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うぇーいさん のコメント

戦争体験者の話は、時間の経過から脚色されてるケースが多く、これから先日本がどうあるべきかと考える上での情報としては不適切。まして、語り部の多くは、当時子供だった人ばかり。自分が子供だったときの記憶なんて、大人になれば曖昧になって、最終的には都合のいいように美化されている。そんな記憶の話をされたとしても、未来の日本人は、当時とは反対の意味で間違った方向に向かうかもしれない。
大事なのは、当時の世界はどういう潮流や価値観だったのか、日本はその中でどういう立ち位置に置かれていたのか、そして何故戦争への道を走ることになったのかを考え理解しなければ、日本人は本当の意味で戦争を知らない人種になってしまう。
被害者視点ではなく、加害者視点でもない。言うなれば神の目線で、冷静に当時を振り返り、分析し、未来に生かすことこそが、今を生きる我々に課された使命であり、先の大戦で散っていった方々の供養になる。
No.208
98ヶ月前
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長崎県島原市の中学校で、原爆の被爆体験を持つ79歳の男性が戦争について講話したところ、途中で福島の原発事故や戦争責任の話になって、校長が強制的に話しを打ち切るというできごとがあった。 被爆者講話 校長が遮る ところで、ことの結果は別として、ぼくはそもそも「戦争体験者に戦争体験を話させる」という催しは良くないと思っている。「良くない」というのは、「好きじゃない」という消極的な意味ではなく、「害悪なので廃止すべき」という強い意味でだ。 そこで今日は、そのことについて書いてみたい。 なぜ戦争体験者の話しを聞くのが害悪かというと、それは戦後70年経って、彼らの記憶が大幅に美化、風化され、事実とほど遠いものになっているからだ。そして、聞く方にもそれが伝わるのである。 老人の昔話というのは、ほとんどの場合で面白くない。なぜかというと、そこにはリアリティが欠けているからだ。 「リアリティの欠如」というのは、例えば話しが出来すぎていたり、展開がご都合主義だったりする。矛盾が多く、バランスが悪いという側面もある。あるいは、自分を過度にヒーロー視したり悲劇の主人公視したりしている。そういう話しは聞いていて鼻持ちならない。 これらの理由で、老人の昔話はすべからくつまらない。そしてそれは、戦争体験も例外ではない。彼らが話す「戦争の悲惨さ」も、聞いていて非常にイライラするのである。 それでいて、彼らに「その話、美化、風化していますよね?」とツッコむわけにもいかないから、ますますイライラが募ってくる。そのためかえって戦争の悲惨さが伝わりにくくなっている。むしろ、彼らが戦争を悪いものと表現すればするほど、それに対する反感が高まってしまうのだ。 実際、今回のトラブルもそうしたことが原因で起きたのではないかと思っている。その人の講話が、聞いていてイライラさせられるものだったのではないだろうか。そうでなければ、原発や戦争責任の話しをしたからといって、いきなり止め立てされることはなかっただろう。 もし子供たちに本気で戦争の悲惨さを伝えたいのなら、当時のフィルムや人々の証言を見せるのが一番だ。当時――つまり70年前の人々は、当たり前だが、まだ記憶がほとんど風化、美化されていない。だから、彼らの話しには非常なリアリティがある。 以前、NHKで放送された『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』という番組で、終戦当時に収録された人々のインタビューを聞いて驚かされた。彼らが非常に淡々としていたからだ。そこには悲壮感や被害者意識がといったものは微塵も感じられなかった。声のトーンが全然違う。落ち着き払っているのだ。 この「声の違い」の及ぼす影響が、実は大きい。ありていにいって、落ち着いている声だと「聞こう」という気にさせられる。そうして、戦争についても自然と深く考えられるようになる。 これに比べると、老人の昔を語る声は耳障りだ。だから、なかなか聞く気になれない。そのため、戦争の悲惨さに思いを馳せるのも難しくなっているのである。 今の時代、上記の番組などは有料だがNHKオンデマンドですぐ見ることができる。 日本人はなぜ戦争へと向かったのか - NHKオンデマンド あるいはDVDでも発売されている。 日本人はなぜ戦争へと向かったのか DVD-BOX - Amazon だから、もうそういう催しはやめにして、こちらの方を子供たちに見せるべきだ。その方が、よっぽど戦争の悲惨さを伝えられる。
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。