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skylineさん のコメント

>つまり「男女の差異」なんだから性差だろって事。言わせんな恥ずかしい(AA略)

うん、だからエコフェミは性差を否定して無いよなっていってるんだが。

>というより、「乗り越える」「横切る」と仮定してもそもそも性差が無くなれば苦痛も無い(奴等の談)んだから「性差を否定したトランスジェンダーなんてそもそも語義矛盾。」ってのも現状がああである以上正直どーでもいい話。手段を選ばなければ、或いは手段が目的化すればいいんだからw

いまいち何を言いたいのかわからんし、何を根拠に言ってるのかもわからん。
つーかそんな簡単に性規範を否定したり性自認を変えられたりしたらそもそもTGになってないって。
つーかTGは苦しみから解放されるために性差を否定するっていうなら性転換手術を受けたりするTGはどう説明つけるんだ。

>おいおいwwwwww引用しといて読解力無いのはどっちだよwwwww
引用の通り、俺は「男も女も無い」じゃなくて「どちらかといえば男性性/女性性の両方が混在している」と言ったんだが? 

そっちだよwwwwww
TGは「どちらかといえば男性性/女性性の両方が混在している」それはあなたの言う通り。
「男も女も無い」は「性差を否定する」の言い換えであって
「あなたの言う通り性差を否定したらもうその時点で"トランス"も糞もないだろ」っていってんの。

>何時からそんな主旨と定義の下で話してる事になったんだよ。 つまりそれって恣意的に、ちゃっかりリベフェミの話にすり替えたって事だよね。ww あと少なくとも貴様が始めて「フェミは性差を否定してない!!」と喚いた時点ではリベフェミの話してたみたいだけどそれをすり替えて「性差を否定しないエコフェミもいるもん><」としただけだよね。あぁそうですかというよりただ別の方向に逸らしただけ。

何時からって始めからだよ。少なくとも僕はそういうつもりで話してたし兵頭も「TGとフェミは癒着してる」という点では同意していたしそれで問題なく議論できていたんだから第三者のあなたにとやかく言われる筋合いはないな。
一口にフェミニズムって言っても色々あってそれら全部を念頭に置くと面倒だからここでは捨象した。でも捨象しっ放しってのも気持ち悪かったんで>>55で補足したってだけ。

>????? 「ミソジニーを十把一絡げ」の事なんて最初から誰も騙ってねーよw 問題は「ミソジニーというレッテル貼りに対する正当性の危うさ」なんだから。
つまり思考方法・論法の問題。だから最初に兵頭氏は<「ミソジニーは・・・」とかいう何でもかんでも十把一絡げにする思考方法から>と言ってるじゃんw 「つまりじゃあ女性への批判は悪なんですか?」という単純な話。

いや語ってるから。>>12の人が「男は」「女は」みたいに十把一絡げにする思考法はやめるべきって言ったのに対して兵頭が「『ミソジニーは・・・』とかいう何でもかんでも十把一絡げにする思考方法から脱却できていないのはあちらさんのようです」って返したから僕が「そんなこといってないだろ。言ったっていうなら引用してみろよ」って問い詰めたら惨めに逃走したってのが今までの流れ。
実際僕は兵頭とその記事にしか言及しておらず、ミソジニーを十把一絡げにしてその一般論について自説を開陳したりしてるわけではない。

>そう、つまりは個人の感情の問題であって公的な正当性とは何の関係も無い。つーか正当性(正しさ)ってのは本来公正的なもので公共的或いは科学的に理があって証明されなきゃ意味が無い。

えーそれどこソースよー、とか、そもそも主観、客観という二元論が、とか、主観的であれ正しいんですよね(ニッコリとかいろいろいいたいことはあるがもっと明快な反論があるので黙っておこう。

味っていうのは単なる味覚のことではなく視覚や嗅覚、聴覚などをあわせた複合的感覚だってのはある程度科学的にコンセンサスの取れた説だけどなあ。
更に、だれも下水の臭いの立ち込めるレストランで食事を摂りたがらないであろうことや、だれもカレーを食べているときにウンコの話をされたがらないであろうことを考えれば"一般的"にはより広く支持されている説でしょう。

