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Dainsleif20mmさん のコメント

相変わらず文脈無視して恣意的に切り貼りし過ぎ。
だからあるところでは連帯性が無いし、またあるところでは変な接合のされ方をしてる。




>どちらかに肉体的にはっきりさせるって先天的理由(例えば半陰陽とか)でもない限り肉体的には最初からはっきりしてるじゃん。(ry

あぁ、此処だけ間違えたかもな。w んならこう訂正しとくよ(ムクとかその辺でいいだろ
 by ギャグマンガの太子w)

「心と肉体を一致させる事」と。
そして性差を否定仕切れないから必死に否定しようとしつつも体と心の性を一致させる為性転換するしかない(と考える当事者もいる)。つまり二律背反。


>つーかそもそもTGは苦しみから解放されるために性差を否定するって何を根拠に言ってるんだ。

フェミとTGの癒着。 以上。


>〈じゃあ聞くけどさ(ry

"言外に示す"っていう概念が無いんだね。w だから表層的な発言じゃなく思考方法と最
初に言ったんだよ。つーか相変わらず鸚鵡返し好きだねw


>兵頭側にも論理的根拠がないにも拘らずこの時点で兵頭支持に回るとしたらそれは「●●が言ってるんだから間違いない!!」式思考停止をする他無いだろう。

このリクツが意味不明。後者のそれって只の人物像に縋った崇拝だろ(そしてそうであってほしいという願望表現から決め付けるwww)。「論理的根拠が無い」とお前が思うのは勝手だが俺はそれなりに理を見出したからこそ多少兵頭氏寄りのスタンスに自然的になってるだけ。あくまで人物像ではなく発言を見ての事なんだが。w



>ああなるほどね、(ry

国連とか思いっきり連合国イデオロギーじゃないですかやだー
ま、百歩譲って差別だとして、だったらそういう発言を論理的に批判すれば良いだけだ。
個人の味覚よりも公平性のが大事(だと思う)だろうしねw


>排除(差別)の無い空間(社会)の維持、あるいは実現。
>何の解決になるの?って差別の解決になるがな。
>差別の無い社会(ry

「差別性がある!!」という人格設定だけで実現出来たらいいね^^
前々から似たような事言ってきたが差別性があろうがなかろうが本質的な主張言説を否定ない限り無意味なんだけど。w


>「そしてその原因は女だあああああ、フェミが全部悪いんじゃあああああ」って方向に吹き上がるから

だからさwwww 女に原因求めたり批判するのがミソジニー()なの?ww それならフェミのほざいてる事って全部ミサンドリーじゃん。w あぁ、「女性は社会的弱者云々(だと感じるから)批判する事、つまり"弱いから"という理由だけで批判する事が悪になる!!」んですねわかりませんwwwwwww


>論の正しさなら散々斟酌したじゃん。

文脈読めよ・・・^^; 引用元は「悪だというレッテル貼り・非難罵倒に於いては「論の正しさ」を一切斟酌しないやり口」と言ってるんだが。お前が斟酌してるかどうかの話じゃねーよww(まあ相当にアヤシイけど。)


>じゃあカルチュラルエコフェミニストが性差を否定したっていう客観的証拠を示しなよ



それこそ必要無いな。後半で俺は「フェミニストをひとくくりにする事の正当性」を述べたしそれに対してお前は「>そんなの場合によりけりだろ下らない。」とだけ。何だか上野千鶴子辺りが広めた「人それぞれ!!」みたいだなぁ(当時の時代風潮を想起しながら) そもそもその"場合"とやらが漠然としてて具体的に言えばどんな場合でどんな趣旨の時?っていう。
フェミが場当たり的に発言を差し替える事については再三述べられてきたし、エコフェミについても一括りの方の一文でその特異性を示した。そしてマトリョシカの如く「フェミ(ニスト・ニズム)」の下に内包化されるんだから。


>表現規制に反対することと表現物に見られる差別性を批判することは全然矛盾しないけ

ど?

