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skylineさん のコメント

>「心と肉体を一致させる事」と。
そして性差を否定仕切れないから必死に否定しようとしつつも体と心の性を一致させる為性転換するしかない(と考える当事者もいる)。つまり二律背反。

性転換手術で「心と肉体を一致させる」ことができるんなら(あるいは、したのなら)もう性差を否定する必要ないじゃんw苦しみの原因が除かれたんだからさw
"TGは男性性/女性性の両方が混在しているからこそ性差を否定したがる"ってのがあなたの理屈。
つまり「両性が混在している以上肉体を一致させることができない」ことが前提じゃないとこの理屈は成立しない(一致させる方法があるんだったらそれを使うにきまってるからね)。
性転換手術で「心と肉体を一致させる」ことができるんなら性差を否定する必要は無く、
一致させられないのならそもそも性転換手術を受ける必要が無い。

>フェミとTGの癒着。 以上。

「TGは苦しみから開放されるために性差を否定し、フェミは基本性差を否定するから両者には親和性があり、癒着している。」
っていうのがあなたの元の主張でしょ。で、
「何故『TGは苦しみから解放されるために性差を否定する』と言えるのか、理屈だけでなく客観的根拠を示せ」
ていう反論に対し
「フェミとTGが癒着しているからです」
っていうのはムツカシイ言葉でトートロジーといいます(by 兵頭新児)だろ。
客観的根拠っていうんだから例えば具体的にTGの団体がそういう声明を出してるとかじゃないとだめだろ。

>"言外に示す"っていう概念が無いんだね。w だから表層的な発言じゃなく思考方法と最初に言ったんだよ。

じゃあ兵頭のミソジニーも言外に示されてたーん♪
あのさあw言外から読み取るって言ったって魔法じゃないんだから当然そこにある具体的な"言"から論理的に読み取る他無い。
だから先ず兎にも角にも発言を引用して、その上でどういう理屈を持ってどういう言外の意味を読み取ったのか示してみな。
それをしない内はエスパー。

つーかそもそも"「言ったなら引用してみろ!!」って非常にナンセンス"って言うなら最初の

>③っいっちばん最初の米。見事にミソジニー云々と書かれていますねw

これはなんなんだw

>このリクツが意味不明。

いやこの理屈はほぼ自明でしょ。根拠が示されてないのにどうしてその人を論理的に支持できるの。
まああなたは兵頭と仲いいみたいだし、あるいはここに示されていない"根拠"を別の機会に知ったのかもしれないけど、そういう態度はやっぱり論理的じゃないでしょ。

>「論理的根拠が無い」とお前が思うのは勝手だが俺はそれなりに理を見出したからこそ多少兵頭氏寄りのスタンスに自然的になってるだけ。
あくまで人物像ではなく発言を見ての事なんだが。w

えー、何処に?
「フェミは性差を否定してる」も「フェミは男女間の全てのセックスをレイプとみなしている」も「ジェンダーフリーは性差を否定する思想」も言いっぱなしで根拠ないじゃん。
しかも僕が喧嘩ふっかけたあとも僕側から「どうせマッキノンだろ」と誘い水をだすまで頑なに自分の主張の根拠は示そうとしなかったじゃん(しかもその後「ソースは確認してない(キリッ」とか自爆)。

>国連とか思いっきり連合国イデオロギーじゃないですかやだー

不満があるんなら具体的に言ってもらわないと議論にならんよ。

>ま、百歩譲って差別だとして、だったらそういう発言を論理的に批判すれば良いだけだ。個人の味覚よりも公平性のが大事(だと思う)だろうしねw

いやだから、発言を論理的に批判することには賛成してるんだが。一回整理したほうがいいかね?
まあいい。じゃあ論理的に批判してみよう。
「科学的に分析して黒人が存在する場合としない場合とで料理の成分に変化は無い!あなたの主張は間違っている!」
・・・で?っていう。
違うだろ。ここで批判されるべき差別性ってのは「黒人を一緒に食事をするとメシがまずくなる存在だとみなしてる」点であり、それを批判することと元の「メシがまずくなる」という主張の当否
を議論することとは"ズレ"があるでしょ。黒人の例え話で言いたいのはこういうこと。つまり、
「主張の正当性、というか主張そのものから離れた地平においてその主張から読み取れる筆者の差別性が批判されるのは当たり前だし、無意味でもなんでもない。」ってこと。

