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【記事詰め合わせ】小原道由、田中ケロ、佐藤嘉洋、超獣ブロディ、スコット・コーカー
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【記事詰め合わせ】小原道由、田中ケロ、佐藤嘉洋、超獣ブロディ、スコット・コーカー

2015-01-31 23:59
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    先日放送された『水曜日のダウンタウン』でプロレスファンの前にひさしぶりに姿を表した小原道由。現在はサラリーマンとして都内の会社に勤務している小原は、アニマル浜口ジム出身のプロレスラー1号として新日本プロレス入り。橋本真也とのタッグでのWAR殴りこみから、平成維震軍、犬軍団と渡り歩き、藤田和之も一目置くというセメントの強さを買われてPRIDEにも参戦した。90年代の新日本プロレスの波にもまれた選手である。そして、世紀のシュートマッチとなった小川直也vs橋本真也の大乱闘では、新日本側で最も大暴れして凶暴さを見せつけた。新日本最凶と呼ばれた小原はあの試合をどう見ていたのか。そのレスラー人生とともに振り返ってみた。




    橋本さんと小川の試合を見終わった猪木さんが「おまえら!この眼だよ、この殺気だよ!!これが俺の求めてるプロレスなんだっ!」としゃべりだしたんです


    ――小原さんがリングから遠ざかって5〜6年経ちますよね。

    小原 そうですね。ちゃんと数えたことはないですけど。ハッハッハッハッ!

    ――引退という区切りを付けたということでよろしいんでしょうか。

    小原 よく「引退したの?」「元プロレスラーなの?」とか、いろんな人に聞かれるんですけど。ボクは性格的にヒネくれているので「まだ引退試合をやってないですから」と言い張ってるんです(笑)。いまはもうリングに上がれる体調ではないんですけどね。

    ――リングから離れた理由は腰の怪我なんですよね。

    小原 そうなんですよ。交通事故で痛めてしまって。事故に遭ったのは岐阜のほうに身体の治療に行ってたときなんですけど。そこでは1日に2回、昼と夜に施術するんですけど。昼に診てもらってホテルに戻るときに横から当てられちゃって。助手席に乗ってたんですけど、その車が廃車になるくらいの事故で。

    ――大きな事故だったんですね。

    小原 信号で一時停止してて、こっちが発進したときに横から当てられたんですよね。そこはけっこうな田舎だったんですけど、近くで農作業してた人が「死んだんじゃないか……!?」とビックリしたほどの事故で。そこから腰がダメになりましたよね。

    ――今日は小原さんのプロレスラー人生を振り返りたいんですけど。小原さんはアニマル浜口ジム出身プロレスラー1号として有名ですよね。

    小原 ボクは国士舘大学の柔道部だったんですけど。2年生のときに先輩から「筋トレをやるためにジムに通えよ」と言われて。でも、ボディビルのジムにはあまり行きたくなくて、どうせならプロレス格闘技のジムに行きたかったんですけど、当時はそういうジムがあまりなかったんですよね。で、会長(アニマル浜口)が浅草でジムをやってるというのを何かで読んだことを思い出したんですよ。

    ――国士舘のキャンパスは世田谷区の梅ヶ丘ですよね。そこから浅草って遠くないですか?

    小原 まあ当時は若かったから苦にならなかったですよね。会長のジムはいまの場所に引っ越してだいぶ経つんですけど、ボクが通ってた頃は雷門のすぐそばにあって。いまはプロレスラーや格闘家を養成する場所にもなってますけど、昔は普通のトレーニングジムでしたから。

    ――というと、プロレスラー志望で通ったわけではなかったんですね。

    小原 違いますね。それに大学を卒業したら普通に就職するつもりでしたから。ボクの田舎は長野県の松本なんですけど、長野県警や松本少年刑務所の先生になる話があったんですよね。県警の話は断ったんですけど、少年刑務所の方が上京する用事があるので上野で話し合いの約束をして。で、上野と浅草は近いから、その前にジムで練習してたんですよ。練習が終わって休憩室で水を飲んで休んでいたら、会長(アニマル浜口)が入ってきて「おまえ、将来はどうするんだ?」と突然聞いてきて。そんなこと聞かれたことは一度もなかったのに「おまえには何か夢はないのか?相撲取りになりたいとか芸能人になりたいとか?」と。プロレスという言葉は言わないんですけどね(苦笑)。

    ――プロレス入りを誘ってると思っちゃいますね(笑)。

    小原 ボクも「そういうふうに言われたらプロレスラーになりたいですね」と答えたら「人生は一度しかないから、自分の思うように生きたほうがいいぞ!」と背中を押されて。それで翌日から本格的にプロレスラーになるための練習が始まったんですよ。

    ――それまでプロレスの練習はされたことなかったんですか?