更により根本的なことをいうのならどうしてあなたは件の"白人"の主張の正当性にそんな固執しているんだ?
僕は主張の正当性はどうでもいい、って最初からずっと言っているんだが。
例え話の白人が批判されるべき差別性とは黒人を汚いものとみなしてる事であり「メシがまずくなる」という主張が主観的/客観的に正しくても間違っていてもその発言は差別でありそんな議論とは「離れた地平で」批判されて然るべきなんだよ。
これがつまり、「主張の正当性、というか主張そのものから離れた地平においてその主張から読み取れる筆者の差別性が批判されるのは当たり前だし、無意味でもなんでもない。」ってこと。
後にもう一度同じ事書くけど世の中には主張の正当性と主張の差別性とが関係ないことや科学的根拠の下に行われる差別もあるから>>21で第二に~以下を付け足したんだよ。

>そしてその"根底の感情"とやらを文章(少なくともネットじゃ判断材料はこれだけ)から離れた地平()にあるのにどう読み取って決め付けるの?w エスパー?ww 

当然、言葉から。

>本(そしてその内容)を出版する事自体が差別だと言い掛かり付けるんならまず読んでからにしろ。電子版があるから。

読む必要ないだろ。本人がこの記事は本の焼き直しって言ってるし。

>おいおい、中盤と後半で主張が矛盾してるよwwwwww
「前者を否定したら不可避的に後者を否定してるじゃん」うん、それでおkじゃん。"差別の不当さ"を批判出来たんだから。w

うん、だから始めからずっとそういってるんだよ。「主張批判と筆者批判なんてそんな明確に分けられるものじゃない。」ってね。
なのに兵頭が「でも感情は批判しちゃだめなんだもん!」って駄々をこねてるんでしょ?

>んでこの場合の「差別感情の批判」って何が問題なの? 主張によって発露された差別感情を主張を批判する事によって批判したって事なんだから只の議論だよ。

だよねえ。やっぱ兵頭はおかしい。

>そして後半の発言でいきなり豹変すると。

僕も最初はこれで十分かと思ったんだけどよく考えると世の中には主張の正当性と主張の持つ差別性が全然関係ない場合がある。だから最後の一文を付け加えた。つまり、「主張の正当性、というか主張そのものから離れた地平においてその主張から読み取れる筆者の差別性が批判されるのは当たり前だし、無意味でもなんでもない。」ってこと。

>これじゃただの鸚鵡返しだね。そもそも俺は「兵頭がそういうから兵頭の言ってることは正しい」とも言ってないし。貴様の主張に余りにも公共性(客観性)の概念が欠如してるから問題視したまでで兵頭氏の主張云々ってまたアサッテの方向かよw

あれ?twitterでのやり取りとかあなたのつぶやきから兵頭支持者だと思ってたんだが。違うなら僕の早とちりだな。
まあ>>2の時点で論拠がないことは否定しないよ。まだ向こうも論拠を示してないんだしね。

>俺も鸚鵡返ししよ。w どこ?ww

フェミとTGの親和性とか。性差否定してるなら女性専用車両にだって反対するだろとかマッキノンとかドウォーキンとか。

>まずレッテル貼りのオンパレードな>>2なんかは言うまでも無いな。

まあここは否定しないw兵頭に反応してもらうために書いたものだしねw

>次は「黒人でメシがまずくなる」とその他の差別のあれこれだね。

黒人云々は例え話なんだが。例え話に必要な客観的根拠ってなんだ?それとも件の白人の発言が差別であることを客観的論拠をもって証明せよってこと?

