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岩崎夏海さん のコメント

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岩崎夏海
>>1
コメントありがとうございます。
ぼくはおそらく、自分のことをとことんまで無能だと思えることが他の人よりすぐれていると思っているので、それをもって天才だと言っているのだと思います。「おれほど自分を無知と思ってとことん勉強にどん欲になれるやつはいねえだろうな。おれってすげえなあ」というわけです。まあ、頭がおかしいのでしょうね。あと、メタな視点が立つのが好きなのだということもあります。それで、天才と無能が矛盾なく同居できているのですね。
No.5
143ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
ブロマガをやっているのが、今のところ面白い。何が面白いかというと、会員がなかなか伸びないところが面白い。こういうと負け惜しみに聞こえるかもしれないけれど、本気でそう思っている。 ぼくはもともと「面白いとは何か?」というのを考えるのが好きだった。小さな頃から小説を読んだりマンガを読んだり映画を見たりゲームをしたりするのが好きだったけれど、その頃は単に「面白いから好き」なんだと思っていた。 ところが、どうやらそうではなかったらしい。ちょっとひねくれているけど、ぼくは「面白いとは何か?」ということを考えるのが好きだった。だから、面白い本やマンガや映画やゲームを味わいながら、「どうしてぼくは、これを面白いと思うのだろう?」と考えていたのである。それが好きだったのだ。 それと同時に、ぼくは小さな頃から絵やマンガや小説を描いたりもしていた。だけど、必ずしも創作活動が好きだったわけではない。特に絵を描くのはあまり好きではなかった。理由は「手が汚れるから」というどうしようもないものだったりした。 絵は、絵画教室に通っていたから毎週描いていた。だけど、同じ教室に通う二つ年上のすごく絵を描くのが好きな女の子がいて、その子の描く絵にいつも負けていた。テクニックでは負けていなかったが、情熱で負けていた。同じ被写体を描いても、描き込みの量が全然違うのである。 それでぼくは、いつも「あの子には敵わないなあ」と思っていた。だけど、別段悔しいわけでもなかった。自分は絵を描くのが好きではないというのを、なんとなく自覚していたのかもしれない。また、絵を描くのに向いていないとも、なんとなく思っていた。 それではなぜ描いていたか? あるいは、マンガや小説を書いていたか? それはおそらく、面白いものを読んだり見たり考えたりする中で、自分が面白いと思ったものが果たして本当に面白いのか、確かめていたのだと思う。それは研究の一環だったのだ。そういうふうに実際に作ってみることでも、ぼくは「面白い」ということの正体に迫ろうとしていた。 やがて高校生になったぼくは、いつの間にか映画狂になっていた。「ぴあ」の映画欄の索引を子細に眺めては、名画座で上映されている古今の名作を見にいった。茨城県のつくば市から、遠い時には東京の二子玉川まで電車を乗り継いで行った。そこで見たのは確か「みゆき」だった。井筒和幸という若い監督が、「ガキ帝国」という作品で注目を集めていた。その頃邦画を見まくっていたぼくは、彼の実力がどんなものかを確かめようとしたのだった。この頃は、同様に「十階のモスキート」「ヒポクラテスたち」「コミック雑誌なんかいらない!」「台風クラブ」といった若手監督の作品群を立て続けに見ていた。 そんな中で、なぜかテレビで「夕やけニャンニャン」と出会った。そしてハマった。熱狂して毎日ビデオに録画して欠かさず見ていた。同時に、とんねるずのテレビやラジオなども欠かさず視聴するようになった。そのどれもが面白かった。本当に面白かった。 ぼくはルイ・マルの「地下鉄のザジ」やガルシア=マルケスの「予告された殺人の記録」、サルバドール・ダリの蟻の絵や任天堂の「メトロイド」、大友克洋の「童夢」やサッカーのメキシコワールドカップに熱狂するのと同じくらい、「夕やけニャンニャン」やおニャン子クラブ、とんねるずに熱狂した。 その頃は、なぜ自分はそんなに雑食なのかということは考えたりしなかった。ただ無心に、自分が面白いと思うものを手当たり次第に消化していった。今から考えれば、それらを横断するキーワードは「面白い」ということだった。ぼくは面白いことが好きだった。面白いコンテンツが好きなわけではなくて、面白いという概念や現象が好きだった。面白いコンテンツを見ながら、それについて考察するのが何より好きだったのである。 大人になったぼくは、放送作家となっていた。今から考えると、これはぼくにぴったりの職業だった。 放送作家とは、「面白い」という概念をどこからかえぐり出してきて、それをテレビで再現するためにディレクターやタレントにプレゼンテーションをする仕事だった。かっこよく言えば「面白さの種」を作る仕事だ。もっとかっこよく言えば「0を1にする」仕事で、なかなかにやりがいがあった。そこは、面白さという概念をきわめたマイスターたちが鎬を削る場所だった。 その世界で、ぼくはしばらく生きていた。だけど、そのうちに上手くいかなくなった。理由は、「面白さの概念」をきわめることについては一生懸命やるけれども、それをプレゼンテーションすることに関しては、ちっとも上手くならなかったからだ。 面白くないディレクターに調子を合わせたり、おべっかを使ったりすることが全くできなかった。そうしていつしか仕事を干されるようになり、ぼくはクサった。クサって、もうこんな世界はまっぴらごめんだと思うようになった。そして、面白さの概念イチガイで勝負できるようなフィールドへ移行したいと思った。そのフィールドを、ずっと探していた。 しかし結局「面白さの概念イチガイで勝負できるフィールド」というのは見つからなかった。そこで、紆余曲折の末開き直ったぼくは、プレゼンテーションのスキルを身につける覚悟を固めたのだった。おべっかや調子を合わすことにも、ようやく取り組むようになった。 そうすると面白いもので、プレゼンテーションの技術を磨くということも、取り組んでみるとそれはそれで「面白い」のだった。そこで、生来からの凝り性も後押しして、ライフハックとかコミュニケーションスキルとか、そういうテクニカルな部分もどんどんと吸収していったのである。 それからまた紆余曲折あって「もしドラ」を出すことになり、これが幸運にもヒットした。すると、ぼくを取り巻く状況は一変した。これまでさんざん探しても見つからなかった「面白さの概念イチガイで勝負できるフィールド」というものが、見つかるようになったのだ。 そうしてぼくは、言い訳のほとんど利かない、ダメだったら責任を全部おっ被るような立場に立つようになったのだ。中でもブロマガを書くことは、責任の所在が明確で逃げ場所がほとんどなかった。そこでは、面白さの概念もプレゼンテーションも、全て自分が担って勝負しなければならなかった。 だから、そこでウケたら自分の手柄になるけれど、失敗したら自分の能力のなさを突きつけられることにもなった。 その世界でなかなか結果が出ないことは、だからきつい。毎日、自分の無能さを突きつけられる毎日だ。毎日毎日がテストの発表日で、そのたびに下位に甘んじている成績表を眼前に突きつけられているようなものである。 きついなあ、と思う。正直にきついなと思う。 しかし同時に、面白い、とも思うのだ。これこそが、自分が望んだフィールドではないか。こういう勝負をするために、これまでいろんなことを培ってきたのではないだろうか。そのことを、忘れてはならない。 だからぼくは、今日もブロマガの記事を書く。たとえそれが自分の無能さを証明し、きつい思いをさせられることになっても、ぼくにはもう、書くしかないのである。
ハックルベリーに会いに行く
『もしドラ』作者の岩崎夏海です。このブロマガでは、主に社会の考察や、出版をはじめとするエンターテインメントビジネスについて書いています。写真は2018年に生まれた長女です。