    小原 プロレスのトレーニングは一切やってなかったです。当時ボクの一個上にプロレスラー志望の子がいて、いまニューヨーク(WWE)に行ってるFUNAKI(船木勝一)がジムのトレーナーでプロレスラー志望で入ってきてて。その3人で練習をしてましたね。

    ――それがアニマル浜口ジムの一期生というか。

    小原 狭いジムに体操で使うマットを敷いてグラウンドの練習をやってましたよ。あれが浜口道場の原点。昔は会員さんがいないときに練習してたんですよね。

    ――その頃から京子ちゃんも練習してたんですか?

    小原 ボクがいた頃はまだジムには来てなかったですね。空手やったり、水泳をやってたりして、レスリングで才能が開花しましたけど。

    ――プロレスの練習は柔道と違いましたか?

    小原 いやあ、全然違いますね。柔道でもそれなりの練習をやってきたから自信はあったんですけど。柔道ってスクワットはあまりやらないんですよ。スクワットって数をやると大腿部ではなくて足の裏が一番効くんですよね。もう足の裏が張っちゃって張っちゃって。

    ――スクワットはどれくらいやったんですか?

    小原 最初から1000回くらいやりましたよね。しかも練習はそれだけじゃないですからね。バーベルだってあの頃は3〜4時間平気でやってましたし。

    ――プロレスラーの練習はやっぱりケタ外れですねぇ。

    小原 これはボクが新日本に入ったあとの話で話ですけど。小川がまだ現役柔道家の頃、JRAに所属してたんですよ。そこの柔道の監督がマサ(斎藤)さんや坂口(征二)さんと明治大学時代の同期で。その繋がりから、小川が外国人柔道家に手こずっていたこともあって、パワー対策の一環で新日本の道場に来たことがあるんですよね。

    ――へえー! そんな取り組みがあったんですね。

    小原 その練習にはマサさんや坂口さんも立ち会って。当時ボクはちゃんこ番だったんだけど、小川とは大学は違うけど同期で練習をやったことあるので、馳(浩)さんに「小川の練習に付き合ってやれ」ってことで。道場に行ったら、ちょうどジャンピングスクワットの練習だったんですけど、あの当時の小川はかなり太っていたし、やったことないとジャンピングスクワットなんか無理なんですよね。案の定、数回やったら足にきちゃって小川は倒れこんじゃったんですよね。

    ――世界チャンピオンでも苦しい練習なんですね。

    小原 そのあと裸のスパーリングをボクとやったんですけど、小川の足が笑っちゃってて、世界チャンピオンがボクにブン投げられましたからね。練習後に一緒に風呂に入って「小原、おまえはあんな練習を毎日やってるのか?」「いつもはもっとハードだよ」なんて話をして。また来るなんて話をしてましたけど、二度と来ませんでした(笑)。

    ――次に会ったのは小川さんが新日本入りしたときになるんですね。

    小原 あのときは早朝の道場に小川が自転車で現れたんですよ。「俺、今度新日本に入ることになったから」って。でも、合同練習には来ないし、佐山さんと2人で練習をやってたみたいで道場で会うことはなかったですね。

    ――小川さんのプロレス道場体験は実質なかったというか。

    小原 話を入門前に戻すと、大学4年の11月に新日本の入門テストがあったんですけど。ボクは10月の終わりから11月の中旬まで教員免許を取るために教育実習に行ってたんですよ。教育実習終了の2日後にテストがあったんですけど、向こうに行っちゃったら自分のトレーニングなんかやってる暇はなくて。昼間は授業、夜は柔道の実習をやらなきゃいけないし。で、教育実習から帰ってきてジムに顔を出したら、会長が「帰ってきたか!よし、スクワットやるぞ!!!!!」といきなりスクワットやりだして。「えっ、こんな状態でテストを受けるのかよ」って(笑)。