>上にも書いたけど「その"根底の感情"とやらを文章(少なくともネットじゃ判断材料はこれだけ)から離れた地平()にあるのにどう読み取って決め付けるの?w」って話で、どうしたら公的客観的にその離れた地平()にある筈が結び付くのか根拠が示されていない。

これは単なる誤読。差別性を読み取るのは当然その人の発言や文章から。"離れた地平"で行われるのは"批判"。
つまり、文章から差別性を読み取る→主張そのものから離れる→批判する、という流れ。
例え話は"主張そのものから離れた地平"っていう表現がわかりにくいって言われたからその説明のために出したもの。
No.60
139ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 どうも、 女災問題 の第一人者・兵頭新児です。  いや、「 女災 」って言葉自体、ぼくが勝手に言ってることなんで自動的に第一人者になるのは当たり前なんですけどね。  三年ほど前、世に蔓延する「女災」を看過できず、ぼくは(兵頭名義としては)処女作、『ぼくたちの女災社会』を著しました。 「女災」とは「女性災害」の略。  男女のジェンダーバイアス()に起因する、男性が女性から被る災いを、「女災」と呼ぶのです。  いや、上にも書いたようにぼくが勝手に言ってることに過ぎないんですが。  ――が、本書は最近、ぼくもあずかり知らぬまま絶版となりました。  そのほとんどは、既に廃棄されているようです。 ( 電子版 はまだあるので買ってね)  倉庫移転とかいろいろ事情はあったようなのですが、要するに売れなかったんですな。 「どうしてだろう? 『嫌韓流』くらいに売れてもいいのに」とおっしゃってくださった方もいました。  確かにその通りです。  あの本に書かれた韓国に対しての批判にどれだけの正当性があるのかを、ぼくは知りません。しかし「社会ではタブーとされ、今までであれば決して表には立ち現れなかったが、ネット時代になって可視化され、大衆の多くが共有していた本音」、そうしたネット発の本音が書籍という形になることで(具体的な部数とかは知りませんが)ベストセラーになった、という経緯については間違いがないでしょう。  同様に女性優遇社会への不満は、ネットには満ち溢れているのだから、こっちだって売れてくれたっていいだろう。  正直、ぼくもそう思います。  が、やはりぼくの実感としても、本書は読まれたとはあまり思えない。  本書を読むことなくあちこちに悪口を言いふらしていた文化人()も幾人かおりましたが、まあそれは、そういうものなのでしょう。そもそもそうした人たちは「ミソジニー」といった言葉を捻り出して、「女性への批判自体が絶対に許されざることなのだ」と真顔で主張するほどの徹底したファシストであり、本の内実をわざわざ云々するような誠実さは最初から持ちあわせてはおりません。  が、正直、本来であれば「ぼくの味方」である人たちにも、本書を読んでくれた人たちは大変に少なかったのではないか。  それこそが、『女災社会』の敗因だったのではないか。  今回は、第一回を記念しまして、それを分析する体を取って、愚痴、不満、恨み、妬み、嫉み、僻みの感情を吐露してみようかと。   みなさん、ご愛読いただければ幸いです。  ――さて、とは言え、いくつかのサイトでは本書を好意的に紹介していただきました。  そこでは「男性差別に悩む方にお勧め」「本書では男性差別を女災と称し云々」といった紹介をしてくださったように記憶しています。  が、これはときどき言っていることなのですが、ぼくは「男性差別」という言葉があまり好きではないのです。  むろん議論の際、わかりやすさを優先して取り敢えずこの言葉に乗っかることもありますし、「ではお前はこの世に男性差別はないというのか」と聞かれたら恐らく「ある」と答えることでしょうが、言葉としてはあまり好ましく思わない。  何となれば、「差別」という価値観の体系の上に乗っかっていては、いつまで経ってもこの問題は解決できない、と考えるからです。  さて、ここで今更「ココロコネクト」問題です。  詳細についてはぼくよりも皆さんの方が遙かによくご存じでしょうから、省略させていただきますが、ぼくがこの問題に引っかかりを感じたのは岡田斗司夫さんがニコ生で採り上げていたことがきっかけです( 岡田斗司夫ゼミ「タブー完全無視の一問一答地獄」~ブロマガから領土問題まで~ )。 