そんなふうに、失敗はとてもだいじなのだが、ところで、そんな「失敗から学ぶ」という行為そのものにも、上手いと下手とがある。失敗から多く学ぶ人もいれば、少ししか学べない人もいる。失敗というものも、ただ闇雲にすればいいというものではなく、折角するのなら、なるべくたくさんそこから学ぶようにしなければならないのだ。
そこで今日は、いかにすれば失敗から数多く学べるか――ということについて考えてみたい。これは、いうなれば「失敗学」である。
失敗から数多く学ぶには、主に次の4つの要素が必要となる。
1.認識
2.分析
3.修正
4.記憶
まずは1の「認識」だが、これは「失敗を客観的に受け止める」ということである。受け止めるというのは、自分はミスをした――と率直に認めることだ。
これは、簡単なようだがなかなかできない。失敗から学べない人は、まず「自分が失敗した」ということを認められない。恥ずかしかったり、みっともないと思うからだ。
だから、失敗から学ぶためには、まずは自分の失敗をしっかりと認識し、それを受け止めることに留意しなければならないのである。
ただしこの時、「では、失敗を恥ずかしいとかみっともないと思わなければ、それを受け止めやすくなるのではないか?」と思うかもしれないが、これは別の理由で良くない。
開き直って失敗を肯定し、恥ずかしいとかみっともないと思わないようにすると、それはそれで失敗から学べなくなる。その理由は後述するが、とにかく、まずは恥ずかしいとかみっともないと思いながら、なおかつそれを受け止めるという、背反する2つの要素を並立させなければならないのだ。背反する2つの要素を並立させる方法は、前回の記事に書いたのでここでは省略する。
続いて2の「分析」である。
失敗を受け止められたなら、今度は「ではなぜ自分は失敗したのか?」と、その要因を徹底的に分析しなければならない。
例えば、ぼくは昔、離婚をした。離婚というより、奥さんに愛想を尽かされ、出て行かれた。
愛想を尽かされた理由はいくつかあるが、その最大のものは、
コメント
コメントを書く初めまして。
いつもとても楽しく拝読しています。毎日本当にありがとうございます。
失敗を生かして長い年月をかけて血のにじむような思いをして克服し、今は成功することができた、その後のストーリーを私は知りたいです。
その後、どう自分を保てばいいのかが分からず悩んでいるからです。
努力を続けて自分がずっと望んでいた成功を達成しても、幸せになれないことに気づいてしまいました。でももうその立場になってしまい、背負うものを背負ってしまった責任がある以上、投げ出すこともできません。
社会的に成功したとしても幸せになれないとすれば、何のために頑張る必要があるのか、それが分からないのです。
世間には、成功するための方法を解く人たちはたくさんいるのですが、そのあとのストーリー(虚無感などの感情を含めて)をどうしたらいいのか教えてくれる人をあまり見かけません。
岩崎さんはそんなことを考えることはありますか?私がどこかでなにかを間違えているのでしょうか。。
>>2
虚無感は感じます。というより、ぼくは30歳になったくらいに、一切は空しいと思うようになりました。そうして、達成感や幸せというのは、夢を成し遂げたということでは得られないんだと気づいたのです。
それから方向転換をして、今この瞬間を楽しむという方向にシフトしました。そしてぼくは、本当の楽しみは遊びではなく労働の中にこそあると悟ったので、今は一生懸命働いているというわけです。
そのため、「もしドラ」を出したのも、その後も一生懸命働いているのも、けっして夢を追いかけたり、達成感を味わいたいからではなく、「今日も一日働いたなあ疲れた疲れた」としみじみ思う、その実感を得たいからという理由だけなのです。