    ――浜口さんって当時からあのテンションなんですよね。

    小原 基本的にはテレビに出ているときと変わりはないですね。凄いなって思うのは家族でどこかに食事に行きますよね。いまだったら京子ちゃんも有名なので「サインしてください」とか頼まれるじゃないですか。そういうときの会長は「いま食事してるので……」とか絶対に断らない。どんどんサインを書くんです。

    ――凄いなあ(笑)。

    小原 会長が握手をしたり、写真を撮ってる横で食事をするみたいな。あと外を歩いてるときでも「気合いを入れてください!」って頼まれたら「気合だあ!!!!」って突然叫んで街行く人がビックリしたり(笑)。

    ――浜口さんの昔を知らないファンからすると、テレビでは過剰に演じると思われがちですけど、そこは変わりないんですねぇ。

    小原 ボクが新日本をやめたときも挨拶に行ったんですよ。2人で『かすみ』でいろいろと話をしてたんですけど。

    ――浜口さんの奥さんがやられていた小料理屋ですね。

    小原 そのとき会長が「俺はいま笑いビクスの特許申請してるんだよ!」と言い出して。いきなり「ワッハッハッハッハッハッ!」って大声で笑い出したんですよ。笑いビクスはいまではテレビとかでも披露してるから認知されてますけど、当時は誰も知らないじゃないですか。ビックリして唖然として見ていたら「馬鹿野郎!おまえも一緒に笑うんだよ!」って怒鳴られて(笑)。

    ――ハハハハハハ!

    小原 一緒に「ワッハッハッハッハッハッ!」って大声で笑ってたら、奥さんが2階から降りてきて「うるさい!近所迷惑でしょ!」ってえらい怒られましたね(笑)。

    ――「笑いビクス」は奥さんに認められてなかった、と(笑)。テストは合格されたんですよね?

    小原 合格しました。テスト内容はスクワット、腕立て、スパーリングもあったかなあ。一般的な基礎体力テストですよね。そのあと当時のテレビ朝日にあった新日本の事務所で面接があって。面接官は倍賞(鉄夫)さんと山本小鉄さんだったと思うんですけど。あの頃、小鉄さんが新日本プロレス学校というのをやってたんじゃないですか。

    ――金原(弘光)さんや池田大輔さんが通われてたんですよね。

    小原 大学を卒業するまでそこで練習してくれと言われたから、浜口ジムで練習したあと夕方に行ったんですよね。初めて行ったときは巡業中で選手は誰もいなくて、プロレス学校の会員数人と、あとマサさんがいたんですよ。マサさんから「一緒に練習をやるぞ!」と声をかけられたてトレーニングしたんですけど。卒業式の翌日に道場に行ったらマサさんから「おまえは俺の付き人だから」と言われて。

    ――マサさんの付き人だったんですね。

    小原 マサさんはあんまりガミガミ言わないし、外人係で本隊のボクとはホテルとバスも別々だから、付き人としてはそこまで大変じゃなかったんですよね。

    ――張り付かない付き人だったわけですね(笑)。

    小原 マサさんにはよくしてもらいましたよね。道場に「おまえ、いまから飲みに来い!」と突然連絡があって。行ったら「ウイスキーをストレート、ビールをチェイサーで飲め!」と。「これがテキサススタイルだっ!」ってマサさんは言うんですけど、ホントかよって(笑)。

    ――マサさんと最後に会ったのはいつですか?

    小原 マサさんが佐々木(健介)さんのところのアドバイザーをやってる頃、たまたま町中で会ったことがあって。俺のことをじっと見てるサングラスの奴がいるなあと思って通り過ぎたらマサさんで。「なんだマサさんじゃないですか!」「ゴツイ奴がいるなあと思ったら小原かよ!」なんて話をしましたね。そんときは杖を突いてましたけど。

    ――いまはリハビリ生活を送ってるそうですね。新弟子時代の生活は厳しかったですか?

