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カガタダハバマラさん のコメント

ファッションについて「けっして自分のためにするものではない」という一文がありますが、なぜそう断言されるのですか?
「このことは、このブロマガでも何度か言及してきた」とまで言われるからには、それなりの理由をお持ちの事だと思います。
服装には、「相手に与える自分の印象をよりよくするもの」という側面があるのは承知しております。
視覚という面から相手の心理に影響を与えるわけですね。

しかし、服装にはそれだけでなく「自分に対する影響」という側面もあります。
スーツに着替えた時や作業服に着替えた時、武道着に袖を通した時など、いわゆる「スイッチが入る」という状態になる事はご存知でしょう。
それぞれのシチュエーションに応じた服に着替える事により、自分自身の心理もそれに備えた状態になるのです。
仕事に備え、稽古に備え、試合に備え、気合が入るわけですね。
デートの時に着る勝負服なども、相手へ与える印象だけでなく、自分に自信を持てるようになる、という効果があるのです。
それでもファッションというものは「けっして自分のためにするものではない」のでしょうか?
こういった効果は他人が居ないと発生しないと言われるのでしょうか?
さらに言ってしまえば、相手に与える自分の印象をよりよいものにしたところで、その結果得をするのは自分なのではありませんか?
そうなると、相手の心を満たすようなファッションも、結局は自分のためにしている事にはなりませんか?

また、人間には「自分が好きな服を着たい」という思いがあります。
かっこいいスーツも、可憐な服も、「他人からこう思われたい」というほかに「自らがそういう存在でありたい」という願望を満たすという側面があるのです。
それでも「ファッションはけっして自分のためにするものではない」と主張なさるのですか?

貴方自身「自分のためなら、楽な格好をするのが一番だが」と言っておられますが、その「楽な恰好」には、何の装飾性も無いのですか?
全くもって性能本位の、見た目に何のこだわりも無い服なのですか?
着心地や気候に適しているかどうかといった実用面以外の、「見た目が気に入っている」「落ち着きが得られるような色合いである」などのファッション的な側面は全く無いのですか?

私の持つ疑問は以下の三点です。
・服装は自分の心理に影響を与えないのか
・相手の需要に合ったファッションであったとしても、相手によく思われたいという自分のために行うという事は一切ないのか
・ファッションには「自分の願望を満たすために自分のために行う」という側面は存在しないのか

貴方がこれらの点まで考えた上で「けっして自分のためにするものではない」と主張なさっているのでありましたら、どうかその根拠をお教え下さい。
No.14
118ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
YouTubeにアップされたルミネのCM動画が炎上した。 なぜかというと、そのドラマ仕立ての内容が、「女性社員が、男性上司に容姿を揶揄されたことをきっかけに、外見の大切さに気づく……」という内容だったからだ。 これに対してネットでは、猫も杓子も「今時、こんなCMを作るなんて時代錯誤も甚だしい」というリアクションを示して、ルミネの炎上に至った。 ルミネの“女性応援CM”が炎上──女性をけなす第1話に非難殺到、一方2話目では…… - ねとらぼ ではなぜ、ネットで「時代錯誤」ととらえた人が多かったかというと、「女性が身ぎれいにするのは男性の目を気にしているからではない」というわけである。「女性はもっと自立した存在で、男性に隷属していない」というわけだ。 そこで今回は、なぜこういうCMが作られたのか、その社会的背景を探ってみたい。 ところで、ぼくの立場からいうと、「ファッションというのは、誰か他人のためにするもの」という原則がある。けっして自分のためにするものではない。自分のためなら、楽な格好をするのが一番だが、それでは相手に失礼なので、スーツなどの堅苦しい格好をあえてしている。このことは、このブロマガでも何度か言及してきた。 だから、女性が男性の目を気にして身ぎれいにするというのは、ファッション的にいえば、実に本質的なことなのである。女性はもちろん、男性というのも、ファッションにおいてはけっして「自立した存在」などではなく、「他人との関係によってはじめて成り立つ存在」――つまり「社会的な存在」なのだ。 それゆえ、上司からファッションの良否について指摘をされたのなら、それはセクハラなどではなく、むしろ社会的な意見だと受け取るべきであり、感謝こそすれ、非難するようなものではない。それは、セクハラはもちろん、パワハラとも違う。そう考えているので、ぼくは基本的にこのCMにはなんの問題もないと思っている。 ただ、このCMには件の女性社員とは別の女性社員が出てきて、男性上司が彼女に対して「かわいい」と評する場面があった。 これについては、男性上司が個人的な好みを部下に押しつけているととらえることもできるので、セクハラ、ないしパワハラに該当するという可能性もあるだろう。 ただ、そういう内容の是非はさておき、ぼくが面白いと思ったのは、こういうCMを作ればそれなりの反論も予測できたのに、ルミネがあえてそれを制作・公開に踏み切った――ということの方だ。ぼくは、ルミネは迂闊さからこのCMを制作・公開したのではなく、あえてやった確信犯だと思っている。 それというのも、昨今は炎上事案が頻発し、世間の目がますます厳しくなる中で、多くの企業は不穏当な表現を避けたがる。だからぼくは、ルミネもそういう危険性は十分に予測していたと考えている。そのため、彼らはそうした危険が分かりつつも、あえてそこに踏み込んだと認識しているのだ。 ではなぜルミネがそのような危険な領域に踏み込んだかというと、それはよっぽど拠ん所ない事情があったからだろう。 その拠ん所ない事情というのは、「売上げ競争の厳しさ」だと思う。彼らは、このCMで売上げを上げなければならないという厳命を受けていた。だから、あえて危険を冒してまで制作・公開に踏み切ったのだ。 さらにいえば、ルミネの中には、こういうCMを出すことで、それなりの売上げ増が見込めるという目算があったということだ。これまでの経験やデータの積み重ねの中で、こういうCMが効果的に消費者に響くだろうという確信があったのである。 このことから分かるのは、「現代の流行にさとい人々は、『弱者の論法』で戦うこと――ここでは女性の権利を過剰に主張すること――が既にトレンドとして古くなっており、これからは『非弱者』であることをあえてアピールして、頭を低くして自分の地位の低さを喧伝していくことが、最良の生き残り戦略だと気づいている」ということだ。それは、若い女性でいえば「あえて男性におもねったファッションをすることが最良の選択である」という「トレンド」に入った、ということである。 さらに興味深いのは、ネットで発言する人の多くは、そういうトレンドに気づいていない、ということだ。このCMが炎上するというのは、ネットというのは世間一般のトレンドとはずれている――そこから半周遅れになっている――ということである。ネットは今や、そういう流行遅れの人々が蝟集する場所となったのだ。 ネットというのは、これまで長い間、トレンドにさとい、いわゆるアーリーアダプターが蝟集する場所のように思われていた。しかし、それが今、様相を変えているのだ。ネットは今や、「時代遅れの人が集まる場所」というトレンドに入りつつあるのである。 ルミネのCMが炎上したことからは、そうした状況が読み取れた。
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。