残念ながら現実的に考えれば矛盾します。w 何となれば、その差別性を批判(ひっきょう、無くそうと奮迅する)するとなれば、現実に於ける対処案は表現規制しか無いから。そもそも「男社会の価値観の内面化が云々」というのも受け手側の印象でしかないし、お前の言うように「その表現精神(精神的内面)すら裁きたい」ならそれはもう"検閲"に等しい。

ところで、表現の自由といえば兵頭氏の著書にも勿論言える事だね。黒人や朝鮮人に関しても批判的な表現は山ほどあるしそれが「検閲されて然るべき」なんだろうか?(定義もガイドラインも無いが)


>"否定してない"。

残念。スイッチのONOFFと同じで"否定してない"んなら少なくとも否定的ではないんだから、肯定に少しでも近い位置にあるって事じゃん。


>それにしても分からんのは(ry

主語抜けてる。仮にフェミの事だと仮定しよう。その"ジェンダーバイアス"の意図するところが文脈によって多々異なるから。これこそフェミが「都合のいい時には性差を肯定する」事の証左かもなw 肯定する時は、「"弱者"という今生の新たな優位的立場に居座るため(女は弱いんだから云々なんか典型例)」。そして基本として否定するのは勿論男性の優位性。「男社会ガー!!」「性抑圧的支配ガー!!」なんてのがその典型例。



>はあ?「個々人がどう感じるかで左右される」ってのは科学的(客観的)事実であり

謎リクツその2 プロセスすっ飛んでるよw


>これは一体どこに対するレスだ?

お前が例えとして出したカレーとウンコの例えだよw


>著者本人が他人の発言を出典読まずに批判してるしいいじゃん。

はぁ。俺は知ったこっちゃありません^-^
twitterやブログについても同じだね。上記に書いたように表現の自由。


>「"感情を批判"して何になるの?w」ってなんだ?あなた自身(ry


ほらこれだ。また文脈無視。
そもそも「問題の有無」と「意味の有無」自体違うものだし 俺が言った「「差別感情の批判」って何が問題なの?」というのは黒人とメシの例えに追随して「本質的な言論を基にして初めて成り立つ」ものだから。だから内心がどうあれそこで人格設定して非難しても無意味と言った。黒人側のスタンスなら言論を基に「差別感情を批判する」のは"無問題"だが、相手の言論を基にせずに内心だけ勘ぐって「差別だ!!ゆ゛る゛さ゛ん゛」と人格設定するのは"無意味"って事。






もうこの際だしぶっちゃけた事言っとくか。



これは総じて言える事だが「実際に(奴等の言行や関係性等が)どうなってるか」を見てから判断しろよ。w
寧ろ俺から言わせてもらえば「フェミが性差に関して(一貫した)否定的・肯定的態度を取っている」「言葉の裏に隠れた差別性()への批判が有意義とされた」ケースなんざ全く見た事無いんだが。(あったとしてもレアケース中のレアケースだろうけどw)
如何にお前の脳内イメージでそうだろうと実践的行為・客観的事実は変わらない。つーかお前の凡そのほざいてる事で現実と符合するケースが全く持って見受けられない。そういや客観的根拠について言及したら何故か的外れな鸚鵡返しや例え話だ!!という言い訳してきたよね。この時点で「あぁなるほど」と思わざるを得ない。


それ故に、貴様の言説パターンを簡単に図解すれば


      大間違い(詭弁や極論)

    間違い間違い間違い

   間違い間違い間違い間違い

 間違い間違い間違い間違い間違い

間違い間違い間違い間違い間違い間違い


という具合で、説明するにはどうすればいいかとリアルに考えると途方もない労力が必要。これは「嘘を百段積み重ねてホントと見せ掛ける」という詭弁厨の論法。"一々指摘する苦労"を盾にして相手の労力や精神的摩耗を誘発させそこに漬け込む卑怯者のやり口(そして無駄だと悟り構うまいとすると「俺が正しいから答えられないんだろ(キリッ」とか言い出しちゃうw)。