    小原 そうでもなかったですよ。

    ――地獄の新日本道場と言われているのに(笑)。

    小原 学生時代と違ってメシはうまいものが食えるし、あと練習して金をもらえるという言い方はへんですけど、練習生でも当時は月4万円はもらえたんですよ。ボクはデビューが早くて6月の終わりにはデビューしたんですけど。当時は年間契約だから本当は途中で給料は上がらないんですけど、長州さんの計らいで10何万にしてもらって。衣食住は保証されてるし、お金には困ったことはないですよ、地方巡業が終わると選手から洗濯代をもらえましたし。

    ――洗濯代といいますと?

    小原 巡業のあいだ、先輩選手の洗濯番をやるんですけど、最後にまとまったお金をくれるんですよね。額は人によって違うんですけど、橋本さん、武藤さん、蝶野さん、佐々木さん、馳さんの洗濯番をやってたから合計で30万くらいもらえて。だから金に困らないですよね。

    ――小原さんの話だけ聞くと天国ですね。みんな新弟子時代は地獄だと言いますけど(笑)。

    小原 「大変だ」と思うから大変なんですよね。ボクはもっと比べ物にならない体験を大学時代にしてるので。ただ、ボクが入門した頃、橋本さんが「俺たちは大人の世界だから、後輩をイジメることはしない!」と言うんですけど、あとになって首を傾げることばかりで(苦笑)。

    ――ハハハハハハ! ドを過ぎたイタズラといえば橋本さんですよね(笑)。

    小原 あの人はとにかく枠にハマらない人物というか。昔の新日本合宿所の玄関に大きなマスが置いてあったんですよ。節分のときに豆を入れるマス。そこに500円玉が山積みにしてあったんですけど、50万円分くらいの札束が無造作に置いてあるときもあって。

    ――なんなんですか、それは(笑)。

    小原 「なんだろう、この札束は……?」ってビックリしていたら、どうも橋本さんの金らしくて(笑)。

    ――無防備過ぎるし、意味がわからないですよ(笑)。

    小原 橋本さんが道場にいないときに、長州さんが「そこの小銭でジュースを買ってこい!」とか新弟子に買わせるもんだから、お金がどんどん減っていくんですよね。そのうち橋本さんが「誰だ、俺の金を使ってるのは!」って怒りだして(笑)。


    ――橋本さんは道場に遊びに来てる感じだったんですよね。

    小原 そうですよね。大阪府立で興行があったときに、会場の近くに空気銃専門店があったんですけど、試合前に一緒に空気銃を買いに行きましたから。10何万したのかな。

    ――橋本さんが道場で誰かれ構わず撃ちまくったという伝説の空気銃ですか!

    小原 そうそう。大阪から発送して道場に届いたらさっそく開封して、喜び勇んで道場の外に出て、カラスやスズメを撃ちだして。しまいには隣のアパートの親父を撃ってましたから(笑)。

    ――ハハハハハハ! 危ないですよ!

    小原 昔から橋本さんとその親父は仲がよくなかったんですよ。空気銃で撃ったら怒っちゃって怒っちゃって(笑)。

    ――あたりまえです(笑)。

    小原 その親父は新日本が正月に餅つきを突くときに、そのスペースとして駐車場を貸してくれてたんですけど、そんなことがあったから「新日本には駐車場を貸さない!」と言い出して。ミスター高橋さんが謝りに行ってなんとか収めたんですけどね。橋本さんは撃ち落としたスズメを焼いて山本(天山)に無理矢理食わせたんですけど(笑)。

    ――出た、天山さんのスズメ食いエピソード!

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    作/アカツキ


    小原 アイツは馬鹿だから何匹もスズメを食ってるですよ。だから脅かしたんですよね。「馬鹿だな。虫が身体に湧いちゃうぞ!」「えっ、どうしたらいいですか??」「目黒寄生虫館に相談したほうがいいぞ」と言ったら、山本は本当に電話しちゃって。「すいません、私、スズメを食べてしまったんですけど、身体に虫は湧きますかね?」「……病院に行ってください」という馬鹿なやりとりをしてましたね(笑)。

    ――目黒寄生虫館への電話は小原さんがそそのかしたんですか(笑)。


    小原
     あの頃は橋本さんと山本の3人いることが多くて、とんでもないことばっかやってましたね。あるとき橋本さんが穴が開いたブロックを長い棒に突っ込んで持ってきたんですよ。それで「いまから山本がパンチで割るから!」と言い出して。でも、棒でぶら下げてるだけだし、固定されてないから割れるわけがないんですよ。でも、山本はホントに割っちゃって。

    ――凄い!

