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さごしさん のコメント

これは多角的に深く考えてみたい文章だと思ったので、
とても長い文になります。すみません。

歴史のなかでどんな作品も各時代の人々によって評価されるから、
今も昔もいいものばかりが生き残るわけです。図書館にある古典小説が
すべて読むに値するとは限りませんし、埋もれてほとんど知られていない
作品にも傑作はあるでしょう。しかし、少なくとも現代のラノベに、
それらと同じものをどれだけ求められるでしょうか。

高校時代、魯迅や夏目漱石を読んでいた私に、嘲笑気味に
「そんな古いものは時代遅れで価値がない」と言った知り合いがいました。
私はそのとき反論できなかったものの、心に強い違和感が残りました。
彼は読書量は私よりずっと多かったですが、読んでいるのはラノベばかりで、
残念ながら彼の書く小説はお世辞にも上手いとはいえませんでした。

面白いと思えなければ古典なんて読んでもしょうがない。
でも、大半のラノベと古典の名著といわれるものの間には、
明確な違いがあると思います。
人物、背景、それぞれの状況とセリフ、地の文と、
作り込みの細かさや隙のなさ、言葉選びの的確さ、
そういう点で学べる部分は少なくないんのではないでしょうか。

でも私は、本当に大事なのはそれら以外の部分だと思っています。
>>7が「普遍的な法則」といっている点。
何かしら古典に触れれば、これが何なのか感じ取れる可能性があります。
それはたぶん、簡単に言葉に表せるようなものではありません。
小説に限らず、何かを生みだすときに必要な気持ちのようなものです。
短い小説や落書きのような絵であっても、作り手の気持ちや考え方、
ひいては生き方が大なり小なり、作品に表れてきます。
一生懸命に作れば、込められるそれらは大きくなる傾向にあります。
本当に見習うべき、哲学のようなものを
もってつくられた作品に触れていれば、
自分が作品を生み出すとき何をどうすればいいのか、
よりはっきりわかるかもしれません。

古典に触れれば名作ラノベが生み出せるようになる、という
甘い世界ではないでしょうが、ネタに困ったときに古典を読んで得たことが
特別な発想をもたらしてくれる確率はゼロではありません。

ただ、ラノベとはあまり関係ない話題にも入ってきますが、
個人的には、岩崎氏が上の文章で述べている、作品ひとつあたりの
利益がより求められているという最近の流れには懸念があります。
効率を求めるほど、歴史に残るような古典的作品は出てきづらいはずです。
そういうものを生み出す作家を長期的視点で育てていたり、
優秀な書き手が現れるような土壌をつくっているというなら話は別
ですが、文章から判断するに、実際はただ単に販売部数が10倍になるよう
作品への見る目を厳しくしているだけという風にも受け取れる。
だとすれば、以前よりもずっとラノベ作家志望者に
厳しい環境となってきているのかもしれません。

よくいわれることですが、売れるものが必ずしもいいもの、
というわけではありません。むしろ、古典的名作には出初めに嫌われ、
何年も、時には何十年も経ってから評価され始めるというのがよくあります。
また、キャッチーではないので売れはしないが芸術的、文化的に優れている、
という種類の作品にだって価値が認められないといけない。
でも、そういうわけにはいかないようですね。
No.58
138ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
結論からいうと、それは「小説の絶対的な面白さ」を学ぶためである。 小説には、「絶対的な面白さ」がある。それは、ぼくが40年間、小説についてのさまざまなことを学んできた中で、知ることのできた真理の一つである。 しかしながら、この考え方はなかなか共有されていない。特に、若い人に共有されていない。 先日も、とあるラノベ作家志望の若者と会う機会があって、「何かアドバイスはありますか?」と尋ねられたので、「古典を読むことだ」と答えたのだが、分かったような分からないような顔をされた。 それで、「古典を読むのは嫌いですか?」と尋ねたところ、「ぼくの書きたい小説は、現代の読者に訴える新しい小説なので、古典を読んでも意味がないと思ってしまう」ということだった。「それ以前に、そもそも古典に全く興味がないので、読むことそのものが苦痛である」とも言っていた。 それでぼくは、(もちろんそう思うことは自由なのだが、それでは作家
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。