「芸能界はパワハラOKだろ」と、岡田さんはおっしゃっていました。  それは頷けないけれども、現実問題としてそうだろうと思います。  岡田さんは「パワーバランスの読み違いだ」ともおっしゃっていました。「このドッキリを仕掛けられたのがお笑いタレントであれば美味しかったろう」「或いはもうちょっと売れてない若手の声優であったなら、役がもらえて美味しかったのではないか」とも。  つまり、微妙な「さじ加減」の問題だったというわけです。  ぼくもその考えに賛成します。  彼はこの問題を「そこまで騒ぐ問題ではない」と言っていたし、ぼくもまた、ある意味そう思います。というのは「これより非道いけれども表に出せないケース」は無限にあるに決まっているからです。岡田さんの考える「役がもらえて美味しかったケース」も恐らく無限にありますし、そうした事例と全く線対称の、「話題にならず役ももらえず、しかし干されるのでツイッターでもつぶやけず」という最悪のケースだって、恐らく珍しくはないはずだからです。  勘違いしないでいただきたいのですが、ぼくは「もっと非道い目に遭ってるやつに比べれば大したことがない、ガマンしろ」と言っているわけではありません。ただ、さじ加減が微妙なケースであった、後耳かき一杯だけ砂糖を入れていれば美味しくいただけたのに、と言っているのです。岡田さんの本意もまた、そうしたものでしょう。  本件は「パワハラ」問題です。  が、この「パワハラ」に「セクハラ」を代入すれば、ぼくの立ち位置が明快になるのではないかと思います。  セクハラというのも本来は労働の場での、上下関係を盾にとってなされる不当な行動のことであり、実は完全にパワハラの一カテゴリと言っていいものでした。  しかしこの上下関係というものは、少なくとも資本主義社会においてはなくては困るものであって、それをなくしてしまおうというのは無意味な空論であると、普通の人であれば考えるところだと思います。  そうなるとパワハラの全くない社会というのもまた、極めて空想的です。つきつめれば上司のあらゆる言動をパワハラであると言えなくはないのですから。 「ぼくたちはパワハラがある社会に生きている」「しかしなるべく行き過ぎはなくそう」そう考えた方が前向きでしょう。  しかし――ここからが本題なのですが――フェミニズムは男女関係における問題を、性差の全てを「リセット」することで解決しようと企てました。彼女らは男女のジェンダーは後天的なものであり、なくしてしまえるもの、なくしてしまうべきものと考え、「ジェンダーフリー」を唱えました。  近年、その後天論自体が誤りとわかったのですが、彼女らは特に過ちを認める様子もなく、いまだジェンダーフリーを唱え続けています。いや、ジェンダーが後天的であろうと先天的であろうと、「リセットする」という乱暴な考え方が既に短絡的に過ぎ、とても賛同できるようなものではないのですが。それはちょうど、「パワハラをなくすため、将軍様以外はみな平等な社会体制を作ろう」といった暴論と全く同じ、いやその一万倍くらいは乱暴な机上論です。  岡田さんはこの種のドッキリを見て微かでも不快感を感じてしまうのは、そこに「上下関係」が見て取れるからだ、とおっしゃっていました。ぼくも随分昔、「ウルトラクイズ」か何かで異常に執拗な若手タレントいじめを見て慄然とした記憶があります(ただしこれもよくわからないままに一部だけを見て、文脈が理解できず笑えなかった……といった可能性も、大いにありますが)。  しかしぼくたちはまた、例えば時代劇で金さんや黄門様が町人に優しくするような、「上下関係」を快感として感じる回路を持っているということもまた、忘れてはなりません。  言ってみれば本件は、SMショーで鞭打ちはおkだが浣腸はNGの女性が浣腸プレイを強要された的な、現場としては、個人としては重大な問題だけれども、SMのココロを解しない第三者がずかずか上がり込んでケンケンガクガクするようなものではない微妙な問題であった、と思うのです。  ぼくがこの問題が異常に拡大したことに対して感じた違和の本質は、恐らくそういうことであり、男女間のトラブルにも全く同じことが言えるように思います(当たり前ですが本件について騒ぐこと、或いは男女間のトラブルについて法整備すること自体が悪いのだ、と言っているわけでは全くありません)。  いささか遠回りをしましたが、「ココロコネクト問題」が許せないからといって職場に上下関係があること自体は仕方がない。