    小原 でも、山本の手が見る見るうちに腫れちゃって、案の定骨折。翌日から開幕戦なのに欠場することになって、長州さんと馳さんからメチャクチャ怒られて罰としてスクワット3000回ですよ。一方の橋本さんはおとがめなし(笑)。

    ――ハハハハハハ!

    小原 3人のネタはいっぱいありますよね。橋本さんは寝るものと食うものには金を惜しまない人で。枕は凄い高いものを買ってきたし、米も魚沼産の凄い高いものを取り寄せてて。それで橋本さんはチャンコを食べないんですよね。自分で何かを作って食べるんですよ。

    ――原価1万円の「真ちゃんラーメン」が有名ですよね(笑)。

    小原 橋本さんがラーメンを作ったから「山本!レンゲを取ってくれ」って言ったら、山本は台所じゃなくて、物置きに探しに行ってしばらくしてから「橋本さん、すいません。れんげ草はありませんでした!!」って(笑)。

    ――天山さんは天然なんですかね(笑)。

    小原 彼はホントはボクとは同期だったんですけどね。

    ――天山さんは一度、夜逃げしてるんですよね。

    小原 そうなんですよ。ボクは3月に入門したんですけど、山本は12月か1月に入って1回やめちゃったです。でも、山本のお父さんと新日本がお世話になってる名古屋のプロモーターの方の仲が良くて。そのプロモーターから木村健悟さんにあらためて話があって、また道場に戻ってくることができたんですよね。じゃなかったら、夜逃げしてるのにまた入門なんてありないですよ。

    ――そういえばそうですね。

    小原 戻ってきた山本は道場にひとりで突っ立ってるんですよ。しかも4時間くらい突っ立てるんですよね。周囲は「何しに戻ってきた」みたいな雰囲気で誰も声をかけないんですけど。だったら何か自分から言えばいいのにずっと立っていて。

    ――やっぱり新日本道場は厳しかったということですかね。

    小原 うーん、でも、アマチュアではないんだし。プロレスラーは選ばれし者というか、当時はなかなかなれない職業でしたからね。厳しくてあたりまえだと思うんですけどね。

    ――石澤(常光)さんはのちに全日本やIGFとか他団体の道場でコーチをしてましたけど、とにかく指導が厳しいという話は伝わってきますね。

    小原 ボクもそうですけど、石澤はアマチュアでキッチリやってきたからあたりまえのことだと思うんですけどね。ましてやプロでしょ。それで飯を食ってるから厳しいと思うのがおかしいと思うんですよね。だったら普通に働いたほうがいいんじゃないのって。小学生のクラブじゃないんだから。

    ――厳しくてあたりまえがプロの世界。

    小原 石澤も「厳しい」と言われてクエスチョンマークがついたと思いますよ。高校時代からやってきたことを教えてるだけだし、そこまで厳しくもないと思うんですよ。アイツがいた光星学院のレスリング部は練習が厳しくて有名でしたからね。ランニングのときは、スクターに乗った先生がろうそくを持って追いかけてくるらしいですもんね、「もっと早く走れ!」って。綱登りするときなんて、一番上まで上がったら、体育館天井の鉄骨に飛び乗って懸垂をやって、それでまたロープに飛び乗って降りてくるみたいですから。

    ――一歩間違えたら大怪我ですね……。

    小原 アマチュアの世界は上下関係含めて凄く厳しいんですよね。そこから来た人間と、プロレスファンとして入った人間ではだいぶ違うんじゃないですかね。大学までアマチュアできっちりやってきた人間は「練習が厳しい」なんてことは言わないですから。

    ――小原さんはセメントでも強かったと聞きますね。

    小原 みんな弱いってことですよ。アッハッハッハ! 
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