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無銘_七誌さん のコメント

「犠牲」とか言って美化してるけど、なんか違和感あるなぁと思ったら、
「生贄」に差し替えたら理解までは出来た。

だが死なずに帰って来るスポーツに、生贄説使うのはお門違いだろ。


あと戦後に格闘技云々言ってる奴、戦後に流行ったのは必ずどちらかが勝つ上に、
徴兵を生き残ったから体力有り余ってる奴が多かったのが根本的な理由じゃねーの?
強制的にひとつの集団に集められたから、横のつながりも広かったろうしな。

だから戦後は、あらゆる分野で活性化が起きて当たり前なんだ。

技術の平和利用も恐ろしく早く進むし、
勝とうが負けようが得た敵国の情報や技術は、全て使い倒され、徹底分析し直される。
個人的に戦争自体は、肯定も否定もしない。
文化という生命体の生存競争及び、突然変異の結果でしか無い。

とりあえず前提として「甲子園が流行る」の文脈からして、
高校野球、かつ観客、という前提条件があると見受けられるが、
偉そうに語る前に、前提条件くらい明確に示せ。


参加者とか野球ゲームとか野球盤じゃなく、
甲子園球場を中心として全国各地で行われている高校野球のうち、
年齢に左右されず「流行可能な立場」として、観客だと断定して話を進める。


で、何故野球が~ってなると、代理戦争ですら無い。
フィジカルチャージ、要するに
体当たりやユニフォームの引っ張り合いとファウル判定の境界線との戦闘
に該当するものが、固定地点でしか起きない。
現場司令官すら、必要無い。
居ても塁を回るか止まるかの伝令と、ベンチで全権を握る将軍のみだ。
チームプレイすら存在しない。
有ってもスタンドプレイの複合によるチームワークくらいだ。

そんなものはもはや、あらゆる戦争に類する行為から外れている。
ただの実験、
信号機システムが存在しない都市で道路横断に全力疾走を必要とする散歩、
試合時間の規定が無いせいでロスタイム前提の動きをするが全力も出し切る手の込んだ手抜き、
等と言い換えてもいいくらいだ。

個人的には、野球及びベースボールは、全身の筋肉を使った心理戦だと思う。
そこに怪我はほぼ存在せず、生命を失うほどの事故は万が一にも起こらない。
かといって、ボードゲームのように複雑なルールを、観客に強要しない。
ラジオの実況程度の情報伝達速度でも、十分に試合状況を思い浮かべる事が可能。
この時点で、格闘技だけでなく映画のような映像媒体も除外される。

ついでに、ゴルフのように現地観客に移動の必要性を生じないし、
TVの前のゴルフ観客にも、継ぎ接ぎだらけの大人数の選手状況を再構成させる事も無い。
それどころか、ハイライトと結果だけなら、丸一日の10程度の試合が、
たった十分足らずに収まる。
こんなに無難な話題を短時間で仕入れられるスポーツがあるか?

要するに、観客に負担を強いないスポーツだからだ。


何故人気が出たか?
心も、体も、特に脳が、休養を兼ねた非日常を欲しているからさ。
こんなに何も考えずに、ただ見てるだけで面白さを多少なりとも感じれる上に、
ここまで最低限必要な情報量が少ないスポーツがあるか?

共通の話題をラクに入手出来るから消去法で選ばれた、っていうオチにも見える。

一部界隈で流行っているフィジェット(フィンガー・ガジェット=手遊び道具)も同じ事が言える。
ペン回しより技術を必要とせず、
電子機器のような誤操作による副作用も無く、
脳をほとんど使わず、ただ指を使う。
共感や理解が得られるかどうかなど、そこに介在しない。
考えず、ただ指先で感じる。
気の赴くがままに、ただ触る。
そこに機能性も生産性も必要無い。
人間用の自分で動かす猫じゃらし。
プチプチ潰しと何が違うかなど、携帯性や可逆性くらいで、そこに貴賎すら存在しない。
ルールは簡単。落とさず、可能な動作をさせるだけ。