>「差別性がある!!」という人格設定だけで実現出来たらいいね^^

そうっすね。

>だからさwwww 女に原因求めたり批判するのがミソジニー()なの?ww 

女が原因でないのに女に原因を求めて不当な批判をしているからミソジニー。

>文脈読めよ・・・^^;

いや、文脈を読むんならそもそも元の発言は

>そもそもさ、途中からほざいてる事が一点張りなんだよ。
循環論法どころか無限ループ。
やっつけた()んじゃなくてただ相手にされなくなっただけだと早く気付け。
疑問点が多過ぎるんだよksが

って文脈で列挙されている「疑問点」のひとつなんだから当然これの主語は「僕」だろう。

>それこそ必要無いな。

いやある。何故なら

>貴様は"フェミニストが性差を否定しているかどうか"に関して「ドウォーキンが片やこんな事も言っているから」「エコフェミみたいなのもいるから」という別ケース的な言い逃れを繰り返してきた訳だが
これも「場当たり的に発言コロコロ変えてる所為だろ」と言って置いたわけだ。

上の発言を見れば分かるが明らかに「エコフェミ」が性差を肯定している(ように見える)のは「場当たり的に発言コロコロ変えてる所為だろ」と言っている。

>エコフェミについても一括りの方の一文でその特異性を示した。

これ何がいいたいんだ?いや、あれ別に「場当たり的に発言をころころ変える」ことの証左になってないじゃん。

>後半で俺は「フェミニストをひとくくりにする事の正当性」を述べたしそれに対してお前は「>そんなの場合によりけりだろ下らない。」とだけ。
>そもそもその"場合"とやらが漠然としてて具体的に言えばどんな場合でどんな趣旨の時?っていう。

フェミニズム全体である程度合意がとれてることなら一括りにしてもかまわんだろうが(例えば、「フェミニズムは抑圧された女性の権利の拡張を目指した思想である」みたいに)そういうのは稀だな。
一口にフェミニズムって言っても派閥によって言ってること全然違うし。

>ある一定のコミュニティや組織を批判する際に、そんなそれこそ例外や別枠、レアケース、もっと言えば内ゲバに一々注視するか?
>公的・全般的な議論では勿論それが前提化される。

とあなたは言うが、例えば差異派フェミニズムと平等派フェミニズム、更に平等派フェミニズムの中のラディカルフェミニズムとリベラルフェミニズムは基盤としている思想、あなたの言うところの"基本骨子"のレベル
で全然違うのに一括りに語っていいわけないだろう。

>残念ながら現実的に考えれば矛盾します。w 何となれば、その差別性を批判(ひっきょう、無くそうと奮迅する)するとなれば、現実に於ける対処案は表現規制しか無いから。

いや意味が分からない。普通に批判、っていう草の根活動で無くせばいいじゃん。
また、仮に「現実に於ける対処案は表現規制しか無い」としても、故に、「表現規制に賛成」ともならない。
現実的にそれしかなくても表現の場に国家や公的権力が介入してくることを難じて反対、でなにも矛盾しない。
つーかそもそもフェミ的な批判って必ずしもそういう表現をなくそうとしてやるわけじゃなくね?知らんけど。
フェミ的でない否定的な批評だって別にその表現を無くそうとしてやってるわけじゃないじゃん。

>ところで、表現の自由といえば兵頭氏の著書にも勿論言える事だね。
黒人や朝鮮人に関しても批判的な表現は山ほどあるしそれが「検閲されて然るべき」なんだろうか?(定義もガイドラインも無いが)

僕は表現規制反対派なので公的権力によって検閲されるべきとは思わないな。
ただ人々の良心において否定されるべき、とは思うが。

>残念。スイッチのONOFFと同じで"否定してない"んなら少なくとも否定的ではないんだから、肯定に少しでも近い位置にあるって事じゃん。

うん、近い位置にはあるな。

>主語抜けてる。仮にフェミの事だと仮定しよう。

主語はあんたがた。つーかフェミなわけないじゃん。「フェミは性差を絶対肯定している」なんてここにいるだれも主張してないよ。

>謎リクツその2 プロセスすっ飛んでるよw

科学的事実でしょ。飲食店で出される料理がグチャグチャのゲロゲロ状態でなく、きちんと美しく盛り付けられてるのは「水にありがとう」的なオカルティズムだとでも?
まあ前にも書いたがまずくなるかどうかはどうでもいいのでどうでもいいが。

>お前が例えとして出したカレーとウンコの例えだよw

いや、そうではなく、

>カレーとウンコの話ならそんな話してる奴の言葉から考察して「どう迷惑なのか」を論理的に説明すれば良いだけだし。

「カレーとウンコ」は味が単なる味覚ではない説が広く一般に支持されていることの証拠として出したんだが。
これの何処がどう反論になってるんだ?