こうした意味でも「相手が苦労・磨耗すれば勝ち」という逃げの手口、というかストーカーや荒らしの常套手段だと言える。
No.65
139ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 どうも、 女災問題 の第一人者・兵頭新児です。  いや、「 女災 」って言葉自体、ぼくが勝手に言ってることなんで自動的に第一人者になるのは当たり前なんですけどね。  三年ほど前、世に蔓延する「女災」を看過できず、ぼくは(兵頭名義としては)処女作、『ぼくたちの女災社会』を著しました。 「女災」とは「女性災害」の略。  男女のジェンダーバイアス()に起因する、男性が女性から被る災いを、「女災」と呼ぶのです。  いや、上にも書いたようにぼくが勝手に言ってることに過ぎないんですが。  ――が、本書は最近、ぼくもあずかり知らぬまま絶版となりました。  そのほとんどは、既に廃棄されているようです。 ( 電子版 はまだあるので買ってね)  倉庫移転とかいろいろ事情はあったようなのですが、要するに売れなかったんですな。 「どうしてだろう? 『嫌韓流』くらいに売れてもいいのに」とおっしゃってくださった方もいました。  確かにその通りです。  あの本に書かれた韓国に対しての批判にどれだけの正当性があるのかを、ぼくは知りません。しかし「社会ではタブーとされ、今までであれば決して表には立ち現れなかったが、ネット時代になって可視化され、大衆の多くが共有していた本音」、そうしたネット発の本音が書籍という形になることで(具体的な部数とかは知りませんが)ベストセラーになった、という経緯については間違いがないでしょう。  同様に女性優遇社会への不満は、ネットには満ち溢れているのだから、こっちだって売れてくれたっていいだろう。  正直、ぼくもそう思います。  が、やはりぼくの実感としても、本書は読まれたとはあまり思えない。  本書を読むことなくあちこちに悪口を言いふらしていた文化人()も幾人かおりましたが、まあそれは、そういうものなのでしょう。そもそもそうした人たちは「ミソジニー」といった言葉を捻り出して、「女性への批判自体が絶対に許されざることなのだ」と真顔で主張するほどの徹底したファシストであり、本の内実をわざわざ云々するような誠実さは最初から持ちあわせてはおりません。  が、正直、本来であれば「ぼくの味方」である人たちにも、本書を読んでくれた人たちは大変に少なかったのではないか。  それこそが、『女災社会』の敗因だったのではないか。  今回は、第一回を記念しまして、それを分析する体を取って、愚痴、不満、恨み、妬み、嫉み、僻みの感情を吐露してみようかと。   みなさん、ご愛読いただければ幸いです。  ――さて、とは言え、いくつかのサイトでは本書を好意的に紹介していただきました。  そこでは「男性差別に悩む方にお勧め」「本書では男性差別を女災と称し云々」といった紹介をしてくださったように記憶しています。  が、これはときどき言っていることなのですが、ぼくは「男性差別」という言葉があまり好きではないのです。  むろん議論の際、わかりやすさを優先して取り敢えずこの言葉に乗っかることもありますし、「ではお前はこの世に男性差別はないというのか」と聞かれたら恐らく「ある」と答えることでしょうが、言葉としてはあまり好ましく思わない。  何となれば、「差別」という価値観の体系の上に乗っかっていては、いつまで経ってもこの問題は解決できない、と考えるからです。  さて、ここで今更「ココロコネクト」問題です。  詳細についてはぼくよりも皆さんの方が遙かによくご存じでしょうから、省略させていただきますが、ぼくがこの問題に引っかかりを感じたのは岡田斗司夫さんがニコ生で採り上げていたことがきっかけです( 岡田斗司夫ゼミ「タブー完全無視の一問一答地獄」~ブロマガから領土問題まで~ )。 「芸能界はパワハラOKだろ」と、岡田さんはおっしゃっていました。  それは頷けないけれども、現実問題としてそうだろうと思います。  岡田さんは「パワーバランスの読み違いだ」ともおっしゃっていました。「このドッキリを仕掛けられたのがお笑いタレントであれば美味しかったろう」「或いはもうちょっと売れてない若手の声優であったなら、役がもらえて美味しかったのではないか」とも。  