共通点は、

脳を圧迫する情報量も無く、
体を疲労させる運動量も無く、
拘束される時間も無く、
それを行うために要求される環境も無い。

目的を果たす小道具ひとつと、
ほんの少しの前提知識さえあれば事足りる。


何と無しに現代人類は、半受動的な癒しと、共通の話題に飢えてるのさ。
No.43
88ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
毎日新聞からインタビューの依頼があった。 今、甲子園人気が再燃していて、その理由を考察してほしいとのことだった。 そこで、それに答えた。 ところが、その発言が、言葉を抽出されたあげく曲解され、おかげでぼくが炎上してしまった。 この記事だ。 <甲子園>古き良き時代の天然記念物? 高校野球の人気復活 - 毎日新聞 そこで、その誤解を解くために、ぼくがどういうことを話したかを以下に書く。 本当はもっと長く、違うことも話していたのだが、ここでは主に炎上した部分についてのみ書いた。 毎日新聞の質問は、「なぜ今、甲子園人気が再燃しているか?」というものだった。 それに対して、ぼくは以下のように答えた。 高校野球の人気の秘密は、その「祭り性」にある。 祭りにおいては、古来より「犠牲」が重要な役割を担ってきた。例えば、牛や羊を犠牲にする場合もあれば、人間自身が犠牲になる場合もあった。古代ローマの剣闘士も、祭りの重要な「犠牲」だった。現代では、闘牛が典型的な犠牲だろう。あるいは、裸で神輿を担ぐという日本の祭りも、きつい思いをしているところを衆目にさらすという意味で、一種の犠牲だといえる。 では、なぜ祭りに犠牲が必要かといえば、それは犠牲を見た人々が「生きていることや生命のありがたさを実感できるから」だ。そして、心の安らかさを得られるのだ。あるいは、犠牲になった人や動物を見ると、生きる気力が湧いてくるということもある。 これを、アリストテレスは「カタルシス」といった。人は、誰か(何か)が犠牲になっているのを見て、自分が生きていることを実感できるという心理構造になっている。そして祭りは、その構造を使って人々を元気にするという社会的な役割がある。 翻って、甲子園は炎天下のもと、衆目を集める中でピッチャーが、体力的にも心理的にも酷使される。これは、祭りの構造とそっくりだ。高校野球においては、ピッチャーが祭りにおける犠牲の役割を担っているのである。それが人気の本質的な理由なのだ。 そもそも、日本の「夏」は祭りと相性がいい。日本の祭りのほとんどは夏に行われる。その上、野球は空間的にも機能的にもピッチャーに注目が集まるような構造になっている。これは、サッカーをはじめとする他のスポーツとは全然違う。野球以外に、これほど一人の人物にスポットが当たるような構造のスポーツはなかなか見当たらない。バッター以上にピッチャーに注目が集まるという構造は、1対1のスポーツとさえ全く違う。 その意味でも、甲子園におけるピッチャーの「祭りの犠牲役」としての役割はますます強まる。それゆえ、高校野球の「祭り性」はより一層強固なものとなっているのだ。 ところで、祭りというのはそもそも心が弱った人たちを元気づけるために行われる。 もし今、甲子園人気が再燃してきたのだとしたら、それは多くの人の心が弱っているからではないだろうか。多くの人が元気を失っているから、そういう人たちが心を元気にするために、「祭り」としての甲子園を必要とするようになったからではないだろうか。ぼくは、そのように推察した。 ただ、こう聞くと甲子園のことを「ひどい」と思う人もいるかもしれないが、人間の中には、自らが犠牲になって人々を元気にすることに、生きる喜びや社会における役割を見出すという気持ちもある。それに喜びを覚えることもあるのだ。 その意味では、win-winの構造にもなっているので、一概に悪と決めつけることはできない。 以上が、ぼくが述べたことである。 この話は確かに少し「えぐい」ところもあり、また難しい話でもあるので、誤解される危険性は大きい。だから、本来は新聞の短い字数で紹介できることではなかったのだ。ぼくは20分以上話したのだけれど、あれだけの字数にまとめられてしまっては、誤解は避けられない。その意味で、あの話は書くべきではなかったと思う。あるいは、ぼく自身も言わなければ良かったが、しかし本当に思っていることなので、正直に話してしまったのだ。 ぼくとしては、上の記事が炎上し、誤解を受けたままではとてもつらい。今は夜中の2時半だが、おかげで眠れなくなった。だから、釈明の記事を書きました。
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。