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「途絶えてしまった 責任感のある科学 “錬金術”」
その原作はこれです。
(本を見せる)
これは岩波文庫から出ている『ノートル=ダム・ド・パリ』の単行本なんですけど、こんなに分厚いんですね。
しかも、これはあくまでも上巻で、この後には、さらに分厚い下巻が続いているんですよ(笑)。
そんな、「いい加減にしろ!」っていうくらいメチャクチャ分厚い文庫本が2冊もあるんですけど、この原作本は、まあ読めないんですよ。
この「読めない」というのは、「難しいから」というよりも、はっきり言って「現代の僕らにとってはわりと退屈だから」なんですね。
でも、読めなくて当たり前なんですね。
やっぱり、この作品は、当時のフランス人でしか面白くないような話なんですよ。
そして、ユーゴーの後の作品である『レ・ミゼラブル』は黙読のために書かれた小説なのに対して、この『ノートルダム・ド・パリ』というのは、どちらかというと音読の小説なんだそうです。
だから、フランス語の音感の通りに発声したものを聞かないと、あまり面白くない作品であると、鹿島さんは言ってます。
まあ、フランス語を読めないし発音できない僕には、それが本当かどうかわからないわけなんですけれどね(笑)。
この『100分de名著』の『ノートルダム・ド・パリ』の回の本は、わりと頼りになるアンチョコです。
実は、僕が思うに、おそらく、これは『雨月物語』とか『宇治拾遺集』とかに出てくる怪談に近いものなんですよ。
そして、やたらと長い。
そういう意味で、どちらかと言うと、日本の古来からある怪談に似たようなものと考えた方が掴みやすいと思います。
とりあえず原作を読んだ上での僕の全体の印象は、もう本当に「『雨月物語』の中に入ってても不思議じゃない」というものでした。
(本を見せる)
『トキメキ夢文庫 ノートルダム・ド・パリ』という、漫画とイラストで読める、子供向けの解説本ですね。
帯にもに書いてある通り、この本は小学校6年生までに習う漢字で読めるという子供向けの解説本なんです。
おまけに、全ての漢字にルビが振ってあるんですね。
僕ね、実は正直、この本のことをバカにしてたんです。
けども、買って読んでみたら、これがメチャクチャ役に立つんです。
その方が、絶対にわかりやすいんですね。
なので、まずは、ここから読み始めるのが良いと思います。
さらに、それがディズニーの『ノートルダムの鐘』になった時にも、またメチャクチャにお話が変えられるんですね。
でも、変えられる前のお話というのは、映画化するにあたって変えざるを得ないようなものなんですよ。
さっきも言ったように、これは『雨月物語』のような、もう本当に、読むのがシンドい話ですから。
「じゃあ、どの部分を変えたのか?」というのを知るために一番良い文献が、このラノベ風の表紙の『トキメキ夢文庫 ノートルダム・ド・パリ』だと思います。
(パネルを見せる。主要4人物の相関図)
左上から、愛の象徴であるエスメラルダ。
そして、その下が“フロロ”という、ノートルダム寺院の司教補佐のオジサンです。
右下が、カジモドというせむし男ですね。
で、右上にいるのが、わりと知られていない、イケメンでリア充の“フェビュス”隊長なんですけど。
このフェビュス隊長の紹介イラストには、吹き出しで「僕も君を愛してるよ。(婚約者がいるけどね)」というのが書かれているんです。
もう、この台詞には、この本の作者の「とにかく、これを言わなければ気が済まない!」という悪意のような、正義感のような感情が入っているんですね(笑)。
フェビュス隊長のこういった部分というのは、他の映画版やディズニー版では全部 省かれてるんです。
だから、ディズニー・アニメをモチーフにしている劇団四季のミュージカルでも、全部 飛ばしてるんですけど、この『トキメキ夢文庫』では、こういった部分もちゃんと表現しているわけなんですよ。
この『ノートルダム・ド・パリ』の鹿島さんの解説は、ハッキリ言って、ヴィクトル・ユーゴーの小説に関する分析という意味では、まあ浅いです。
ただ、当時のパリの情景とか、「なぜこの作品が書かれたのか?」という背景はメチャクチャ深いので、とりあえず副読本として、これは読んでおいた方がいいと思います。
これが、今回、僕が『ノートルダムの鐘』を取り上げようと思った理由です。
そう聞いて、「これはもう、ニコ生ゼミで取り上げる価値がある!」と思っちゃったわけなんですけど(笑)。
「モテない男の愛は報われない」というのはどういう意味かというと。
原作の『ノートルダム・ド・パリ』では、フロロ司教補佐もカジモドも、エスメラルダを激しく愛しているんですけど、この2人の愛は全く報われないんです。
エスメラルダは、ただ単に「見た目がいい」というだけの理由で、クズ男のフェビュス隊長を好きになってしまって、物語の最後まで、これは1ミリたりとも変わらないんですよね。
