• このエントリーをはてなブックマークに追加

ゆーさん のコメント

天才って言うか父親に認められたい子供って感じだな
努力して東大合格や著書も出してるわけだし、全然滑稽な人生なんかじゃないよ
滑稽って言うのは、自分は天才だ!って言いつつ何もせず周囲のせいにばかりしてる人の事だよ
それに自分は天才だと思い込むことが、頑張れる原動力になったのなら結果オーライでしょうw
周囲が自分の望む評価をしてくれなかったとしても、結果を残していけばそのうち認めてくれると思いますよ
No.135
144ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
少年は1968年の7月に生まれた。昭和43年だ。東京オリンピックから4年後の、メキシコオリンピックの年だった。 少年は、生まれた時からちょっと特殊な環境にいた。生まれた病院は、父の兄(つまり伯父)が医師として勤務する東京新宿の慶応病院だったが、彼の両親は、そのほんの数ヶ月前まで、アフリカのガーナにいた。彼はガーナで受胎して、生まれるために日本に帰ってきたのだ。 さらに、生まれたばかりの少年は生後1ヶ月で機上の人となる。今度は、父親がハーバード大学の大学院に留学するため、それについてアメリカのボストンに渡ったのだ。 少年は、ボストンで2歳までを過ごす。それから、弟が産まれた1970年に日本に帰ってくるのだが、帰ってきた彼をちょっとした異変が襲った。毎晩、悪夢に悩まされるようになったのだ。 それはきまって明け方にやってきた。内容はいつも同じで、セサミストリートのビッグバードが家の中まで侵入してきて、ベッドで寝ていた少年を誘拐しようとするのである。すると、それに気づいた少年が泣き叫んで、ようやく異変に気づいた父親が、夢の中でビックバードの手から息子を奪い返そうと戦った。少年は、誘拐される恐怖からずっと泣き叫んでいるのだが、そのまま、いつも泣き叫びながら起きるのであった。この悪夢は、およそ1年にわたって続くこととなる。 なぜそんな悪夢を見たのか? 夢の内容が指し示す意味は分からないが、基本的には、アメリカから日本へ引っ越したことの環境の変化に戸惑っていたのだろう。少年は、生まれた場所こそ日本だったものの、2歳までのほとんどの期間をアメリカで過ごした。だから、アメリカは彼にとっては故郷ともいえるのだった。その場所から遠く離れたことに、言いしれぬ不安を感じていたのだ。 物心がついた4歳の頃、少年は東京日野へと引っ越す。この頃、ようやく悪夢を見なくなった。しかし今度は、また別の悪夢が彼を襲うことになる。ある時から、「自分は天才だ」と思うようになるのだ。 そう思うようになったのには、二つのきかっけがあった。 一つは、絵がとても上手かったこと。少年は、はじめは意識していなかったのだが、描いた絵がいつも周りから上手い上手いと褒められていた。保育園に上がる頃には、自分でも、同級生の絵との間には大きな差異があることを自覚するようになる。それで「自分は特別な人間ではないか」という考えが、徐々に形成されていったのだ。 もう一つは、父親との関係の中で育まれていった。 少年は、何かの理由で説教をされた折、父親の理屈が上手く通ってない箇所を見つた。そこで、その箇所をしつこく追求したところ、逆上した父親から「理屈をこねるとは男らしくねえ」と激しく叩かれた。そうなると、少年としてはもう降参せざるを得なかったのだが、しかしこの時、「理屈では父親に勝った」という思いが芽生えた。それで彼は、「自分は頭がいいのだ」という思いを、やがて醸成することになるのである。 主にこの二つのことをきっかけに、少年は「自分は天才なんだ」と認識し始めた。そしてそれは、思い始めた瞬間からほとんど確信のような形で彼の人格の根っこのところにドンと居座った。おかげで彼は、それ以降の人生を、その悪夢を抜きにしては過ごせないようになってしまうのだ。 これが、少年の人生を大きく狂わせる。 まず彼は、自分が天才であるということを周囲に伝えようとした。それは、はじめはきわめて素直で率直な気持ちからだった。単純に、自分が天才だということを伝えたかっただけなのだ。それは、保育園で今日あった出来事を親に報告するような感覚だった。何の気もなしだった。またそれは、自分と同様、周囲にもそのまま額面通りに受け取ってもらえるものと、この時まで疑っていなかった。 ところが、両親はそれを全く認めようとしなかった。子供の戯言として受け取らないばかりか、正面から否定したのだ。 「子供がそういう気持ちになることは、よくあることだ。お父さんの同僚の国吉くんも、高校生の頃まで『自分は天才だ』と思っていたらしい。しかし大人になって、ようやく『ただ馬の骨に過ぎなかった』と気づいたという。だからおまえも、大人になったら気づくはずだ。自分はただの馬の骨に過ぎない――って」 しかし少年は、44歳になってもまだ、「馬の骨」だとは気づけずにいる。だから、父親のその予言は外れることになるのだが、しかしこの時の少年には、もちろんそんな未来を知る由もなかった。 それから少年は、両親――とりわけ父親に、自分が天才であることを証明しようと、さまざまに努力を始める。 まず、絵と国語が得意だったので、これに磨きをかけようとした。絵は先述したようにみんなから褒められていたし、読み書きや論理的に考えることにもすぐれていた。 また、個人的には野球が好きだったから、野球をすることにも一生懸命取り組んだ。 ただしこれは、絵や国語ほどの才能はなかったから、その道に進もうとまではしなかった。やはり、絵と国語の能力を生かした道に進むのが一番だと、子供の時から考えていたのである。 そうして少年は、それらの才能を武器に、自分が天才であることを証明するために、努力を続けた。すると、東京芸大にストレートで合格を果たした後、作詞家の秋元康氏に弟子入りすることが叶って、エンターテインメント業界でクリエイターとして働くようになった。40代でははじめての本を出すこととなり、それはその年一番のベストセラーとなった。 そうして今に至るのだが、しかし少年は、いまだに父親から――またそれ以外の人からも、天才とは認められていない。おかげで、今でも悪夢に悩まされながら、今日を生きているのである。 関連動画 「ハックルさんのルーツを探る」ゲスト:川上量生さん+岩崎夏海さんのご両親」 関連エントリー 「ぼくの結婚式における父の挨拶全文(2,788字)」
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。