つまり、微妙な「さじ加減」の問題だったというわけです。  ぼくもその考えに賛成します。  彼はこの問題を「そこまで騒ぐ問題ではない」と言っていたし、ぼくもまた、ある意味そう思います。というのは「これより非道いけれども表に出せないケース」は無限にあるに決まっているからです。岡田さんの考える「役がもらえて美味しかったケース」も恐らく無限にありますし、そうした事例と全く線対称の、「話題にならず役ももらえず、しかし干されるのでツイッターでもつぶやけず」という最悪のケースだって、恐らく珍しくはないはずだからです。  勘違いしないでいただきたいのですが、ぼくは「もっと非道い目に遭ってるやつに比べれば大したことがない、ガマンしろ」と言っているわけではありません。ただ、さじ加減が微妙なケースであった、後耳かき一杯だけ砂糖を入れていれば美味しくいただけたのに、と言っているのです。岡田さんの本意もまた、そうしたものでしょう。  本件は「パワハラ」問題です。  が、この「パワハラ」に「セクハラ」を代入すれば、ぼくの立ち位置が明快になるのではないかと思います。  セクハラというのも本来は労働の場での、上下関係を盾にとってなされる不当な行動のことであり、実は完全にパワハラの一カテゴリと言っていいものでした。  しかしこの上下関係というものは、少なくとも資本主義社会においてはなくては困るものであって、それをなくしてしまおうというのは無意味な空論であると、普通の人であれば考えるところだと思います。  そうなるとパワハラの全くない社会というのもまた、極めて空想的です。つきつめれば上司のあらゆる言動をパワハラであると言えなくはないのですから。 「ぼくたちはパワハラがある社会に生きている」「しかしなるべく行き過ぎはなくそう」そう考えた方が前向きでしょう。  しかし――ここからが本題なのですが――フェミニズムは男女関係における問題を、性差の全てを「リセット」することで解決しようと企てました。彼女らは男女のジェンダーは後天的なものであり、なくしてしまえるもの、なくしてしまうべきものと考え、「ジェンダーフリー」を唱えました。  近年、その後天論自体が誤りとわかったのですが、彼女らは特に過ちを認める様子もなく、いまだジェンダーフリーを唱え続けています。いや、ジェンダーが後天的であろうと先天的であろうと、「リセットする」という乱暴な考え方が既に短絡的に過ぎ、とても賛同できるようなものではないのですが。それはちょうど、「パワハラをなくすため、将軍様以外はみな平等な社会体制を作ろう」といった暴論と全く同じ、いやその一万倍くらいは乱暴な机上論です。  岡田さんはこの種のドッキリを見て微かでも不快感を感じてしまうのは、そこに「上下関係」が見て取れるからだ、とおっしゃっていました。ぼくも随分昔、「ウルトラクイズ」か何かで異常に執拗な若手タレントいじめを見て慄然とした記憶があります(ただしこれもよくわからないままに一部だけを見て、文脈が理解できず笑えなかった……といった可能性も、大いにありますが)。  しかしぼくたちはまた、例えば時代劇で金さんや黄門様が町人に優しくするような、「上下関係」を快感として感じる回路を持っているということもまた、忘れてはなりません。  言ってみれば本件は、SMショーで鞭打ちはおkだが浣腸はNGの女性が浣腸プレイを強要された的な、現場としては、個人としては重大な問題だけれども、SMのココロを解しない第三者がずかずか上がり込んでケンケンガクガクするようなものではない微妙な問題であった、と思うのです。  ぼくがこの問題が異常に拡大したことに対して感じた違和の本質は、恐らくそういうことであり、男女間のトラブルにも全く同じことが言えるように思います(当たり前ですが本件について騒ぐこと、或いは男女間のトラブルについて法整備すること自体が悪いのだ、と言っているわけでは全くありません)。  いささか遠回りをしましたが、「ココロコネクト問題」が許せないからといって職場に上下関係があること自体は仕方がない。同様に男女間の問題をジェンダーフリーによってリセットするというのも乱暴極まりない話です。  