>はぁ。俺は知ったこっちゃありません^-^

そりゃあなたはそうだろうが兵頭はそうはいかないだろ。

>twitterやブログについても同じだね。上記に書いたように表現の自由。

これ全然反論になってないよ。表現することは自由だがその自由に表現された表現物が差別だってだけ。

>俺が言った「「差別感情の批判」って何が問題なの?」というのは黒人とメシの例えに追随して「本質的な言論を基にして初めて成り立つ」ものだから。
だから内心がどうあれそこで人格設定して非難しても無意味と言った。黒人側のスタンスなら言論を基に「差別感情を批判する」のは"無問題"だが、
相手の言論を基にせずに内心だけ勘ぐって「差別だ!!ゆ゛る゛さ゛ん゛」と人格設定するのは"無意味"って事。

「主張の正当性、というか主張そのものから離れた地平においてその主張から読み取れる筆者の差別性が批判される」場合(黒人とメシの場合)でも差別感情を読み取るのは相手の主張からだし、
読み取る差別感情はその主張において発露されたものだよ。
「相手の言論を基にせずに内心だけ勘ぐって」いるわけじゃない。
例え話においても「黒人と一緒だとメシがまずくなる」という発言から「黒人を一緒に食事をするとメシがまずくなる存在だとみなしてる」という差別感情を読み取ってそれを批判する。
ただ、このことと元の主張の「実際にメシがまずくなるかどうか」は関係ないし、そもそもその議論自体どうでもいい、ってこと。

>これは総じて言える事だが「実際に(奴等の言行や関係性等が)どうなってるか」を見てから判断しろよ。w

いや、してるけど?あなたこそ自分に都合のいいものしか見えてないんじゃない。

>これは総じて言える事だが「実際に(奴等の言行や関係性等が)どうなってるか」を見てから判断しろよ。w
寧ろ俺から言わせてもらえば「フェミが性差に関して(一貫した)否定的・肯定的態度を取っている」
「言葉の裏に隠れた差別性()への批判が有意義とされた」ケースなんざ全く見た事無いんだが。(あったとしてもレアケース中のレアケースだろうけどw)

