毎日新聞からインタビューの依頼があった。
今、甲子園人気が再燃していて、その理由を考察してほしいとのことだった。
そこで、それに答えた。
ところが、その発言が、言葉を抽出されたあげく曲解され、おかげでぼくが炎上してしまった。

この記事だ。

<甲子園>古き良き時代の天然記念物? 高校野球の人気復活 - 毎日新聞

そこで、その誤解を解くために、ぼくがどういうことを話したかを以下に書く。
本当はもっと長く、違うことも話していたのだが、ここでは主に炎上した部分についてのみ書いた。

毎日新聞の質問は、「なぜ今、甲子園人気が再燃しているか?」というものだった。
それに対して、ぼくは以下のように答えた。

高校野球の人気の秘密は、その「祭り性」にある。
祭りにおいては、古来より「犠牲」が重要な役割を担ってきた。例えば、牛や羊を犠牲にする場合もあれば、人間自身が犠牲になる場合もあった。古代ローマの剣闘士も、祭りの重要な「犠牲」だった。現代では、闘牛が典型的な犠牲だろう。あるいは、裸で神輿を担ぐという日本の祭りも、きつい思いをしているところを衆目にさらすという意味で、一種の犠牲だといえる。

では、なぜ祭りに犠牲が必要かといえば、それは犠牲を見た人々が「生きていることや生命のありがたさを実感できるから」だ。そして、心の安らかさを得られるのだ。あるいは、犠牲になった人や動物を見ると、生きる気力が湧いてくるということもある。

これを、アリストテレスは「カタルシス」といった。人は、誰か(何か)が犠牲になっているのを見て、自分が生きていることを実感できるという心理構造になっている。そして祭りは、その構造を使って人々を元気にするという社会的な役割がある。

翻って、甲子園は炎天下のもと、衆目を集める中でピッチャーが、体力的にも心理的にも酷使される。これは、祭りの構造とそっくりだ。高校野球においては、ピッチャーが祭りにおける犠牲の役割を担っているのである。それが人気の本質的な理由なのだ。

そもそも、日本の「夏」は祭りと相性がいい。日本の祭りのほとんどは夏に行われる。その上、野球は空間的にも機能的にもピッチャーに注目が集まるような構造になっている。これは、サッカーをはじめとする他のスポーツとは全然違う。野球以外に、これほど一人の人物にスポットが当たるような構造のスポーツはなかなか見当たらない。バッター以上にピッチャーに注目が集まるという構造は、1対1のスポーツとさえ全く違う。

その意味でも、甲子園におけるピッチャーの「祭りの犠牲役」としての役割はますます強まる。それゆえ、高校野球の「祭り性」はより一層強固なものとなっているのだ。

ところで、祭りというのはそもそも心が弱った人たちを元気づけるために行われる。
もし今、甲子園人気が再燃してきたのだとしたら、それは多くの人の心が弱っているからではないだろうか。多くの人が元気を失っているから、そういう人たちが心を元気にするために、「祭り」としての甲子園を必要とするようになったからではないだろうか。ぼくは、そのように推察した。

ただ、こう聞くと甲子園のことを「ひどい」と思う人もいるかもしれないが、人間の中には、自らが犠牲になって人々を元気にすることに、生きる喜びや社会における役割を見出すという気持ちもある。それに喜びを覚えることもあるのだ。
その意味では、win-winの構造にもなっているので、一概に悪と決めつけることはできない。


以上が、ぼくが述べたことである。
この話は確かに少し「えぐい」ところもあり、また難しい話でもあるので、誤解される危険性は大きい。だから、本来は新聞の短い字数で紹介できることではなかったのだ。ぼくは20分以上話したのだけれど、あれだけの字数にまとめられてしまっては、誤解は避けられない。その意味で、あの話は書くべきではなかったと思う。あるいは、ぼく自身も言わなければ良かったが、しかし本当に思っていることなので、正直に話してしまったのだ。

ぼくとしては、上の記事が炎上し、誤解を受けたままではとてもつらい。今は夜中の2時半だが、おかげで眠れなくなった。だから、釈明の記事を書きました。