ぼくたちが考えておかねばならないのは、ぼくたちがそうした磁場の中で生きており、それをまず受け容れた上でのバランスを取るしかない、ということなのです。  フェミニストは「 男女間のあらゆるセックスは全てレイプである 」と考え、それらをなくすためにジェンダーフリーを強行しようとして、支持を失っていきました。  男性論の世界で大先輩に当たる小浜逸郎さんは名著『男はどこにいるのか』において、フェミニズムを  男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。  と表現しました。この一文以上にフェミニズムを的確に言い表した言葉を、ぼくは他に知りません。  ぼくもまた、「 男女間のあらゆる関係は全て女災 」と考えますが(上のフェミニストの「暴論」程度には理のある「極論」だと思います)、しかしそれらをジェンダーフリーでリセットしようとは、考えません。 「男性差別」論壇も一枚岩ではなく、果てしなくフェミニズムに親和的な人々から、ただひたすら「女氏ね!」と言っているだけの人々まで 多様なグラデュエーション を描いているのですが、意外や「ジェンダーフリー」的な発想の人が多いように思います。  フェミニズムに親和的な人々は彼女らのロジックを全く疑いなく鵜呑みにしていますが、女性に敵対的な人々は「あまり深く考えず、とにかく差別は悪だ、平等は善だ、と唱えているうちに、いつの間にかジェンダーフリーに絡め取られてしまった」人が多いという印象を、ぼくは持っています。例えば女性専用車両に反対するうち「男女平等であるべきだから、分けること自体が許せん」という結論に辿り着いてしまった人々。彼らは「男女の車両を、更衣室やトイレのように分けてしまおう」というアイデアには、決して首を縦に振りません。  手短に、まとめます。 「差別は悪い」と言われたら、それは誰もが否定できない「正義」でしょう。 「平等は正しい」もまた、しかりです。  しかし「平等=全てがみな同じ」といった考えに囚われると、それはフェミニズムと同じ過ちに陥ってしまう。 「差別」という言葉を聞くと、ぼくが身構えてしまうのは、そんなところが理由です。  それともうひとつ。  上に「女性専用車両反対運動」について採り上げました。目下、「男性差別云々」と言うと、どうしてもそうした人たちが一番に目立ってしまっています。  正直、女性専用車両はぼくにとって「女災」の氷山の、それも小さな小さな一角に過ぎないことなので、彼らがどうしてあそこまでそれにばかりこだわるのかが、どうにも不可解です。  時折、フェミニストたちが彼らを評し、「女性専用車両のことばかりを騒いでいること自体、それ以外には『男性差別』がないことを証明しているではないか」と言っているのを聞きます。  ぼくは恐らく彼らは、それに反論する言葉を持たないのではないか、と思っています。  ぼくたちに必要なのはいきなりわけのわからない運動を始めて、世間の失笑を買う「勇気」ではありません。  もう少し、状況を抽象化させて、問題の本質が何かを考えてみることです。 「男性差別」は結論です。 「差別は悪い」というのは現代社会では疑うことの許されない「正義」なのですから。  だから彼らは「男性差別」と唱えた瞬間、「結論は出た」と感じ、「運動」に乗り出してしまったのでしょう。  しかし現実問題として「男性差別」は世間に許容されています。いえ、「差別」という概念(近代的な人権観みたいなもの?)が生まれた瞬間、恐らくそこには「男性による女性差別」という概念が前提されていたはずで、そもそも「男性差別」という言葉自体が「青いアカレンジャー」みたいな一種の形容矛盾に他なりません。だから恐らく彼らの「運動」は何万年かけようと、実を結ぶことはない。 「女災」はスタート地点です。 「何故、性別によって『差別反対』という『正義』の恩恵を受けられる者と受けられない者に分かれてしまうのか」。  それを考えるために作られた、スタート地点の言葉が「女災」です。  ぼくはこれからここで、「今まで誰も考えなかったこと」について拙い考察を行っていこうと、思っています。  ご愛読いただけたら、幸いです。  大切なことなので、二度言わせていただきました。  
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。