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ミケ猫。さん のコメント

良くも悪くも『想像力(創造力)』を養うのに貢献してると思うな。漫画→ライトノベル→小説とステップアップする人も多いんじゃないだろうか。
漫画だと想像力はあまり鍛えられないが本を読むという習慣付け出来る、小説だと想像力をフルに発揮してその世界観を再現、主人公や語り部の心情や動きを自分の物として感じて知識や視野を広げる。
その中間の需要に入り込んだのがライトノベルで、漫画ほど手軽ではないが想像力向上に適していて、小説ほど深い知識や心情考察はないが、知識や語彙が少なくても比較的楽しめる構成にしている、というのが私のライトノベルの印象です。
で、ここで語られてる様に長所と弱所は表裏一体、漫画からすると『読むのに時間がかかり、内容を理解するのがめんどくさい』、小説からすると『内容が薄っぺらい』と漫画からラノベへ、小説からラノベへ移行する時に躊躇われるのではないか。それにあわせて、ライトノベル作家の低俗化、と言ったら聞こえは悪いですが、典型的なものをなぞって作品にするだけの変わり映えのしない作品があふれてる様なきがします。
定番、王道といえば聞こえはいいですが、同じ味付けの料理ばかり食べていると違うものが食べたくなる。最近のラノベは味付けが似たようなものばかりで食傷気味です。
包み隠さず言えば『ハーレム物』ばかりになってますね。主人公にヒロイン達が猛アタックするだけ、もしくは最初は嫌っていてもすぐに好意をもつ。人の色恋沙汰ほど手軽で刺激的な娯楽は無いとはよくいったものですね。
Sっ気のあるキャラは攻撃的に、お姉さんキャラは可愛がるように、妹キャラは甘えるように、ツンデレキャラは潔癖さと素直さの温度差で、クールなキャラは気を許した相手のように、情熱的なキャラはこちらも熱くなるように、不思議ちゃんは自分自身のルールを乗り超えた積極的アプローチで。
パッと思いつくだけでこんなものですが、これらの複合とシチュエーションのシャッフルでここ最近話題作と言われている大体のラノベの説明ができてしまうのは停滞、衰退の始まりでしかないと私は考えてます。
例えば『キノの旅』。電撃文庫の古株で、私がライトノベルにハマるきっかけとなった作品ですが、その内容はさまざまな国や人たちをみて、考えさせる内容のノベルでした。このような旅ノベルはもっと増えていいと思うんです。
『主人公一人自転車旅』と言う銘打って、各都道府県で一冊。計47冊の旅ノベルなんて私は面白いと思います。ここの県はこういう人がいて、こんなものがたくさんあって、こんな綺麗な景色があって、こんな問題があって、それを解決するためにがんばっている人たちがいて・・・というものがあってもいいのではないかと。上手く売れれば『聖地巡礼』として作品中の村などの場所に観光地や新居者呼び込みなんか出来て活性化させることも出来そうでは?
『意欲作!』や『ラノベ界の新機軸!』、『今、最も熱いノベル!』と売り出して何も内容の代わり映えしない作品群よりは私はそっちの方が心惹かれますね。旅をしてみたい、けどお金も時間も無い、学生だからそんな余裕は無いなんて人達も多いでしょうし、最低限の宣伝と内容をしっかり作りこめばヒットするんじゃないかと素人意見ながらちょっと考えてみました。

長々とまとまりの無い長文を失礼しましたm(_ _)m
No.143
137ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
こういう問いかけ方をすると、「そんなの当たり前じゃないか」という反論がいくらでも聞こえてきそうだが、ぼくがここで問いたいのは、「これだけエンターテインメントが溢れかえっている世の中で、今後もラノベ、あるいは小説という表現形態に、生き残る道があるかどうか?」ということである。 今の世の中は、面白いもので溢れかえっている。エンターテインメントだらけだ。 なぜそうなったかといえば、科学の進歩で人間の「余暇」が増えたからだ。自由な時間が増えた。 これは、一見喜ばしいことのようだけれども、そうでない部分もある。というのも、人間は「暇」に耐えられないからだ。暇になると気が狂ったり、悪い時には死んだりもする。「暇」というのは、人間にとって祝福であると同時に呪いでもあるのだ。 だから、暇があるからといって単純に喜べない。暇があれば、それを「潰す」必要が出てくる。 そうして、高度経済成長期以降、日本人の暇は増えるばかりだった。それを潰す必要性から、エンターテインメント産業はどんどんと成長してきたのだ。 さらに、日本人の暇は今後も増えることが予想される。だから、エンターテインメント産業も、ますます成長が見込まれているのだ。 だとすると、ラノベの未来は明るいんじゃないか? そんなふうに思うかも知れないが、ことはそう単純ではない。 というのも、成長産業には多くの人が群がってくる。そうして、そこで必然的に競争が起きる。競争が起きると、勝者と敗者とに色分けされる。そして敗者に組み込まれてしまうと、そのジャンルごと消えてしまう可能性があるのだ。 表現のジャンルが消えたり、消えないまでも衰退することはよくある。 例えば、「写実的な絵画」というジャンルは、消えないまでも大いに衰退した。それというのも、写真機ができたからだ。 写真機ができるまで、絵画というのは「いかに写実的に描くか」ということが勝負だった。だから、多くの画家が写実的に描くことを競い合った。そのため、写実的に描く技術が発達し、写実的な絵画の傑作がいくつも生まれた。 しかし、写真機が発明されたおかげで、写実的に描く絵の価値がうんと下がった。いくら写実的に描いても、写真機には適わなかったからだ。 そうして、写実的な絵画を求める人は減り、ジャンルとしての衰退を余儀なくされた。 「小説」という表現ジャンルも、かつてと比べると衰退の憂き目にあることは疑いようがない。 19世紀、大衆娯楽というのは演劇か小説くらいしかなかった。そのため、小説という文化はおそろしく発達した。小説の傑作というのは、だいたい19世紀に集中している。 しかしその後、エンターテインメント産業に新しいジャンルが次々と参入してくる。映画、ラジオ、音楽、テレビ、マンガ、ゲーム……。そうして小説は、今ではそれら数あるジャンルの一つに過ぎなくなった。いや、他のジャンルに比べると、不利な点がいくつも見受けられる弱小ジャンルに成り下がった。 最も不利な点は、「字を読むのが面倒くさい」ということだろう。小説というジャンルは、他のジャンルに比べると、「消費するのが手間」というハンデキャップを持っているのだ。 もう一つは、「想像力を必要とする」ということである。 例えば、SF小説で異世界を説明する時、読者は、脳内でその映像を再現する必要がある。しかしこれは、なかなか骨の折れる行為だ。 それに比べると、映画やマンガは絵を伴うので、想像がとても容易である。だから、想像力の足りない人は、どんどん映画やマンガに流れていく結果となった。 ラノベも、そういう部分を補うために、挿絵などをふんだんに盛り込むことで、読者の想像力を助けようとしてきた。しかし、この方式を押し進めると、そのうち「ではマンガでいいでは?」ということになり、ラノベの存在理由が薄くなる――というかなくなる。 だから、もしラノベ(小説)が今後も生き残っていくためには、小説独自の、他にはない面白さ、他にはない強みを前面に押し出していく必要があるのだ。 ではラノベの他にはない強みとは何か?  
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。