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「【『かぐや姫の物語』解説 補足】 高畑勲の作家としてのホームポジション」
実は私、大学、大学院で古典文学を専攻していました。
だから高畑さんの「かぐや姫」は公開当時からとても興味深かったです。
とくに「これはすごい!」と思ったシーンが姫が琴を弾く場面です。
岡田さんは、「姫は異性の前ではスキルが上がるので、翁がやってきたら琴を弾きこなせてしまった」と解釈してらしたのですが、わたしは別の解釈をしました。
そこがわりと好きですが。
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僕らが「琴」と言われた時にイメージするのは、正しくは “ソウ” という楽器なんです。
つまり、琴には、“キン” と “ソウ” というのがあり、元々のキンというのは、もう僕らは、ほとんど見ることができないんです。
録音の時に、ミュージシャンの人が来たんですけど、そこに用意されていたのが “ソウ” だったんですよ。
いわゆる、現代でも使っている普通の琴が置いてあった。
なので、高畑さんに、アニメの監督だから知らないんだろうと思いながら「これね、実は違う楽器なんですよ」というふうに言ったら、高畑さんが「そうなんですよ。 これは違うんですよね。 “キン” でなければ」と言ったそうなんですよ。
それに比べて、かぐや姫が使っていた時代の “キン” というのは、もっとくぐもった音だそうです。
なので、結果、しょうがないから弦の下にタオルを何枚か敷いて、音があまり反響しないようにして、かぐや姫が琴を鳴らすシーンを作ったそうなんですけども。
それをちょっと思い出して、「本当にすごいな、あのオッサン」というふうに思いました。
高畑アニメに関しては、本当に研究すればするだけ深みがあるんですよ。
作者としても「まあ、ついて来れる人だけついて来てくれればいいよ。 初心者にもわかりやすくはしてるけど、実はその奥にもいろいろと考えて用意してるんだけど」という作り方。
あとは『約束のネバーランド』もそうかな?
他にも『HUNTERXHUNTER』なんかもそうなんですけど。
それに対して、「漫画とかアニメの役割というのは、とにかくわかりやすいことであって、テーマとかも、できるだけセリフとして直接表現するし、とにかく間口を広げて、できるだけ沢山の人にわかって貰おう」という作り方。
「とりあえず見てる人 全員に分かってほしい」という文法で作るんですね。
これはもう、「ほとんど例外なく」と言ってもいいくらいです。
僕も好きだったテレビであんなにイケてた人が、映画を作ると深みがなくなってしまう理由は、テレビと映画が本質的に持っているものが違うからです。
テレビというのは、全てを明らかにして、分かるようにして、その分かるものの連続で何話も何話も話数を掛けて、ゆっくり見せて行くものなんです。
『真田丸』もそういう作り方ですよね。
でも、テレビアニメとして『赤毛のアン』とか『アルプスの少女ハイジ』とか『母をたずねて三千里』をやった時には、ドンピシャなんです。
それが映画になると、もう、カルピスの原液状態で、「いや、高畑さん、そこまで作っておいて、『かぐや姫の物語』って、お話はクソつまんないですよ」というふうに思っちゃうんですけども(笑)。
いや、高畑さんの『火垂るの墓』にしても『かぐや姫の物語』にしても、ストーリーだけ見れば絶対に弱いんですよ。
だけど、それをテレビシリーズに持ってくると、ストーリーが弱くても、何話も何話も使えるから、すごいものを伝えられる。
たとえば、『母をたずねて三千里』なんて、言ってしまえば「イタリアのジェノバにいた、10歳にもなっていないような少年のマルコが、大好きなお母さんに会いたい一心で、一生懸命に海を渡ってアルゼンチンまで行って、さんざん苦労してお母さんに会えた」というだけの話なんですよ。
だけど、これをテレビで50回に分けてやったらどうなるのかというと、ものすごいことになるわけですね。
それなのに、50話も掛けて、1年連続のテレビシリーズに使うような情熱を、たった2時間くらいの枠の中に込めてしまうと、『かぐや姫の物語』のような “沼” みたいな作品が出来ちゃうんですよ(笑)。
「え?!それってどういうこと?」「そこのところ、もっと詳しく知りたい!」という人は、どんどん、質問してみて下さい。
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