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岩崎夏海さん のコメント

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岩崎夏海
>>2
虚無感は感じます。というより、ぼくは30歳になったくらいに、一切は空しいと思うようになりました。そうして、達成感や幸せというのは、夢を成し遂げたということでは得られないんだと気づいたのです。
それから方向転換をして、今この瞬間を楽しむという方向にシフトしました。そしてぼくは、本当の楽しみは遊びではなく労働の中にこそあると悟ったので、今は一生懸命働いているというわけです。
そのため、「もしドラ」を出したのも、その後も一生懸命働いているのも、けっして夢を追いかけたり、達成感を味わいたいからではなく、「今日も一日働いたなあ疲れた疲れた」としみじみ思う、その実感を得たいからという理由だけなのです。
No.3
134ヶ月前
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競争時代を生き抜くためには、失敗を数多くすることがだいじである。なぜかというと、人は失敗から学ぶからだ。いや、失敗からしか学べない。だから、失敗を数多くするということは、それだけ学ぶということでもあるのである。 そんなふうに、失敗はとてもだいじなのだが、ところで、そんな「失敗から学ぶ」という行為そのものにも、上手いと下手とがある。失敗から多く学ぶ人もいれば、少ししか学べない人もいる。失敗というものも、ただ闇雲にすればいいというものではなく、折角するのなら、なるべくたくさんそこから学ぶようにしなければならないのだ。 そこで今日は、いかにすれば失敗から数多く学べるか――ということについて考えてみたい。これは、いうなれば「失敗学」である。 失敗から数多く学ぶには、主に次の4つの要素が必要となる。 1.認識 2.分析 3.修正 4.記憶 まずは1の「認識」だが、これは「失敗を客観的に受け止める」ということである。受け止めるというのは、自分はミスをした――と率直に認めることだ。 これは、簡単なようだがなかなかできない。失敗から学べない人は、まず「自分が失敗した」ということを認められない。恥ずかしかったり、みっともないと思うからだ。 だから、失敗から学ぶためには、まずは自分の失敗をしっかりと認識し、それを受け止めることに留意しなければならないのである。 ただしこの時、「では、失敗を恥ずかしいとかみっともないと思わなければ、それを受け止めやすくなるのではないか?」と思うかもしれないが、これは別の理由で良くない。 開き直って失敗を肯定し、恥ずかしいとかみっともないと思わないようにすると、それはそれで失敗から学べなくなる。その理由は後述するが、とにかく、まずは恥ずかしいとかみっともないと思いながら、なおかつそれを受け止めるという、背反する2つの要素を並立させなければならないのだ。背反する2つの要素を並立させる方法は、 前回の記事 に書いたのでここでは省略する。 続いて2の「分析」である。 失敗を受け止められたなら、今度は「ではなぜ自分は失敗したのか?」と、その要因を徹底的に分析しなければならない。 例えば、ぼくは昔、離婚をした。離婚というより、奥さんに愛想を尽かされ、出て行かれた。 愛想を尽かされた理由はいくつかあるが、その最大のものは、 
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。