• このエントリーをはてなブックマークに追加

けいた/あじの宮さん のコメント

第一パラグラフと第2パラグラフの論理的なつながりが無くねぇか?

少なくともここに書かれた文章からは、初めに出てくるおじーちゃんが原発やらの本題からそれたことを話し始めたせいで止められただけで、とりあえず語り部と呼ばれる人を非難したいだけの文章にしか読めない。

第一パラグラフがなかったとして「落ち着いているから~」のくだりは記者が何を主張したいのかさらに理解できない。
戦争に負けて降伏した状況でどう落ち着いているのか・なんで悲壮感がないのかをしっかりプロ作家らしく記述すべきでDVD見れば良いと逃げるべきではない。

出版会社の編集の手が入らなければ論理構成がしっかりした文章も書けない作家なのか、あるいは編集の手が入ってこの程度なのか知らないけれどこの記事の記者こそ淡々と論理を展開すべきだった。

ってところまで書いて、この記事が2015年の書き込みだったことに気づいた。

プロ作家としての汚点たる文章を3年も人目につくところに残せる豪胆さに感心する。
No.241
71ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
長崎県島原市の中学校で、原爆の被爆体験を持つ79歳の男性が戦争について講話したところ、途中で福島の原発事故や戦争責任の話になって、校長が強制的に話しを打ち切るというできごとがあった。 被爆者講話 校長が遮る ところで、ことの結果は別として、ぼくはそもそも「戦争体験者に戦争体験を話させる」という催しは良くないと思っている。「良くない」というのは、「好きじゃない」という消極的な意味ではなく、「害悪なので廃止すべき」という強い意味でだ。 そこで今日は、そのことについて書いてみたい。 なぜ戦争体験者の話しを聞くのが害悪かというと、それは戦後70年経って、彼らの記憶が大幅に美化、風化され、事実とほど遠いものになっているからだ。そして、聞く方にもそれが伝わるのである。 老人の昔話というのは、ほとんどの場合で面白くない。なぜかというと、そこにはリアリティが欠けているからだ。 「リアリティの欠如」というのは、例えば話しが出来すぎていたり、展開がご都合主義だったりする。矛盾が多く、バランスが悪いという側面もある。あるいは、自分を過度にヒーロー視したり悲劇の主人公視したりしている。そういう話しは聞いていて鼻持ちならない。 これらの理由で、老人の昔話はすべからくつまらない。そしてそれは、戦争体験も例外ではない。彼らが話す「戦争の悲惨さ」も、聞いていて非常にイライラするのである。 それでいて、彼らに「その話、美化、風化していますよね?」とツッコむわけにもいかないから、ますますイライラが募ってくる。そのためかえって戦争の悲惨さが伝わりにくくなっている。むしろ、彼らが戦争を悪いものと表現すればするほど、それに対する反感が高まってしまうのだ。 実際、今回のトラブルもそうしたことが原因で起きたのではないかと思っている。その人の講話が、聞いていてイライラさせられるものだったのではないだろうか。そうでなければ、原発や戦争責任の話しをしたからといって、いきなり止め立てされることはなかっただろう。 もし子供たちに本気で戦争の悲惨さを伝えたいのなら、当時のフィルムや人々の証言を見せるのが一番だ。当時――つまり70年前の人々は、当たり前だが、まだ記憶がほとんど風化、美化されていない。だから、彼らの話しには非常なリアリティがある。 以前、NHKで放送された『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』という番組で、終戦当時に収録された人々のインタビューを聞いて驚かされた。彼らが非常に淡々としていたからだ。そこには悲壮感や被害者意識がといったものは微塵も感じられなかった。声のトーンが全然違う。落ち着き払っているのだ。 この「声の違い」の及ぼす影響が、実は大きい。ありていにいって、落ち着いている声だと「聞こう」という気にさせられる。そうして、戦争についても自然と深く考えられるようになる。 これに比べると、老人の昔を語る声は耳障りだ。だから、なかなか聞く気になれない。そのため、戦争の悲惨さに思いを馳せるのも難しくなっているのである。 今の時代、上記の番組などは有料だがNHKオンデマンドですぐ見ることができる。 日本人はなぜ戦争へと向かったのか - NHKオンデマンド あるいはDVDでも発売されている。 日本人はなぜ戦争へと向かったのか DVD-BOX - Amazon だから、もうそういう催しはやめにして、こちらの方を子供たちに見せるべきだ。その方が、よっぽど戦争の悲惨さを伝えられる。
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。