んじゃ「フェミが場当たり的に性差を否定したり肯定したりしたりしている」「言葉の裏に隠された差別性()への批判が無意味だった」
客観的な例を出してみなよ。

No.66
147ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 どうも、 女災問題 の第一人者・兵頭新児です。  いや、「 女災 」って言葉自体、ぼくが勝手に言ってることなんで自動的に第一人者になるのは当たり前なんですけどね。  三年ほど前、世に蔓延する「女災」を看過できず、ぼくは(兵頭名義としては)処女作、『ぼくたちの女災社会』を著しました。 「女災」とは「女性災害」の略。  男女のジェンダーバイアス()に起因する、男性が女性から被る災いを、「女災」と呼ぶのです。  いや、上にも書いたようにぼくが勝手に言ってることに過ぎないんですが。  ――が、本書は最近、ぼくもあずかり知らぬまま絶版となりました。  そのほとんどは、既に廃棄されているようです。 ( 電子版 はまだあるので買ってね)  倉庫移転とかいろいろ事情はあったようなのですが、要するに売れなかったんですな。 「どうしてだろう? 『嫌韓流』くらいに売れてもいいのに」とおっしゃってくださった方もいました。  確かにその通りです。  あの本に書かれた韓国に対しての批判にどれだけの正当性があるのかを、ぼくは知りません。しかし「社会ではタブーとされ、今までであれば決して表には立ち現れなかったが、ネット時代になって可視化され、大衆の多くが共有していた本音」、そうしたネット発の本音が書籍という形になることで(具体的な部数とかは知りませんが)ベストセラーになった、という経緯については間違いがないでしょう。  同様に女性優遇社会への不満は、ネットには満ち溢れているのだから、こっちだって売れてくれたっていいだろう。  正直、ぼくもそう思います。  が、やはりぼくの実感としても、本書は読まれたとはあまり思えない。  本書を読むことなくあちこちに悪口を言いふらしていた文化人()も幾人かおりましたが、まあそれは、そういうものなのでしょう。そもそもそうした人たちは「ミソジニー」といった言葉を捻り出して、「女性への批判自体が絶対に許されざることなのだ」と真顔で主張するほどの徹底したファシストであり、本の内実をわざわざ云々するような誠実さは最初から持ちあわせてはおりません。  が、正直、本来であれば「ぼくの味方」である人たちにも、本書を読んでくれた人たちは大変に少なかったのではないか。  それこそが、『女災社会』の敗因だったのではないか。  今回は、第一回を記念しまして、それを分析する体を取って、愚痴、不満、恨み、妬み、嫉み、僻みの感情を吐露してみようかと。   みなさん、ご愛読いただければ幸いです。  ――さて、とは言え、いくつかのサイトでは本書を好意的に紹介していただきました。  そこでは「男性差別に悩む方にお勧め」「本書では男性差別を女災と称し云々」といった紹介をしてくださったように記憶しています。  が、これはときどき言っていることなのですが、ぼくは「男性差別」という言葉があまり好きではないのです。  むろん議論の際、わかりやすさを優先して取り敢えずこの言葉に乗っかることもありますし、「ではお前はこの世に男性差別はないというのか」と聞かれたら恐らく「ある」と答えることでしょうが、言葉としてはあまり好ましく思わない。  何となれば、「差別」という価値観の体系の上に乗っかっていては、いつまで経ってもこの問題は解決できない、と考えるからです。  さて、ここで今更「ココロコネクト」問題です。  詳細についてはぼくよりも皆さんの方が遙かによくご存じでしょうから、省略させていただきますが、ぼくがこの問題に引っかかりを感じたのは岡田斗司夫さんがニコ生で採り上げていたことがきっかけです( 岡田斗司夫ゼミ「タブー完全無視の一問一答地獄」~ブロマガから領土問題まで~ )。 「芸能界はパワハラOKだろ」と、岡田さんはおっしゃっていました。  それは頷けないけれども、現実問題としてそうだろうと思います。  岡田さんは「パワーバランスの読み違いだ」ともおっしゃっていました。「このドッキリを仕掛けられたのがお笑いタレントであれば美味しかったろう」「或いはもうちょっと売れてない若手の声優であったなら、役がもらえて美味しかったのではないか」とも。  つまり、微妙な「さじ加減」の問題だったというわけです。  ぼくもその考えに賛成します。  彼はこの問題を「そこまで騒ぐ問題ではない」と言っていたし、ぼくもまた、ある意味そう思います。というのは「これより非道いけれども表に出せないケース」は無限にあるに決まっているからです。岡田さんの考える「役がもらえて美味しかったケース」も恐らく無限にありますし、そうした事例と全く線対称の、「話題にならず役ももらえず、しかし干されるのでツイッターでもつぶやけず」という最悪のケースだって、恐らく珍しくはないはずだからです。  勘違いしないでいただきたいのですが、ぼくは「もっと非道い目に遭ってるやつに比べれば大したことがない、ガマンしろ」と言っているわけではありません。ただ、さじ加減が微妙なケースであった、後耳かき一杯だけ砂糖を入れていれば美味しくいただけたのに、と言っているのです。岡田さんの本意もまた、そうしたものでしょう。  本件は「パワハラ」問題です。  が、この「パワハラ」に「セクハラ」を代入すれば、ぼくの立ち位置が明快になるのではないかと思います。  セクハラというのも本来は労働の場での、上下関係を盾にとってなされる不当な行動のことであり、実は完全にパワハラの一カテゴリと言っていいものでした。  しかしこの上下関係というものは、少なくとも資本主義社会においてはなくては困るものであって、それをなくしてしまおうというのは無意味な空論であると、普通の人であれば考えるところだと思います。  