西良典先生が東京で和術慧舟會の大会をやったんですけど、意味もわからず出ることになったり(笑)。
――総合格闘技も自分の意志ではなかった、と。
村上 そうなんです。「おまえ、殴って蹴って骨を折ったら、みんなから拍手されるんだぞ? 喧嘩しても拍手はされないだろ?人生の記念になるぞ!!」とか言われて(笑)。しかも大学の先輩後輩の関係ですから断ることなんかできないんですよ。先輩の言葉に「NO」はない。それで大会に出たら優勝してしまって。
――それが「真・格斗術トライアル・トーナメント」なんですね。
村上 あれは新宿スポーツセンターでやったんですよ。1回戦の相手がトーワ杯3位の方で。柔道着にグローブをつけさせられて「先輩、これだと相手を掴めないんですけど」って言ったら「馬鹿野郎!とにかく相手をぶん投げて骨を折ればいいんだよ!」と怒られて(笑)。
――ハハハハハハハ! 総合格闘技の知識はあまりなかったんですね。
村上 まったくないです。柔道と相撲と喧嘩殺法だけ。とりあえず格闘技をやらなきゃいけないと紹介されて通ったところが黒崎道場だったんですよ。「誰だよ、黒崎って?」という感じだったんですけど。
――“鬼の黒崎”を知らなかった!(笑)。
村上 まったく知らなかったです(笑)。黒崎先生には「つま先で立って構えていろ」と言われて。ボクはバカだからそのままの姿勢で立ってたんですけど、何時間経っても先生が来ないんですよ(笑)。
――必殺・放置プレイ笑)。黒崎道場にはセメントでできたリュックを背負って歩くという練習もあったそうですね。
村上 ありましたねぇ。二宮金次郎のようにマキが入ったカゴを背負って走ったり、砂袋が入ったタイヤを引っ張りながら走ったり。そのうちに「佐山のところに行ってこい」ってことで佐山先生のところでキックの練習をするようになりました。それでトーナメントで優勝したら「フリー」だった所属がいつのまにか「和術慧舟會」に変わっていて。
――あ、入門した記憶がない(笑)。
村上 「えっ、和術慧舟會ってなんだろ?」って感じですよ(苦笑)。
――村上さんの頃って東京本部の道場はあったんですか?
村上 道場はボクがアメリカで試合をする半年くらい前にできたんですよね。東京での活動自体は、久保(豊喜)社長と、亡くなられた守山(竜介)さんが拓大出身だったことで、西先輩に頼まれて始まったんですけど。
――そこも拓大の上下関係から生まれたんですね。
村上 久保社長は当時、不動産の仕事をやっていて。その久保社長の事務所の中に間借りするかたちで、守山さんは中古車ディーラーの仕事をやってましたね。
――当初は仕事の合間に東京本部の活動をされていたんですね。
村上 新宿スポーツセンターや区の柔道場を借りて、守山さんと2人きりで練習してたんですよね。ただ広い柔道場に2人だけで(笑)。
――それが和術慧舟會東京本部の原点だったんですねぇ。
村上 そのうち宇野(薫)くんとかあのへんのチームが練習に来るようになって、そのうち東京本部の道場ができたんですよね。
――のちに和術慧舟會のエースになる小路(晃)さんと村上さんと同郷ですよね。
村上 アイツとはまったく接点がないんですよ。高校が同じ柔道部なんですけど、大学に進んだボクが格闘技をやってることを知っていて、「格闘技をやりたい」という電話があったので慧舟會に入るように薦めたくらいで。どこかで会えば「おう!」と話はしますけど。
――話を戻すと村上さんは「トーナメント・オブ・J」にも出ることになりましたけど。高阪剛さんをはじめ、のちの有名格闘家がこぞって参加した伝説のイベントですよね。
村上 ボクは1回戦で郷野(聡寛)選手と闘ってハイキックで負けて。そこで初めて火が付いたんですよ。「コイツにはリベンジをしないといけない!」って。蹴り一発で負けた自分が情けなくて、就職活動を一切放棄して格闘技に集中したんです。
――無茶しますねぇ。
村上 いろいろと就職の話はあったんですけどね(笑)。それで翌年の「トーナメント・オブ・J」で郷野選手にリベンジを果たして、格闘技をやってることがだんだん楽しくなってきたんですけど。働かないと当時は格闘技だけで食べていけないじゃないですか。
――「プロ格闘家」が成立しない時代でしたね。
村上 それで築地の市場で働くことにしたんですよ。築地の仕事って早朝に始まって昼に終わるという感覚があって、それなら練習もできるかなと考えていたら、ボクが働いていたところは朝早くて夜遅いんです(苦笑)。そんな中、アメリカのエクストリームファイティングからオファーがあって。慧舟會を通しての話だったんですけど、試合の3週間前に「行け!」と言われて。
――そこも断れない命令でしたか(笑)。
村上 なんで自分にオファーがあったかというと、ボクが木村政彦先生の孫弟子にあたるという話題性もあったと思うんですよね。強かろうが弱かろうが、柔術発祥の地である日本の格闘家に勝ったら「凄い」という話になりますし。
――木村政彦の名前はやっぱり轟いていたんですね。
村上 本当に木村先生は凄いですよ。とくに大外刈りは倒されたら一本だし、倒されなかったら足の骨が折れますから。
――えっ!?
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