同様に男女間の問題をジェンダーフリーによってリセットするというのも乱暴極まりない話です。  ぼくたちが考えておかねばならないのは、ぼくたちがそうした磁場の中で生きており、それをまず受け容れた上でのバランスを取るしかない、ということなのです。  フェミニストは「 男女間のあらゆるセックスは全てレイプである 」と考え、それらをなくすためにジェンダーフリーを強行しようとして、支持を失っていきました。  男性論の世界で大先輩に当たる小浜逸郎さんは名著『男はどこにいるのか』において、フェミニズムを  男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。  と表現しました。この一文以上にフェミニズムを的確に言い表した言葉を、ぼくは他に知りません。  ぼくもまた、「 男女間のあらゆる関係は全て女災 」と考えますが(上のフェミニストの「暴論」程度には理のある「極論」だと思います)、しかしそれらをジェンダーフリーでリセットしようとは、考えません。 「男性差別」論壇も一枚岩ではなく、果てしなくフェミニズムに親和的な人々から、ただひたすら「女氏ね!」と言っているだけの人々まで 多様なグラデュエーション を描いているのですが、意外や「ジェンダーフリー」的な発想の人が多いように思います。  フェミニズムに親和的な人々は彼女らのロジックを全く疑いなく鵜呑みにしていますが、女性に敵対的な人々は「あまり深く考えず、とにかく差別は悪だ、平等は善だ、と唱えているうちに、いつの間にかジェンダーフリーに絡め取られてしまった」人が多いという印象を、ぼくは持っています。例えば女性専用車両に反対するうち「男女平等であるべきだから、分けること自体が許せん」という結論に辿り着いてしまった人々。彼らは「男女の車両を、更衣室やトイレのように分けてしまおう」というアイデアには、決して首を縦に振りません。  手短に、まとめます。 「差別は悪い」と言われたら、それは誰もが否定できない「正義」でしょう。 「平等は正しい」もまた、しかりです。  しかし「平等=全てがみな同じ」といった考えに囚われると、それはフェミニズムと同じ過ちに陥ってしまう。 「差別」という言葉を聞くと、ぼくが身構えてしまうのは、そんなところが理由です。  それともうひとつ。  上に「女性専用車両反対運動」について採り上げました。目下、「男性差別云々」と言うと、どうしてもそうした人たちが一番に目立ってしまっています。  正直、女性専用車両はぼくにとって「女災」の氷山の、それも小さな小さな一角に過ぎないことなので、彼らがどうしてあそこまでそれにばかりこだわるのかが、どうにも不可解です。  時折、フェミニストたちが彼らを評し、「女性専用車両のことばかりを騒いでいること自体、それ以外には『男性差別』がないことを証明しているではないか」と言っているのを聞きます。  ぼくは恐らく彼らは、それに反論する言葉を持たないのではないか、と思っています。  ぼくたちに必要なのはいきなりわけのわからない運動を始めて、世間の失笑を買う「勇気」ではありません。  もう少し、状況を抽象化させて、問題の本質が何かを考えてみることです。 「男性差別」は結論です。 「差別は悪い」というのは現代社会では疑うことの許されない「正義」なのですから。  だから彼らは「男性差別」と唱えた瞬間、「結論は出た」と感じ、「運動」に乗り出してしまったのでしょう。  しかし現実問題として「男性差別」は世間に許容されています。いえ、「差別」という概念(近代的な人権観みたいなもの?)が生まれた瞬間、恐らくそこには「男性による女性差別」という概念が前提されていたはずで、そもそも「男性差別」という言葉自体が「青いアカレンジャー」みたいな一種の形容矛盾に他なりません。だから恐らく彼らの「運動」は何万年かけようと、実を結ぶことはない。 「女災」はスタート地点です。 「何故、性別によって『差別反対』という『正義』の恩恵を受けられる者と受けられない者に分かれてしまうのか」。  それを考えるために作られた、スタート地点の言葉が「女災」です。  ぼくはこれからここで、「今まで誰も考えなかったこと」について拙い考察を行っていこうと、思っています。  ご愛読いただけたら、幸いです。  大切なことなので、二度言わせていただきました。  
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。