つまり、「怪物が美女に恋愛しても、悲劇しか生まないよ」という話なんです。
「キングコングがヒロインを拐ってエンパイアステートビルに登る」っていうのは、完全にそれの翻案なんですよね。
つまり、名作映画というのは、決してゼロから生まれてくるものではなくて、過去の作品からの引用で作られるんです。
ヒロインとの心の繋がりはあるから。
野獣は最後にはイケメンの王子様になるから。
だけど、『ノートルダム・ド・パリ』というのは、そういった救いが一切ない世界なんです。
そして、だからこそ、ディズニーのスタッフはこの作品を選んだんですね。
ただ、ハッピーエンドにするために、大幅な改造をしてるんです。
してるんだけども、「モテない男の愛は報われない」という部分だけは、これを原作にしたどの作品でも再現しようとしているんです。
この辺が、面白い所であります。
わりと古い作品です。
(パネルを見せる。古い映画のポスター)
1923年、第2次大戦前に作られたアメリカ映画です。
このポスターは人口着色してありますけども、当然、モノクロのサイレント映画です。
ディズニー版とは全然違いますよね(笑)。
ディズニー版では、せむし男のカジモドが、ただ単に“ガタイのいい男”になってるんですよ。
あれと同じで、カジモドも、別に絵的にグロテスクな怪物としては描かれていないんですけど。
この映画のカジモドは、かなり醜い顔です。
でも、“ノートルダムのせむし男”って言うのなら、この映画くらいやらなきゃダメなんですね。
フランス革命の真実とは、「市民が民主主義のために立ち上がる」では全くなくて、「下層階級が面白半分に武装蜂起して上流階級を倒す」というものなのだと、この映画の中では描いてるんですね。
だから、やたらと革命シーンみたいな描写が多いです。
まあ、1923年というのは、サイレント映画がかなり進化してきた段階であって、ただ単に怖い話とか昔話をやる時にも、現代の問題というのをテーマに盛り込むように、徐々になってきた時代だったんですね。
だから、こういう映画になったんだと思います。
『ノートルダムの せむし男』というカラー映画ですね。
ジーナ・ロロブリジーダという女優を前面に押し出した映画です。
まあ、このジーナという女優は、『紅の豚』のジーナの名前のモデルにもなったんでしょうけれども。
どういうことかというと、実は、このエスメラルダ、原作とは全然違うんですよ。
原作の『ノートルダム・ド・パリ』のエスメラルダは「16歳のジプシーの女の子で、男性経験が全くなくて、歌と踊りが純粋に好き」っていう、本当にアイドルみたいな設定なんですね。
そのアイドルに、メチャクチャ入れ込んでしまったオッサンとブ男が、両者報われないという、「俺達の話だ!」みたいになってるわけなんですよ(笑)。
だけど、この映画では、ジーナ・ロロブリジーダという明らかに20歳を過ぎている。
30手前くらいの峰不二子みたいな女が、「醜いカジモドみたいなのにも愛を注ぎますよ」という人間愛がテーマになっています。
この頃から、『ノートルダム・ド・パリ』の描かれ方も、人間愛というテーマの方にズレて行くわけですね。
だから、劇団四季のミュージカルを見て、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』がわかった気持ちになっては、いけないわけですね。
どれくらい違うのかなあ?
「漫画の『デビルマン』と実写の『デビルマン』ぐらい違う」と言えば、わかりやすいですかね?
まあ、ちょっとネガティブな言い方になっちゃうんですけど(笑)。
それくらい違うと思っておいてください。
「え?!それってどういうこと?」「そこのところ、もっと詳しく知りたい!」という人は、どんどん、質問してみて下さい。
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コメント
コメントを書く心配はノンノンノートルダムよ!
原作が読み難いのは自分が文章が苦手だからだけじゃなかったのか
1950年くらいから前に書かれた小説は、文体からネタ・オチまで古さは否めないよ。
如何にいま現代の小説が洗練されてきたかがよく解かるわ。
当時のパリの大学・移民の様子・ロマネスクからゴシック建築への移り変わりの資料として読むもの。人物とオチはユゴーの通常運転だと思う。
あとオタクってディズニーを小馬鹿にする義務でもあんのか。
>>3
?
ノートルダム・ド・パリは1831年に出版された本なんだが、文字通り桁が違うぞ
近代小説の起源は18世紀だから古さとかいうレベルじゃないし、むしろ原始だし、
文中ジーナ・ロロブリジーダが出た映画「ノートルダムのせむし男」(1956年)と勘違いしている・・・?
別にディズニーを馬鹿にはしてないと思うので、ちゃんと続きの記事まで読みましょうね。