そうなるとパワハラの全くない社会というのもまた、極めて空想的です。つきつめれば上司のあらゆる言動をパワハラであると言えなくはないのですから。 「ぼくたちはパワハラがある社会に生きている」「しかしなるべく行き過ぎはなくそう」そう考えた方が前向きでしょう。  しかし――ここからが本題なのですが――フェミニズムは男女関係における問題を、性差の全てを「リセット」することで解決しようと企てました。彼女らは男女のジェンダーは後天的なものであり、なくしてしまえるもの、なくしてしまうべきものと考え、「ジェンダーフリー」を唱えました。  近年、その後天論自体が誤りとわかったのですが、彼女らは特に過ちを認める様子もなく、いまだジェンダーフリーを唱え続けています。いや、ジェンダーが後天的であろうと先天的であろうと、「リセットする」という乱暴な考え方が既に短絡的に過ぎ、とても賛同できるようなものではないのですが。それはちょうど、「パワハラをなくすため、将軍様以外はみな平等な社会体制を作ろう」といった暴論と全く同じ、いやその一万倍くらいは乱暴な机上論です。  岡田さんはこの種のドッキリを見て微かでも不快感を感じてしまうのは、そこに「上下関係」が見て取れるからだ、とおっしゃっていました。ぼくも随分昔、「ウルトラクイズ」か何かで異常に執拗な若手タレントいじめを見て慄然とした記憶があります(ただしこれもよくわからないままに一部だけを見て、文脈が理解できず笑えなかった……といった可能性も、大いにありますが)。  しかしぼくたちはまた、例えば時代劇で金さんや黄門様が町人に優しくするような、「上下関係」を快感として感じる回路を持っているということもまた、忘れてはなりません。  言ってみれば本件は、SMショーで鞭打ちはおkだが浣腸はNGの女性が浣腸プレイを強要された的な、現場としては、個人としては重大な問題だけれども、SMのココロを解しない第三者がずかずか上がり込んでケンケンガクガクするようなものではない微妙な問題であった、と思うのです。  ぼくがこの問題が異常に拡大したことに対して感じた違和の本質は、恐らくそういうことであり、男女間のトラブルにも全く同じことが言えるように思います(当たり前ですが本件について騒ぐこと、或いは男女間のトラブルについて法整備すること自体が悪いのだ、と言っているわけでは全くありません)。  いささか遠回りをしましたが、「ココロコネクト問題」が許せないからといって職場に上下関係があること自体は仕方がない。同様に男女間の問題をジェンダーフリーによってリセットするというのも乱暴極まりない話です。  ぼくたちが考えておかねばならないのは、ぼくたちがそうした磁場の中で生きており、それをまず受け容れた上でのバランスを取るしかない、ということなのです。  フェミニストは「 男女間のあらゆるセックスは全てレイプである 」と考え、それらをなくすためにジェンダーフリーを強行しようとして、支持を失っていきました。  男性論の世界で大先輩に当たる小浜逸郎さんは名著『男はどこにいるのか』において、フェミニズムを  男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。  と表現しました。この一文以上にフェミニズムを的確に言い表した言葉を、ぼくは他に知りません。  ぼくもまた、「 男女間のあらゆる関係は全て女災 」と考えますが(上のフェミニストの「暴論」程度には理のある「極論」だと思います)、しかしそれらをジェンダーフリーでリセットしようとは、考えません。 「男性差別」論壇も一枚岩ではなく、果てしなくフェミニズムに親和的な人々から、ただひたすら「女氏ね!」と言っているだけの人々まで 多様なグラデュエーション を描いているのですが、意外や「ジェンダーフリー」的な発想の人が多いように思います。  フェミニズムに親和的な人々は彼女らのロジックを全く疑いなく鵜呑みにしていますが、女性に敵対的な人々は「あまり深く考えず、とにかく差別は悪だ、平等は善だ、と唱えているうちに、いつの間にかジェンダーフリーに絡め取られてしまった」人が多いという印象を、ぼくは持っています。例えば女性専用車両に反対するうち「男女平等であるべきだから、分けること自体が許せん」という結論に辿り着いてしまった人々。彼らは「男女の車両を、更衣室やトイレのように分けてしまおう」というアイデアには、決して首を縦に振りません。  手短に、まとめます。 「差別は悪い」と言われたら、それは誰もが否定できない「正義」でしょう。 「平等は正しい」もまた、しかりです。  しかし「平等=全てがみな同じ」といった考えに囚われると、それはフェミニズムと同じ過ちに陥ってしまう。 「差別」という言葉を聞くと、ぼくが身構えてしまうのは、そんなところが理由です。  それともうひとつ。  上に「女性専用車両反対運動」について採り上げました。目下、「男性差別云々」と言うと、どうしてもそうした人たちが一番に目立ってしまっています。  正直、女性専用車両はぼくにとって「女災」の氷山の、それも小さな小さな一角に過ぎないことなので、彼らがどうしてあそこまでそれにばかりこだわるのかが、どうにも不可解です。  時折、フェミニストたちが彼らを評し、「女性専用車両のことばかりを騒いでいること自体、それ以外には『男性差別』がないことを証明しているではないか」と言っているのを聞きます。  ぼくは恐らく彼らは、それに反論する言葉を持たないのではないか、と思っています。  ぼくたちに必要なのはいきなりわけのわからない運動を始めて、世間の失笑を買う「勇気」ではありません。  もう少し、状況を抽象化させて、問題の本質が何かを考えてみることです。 「男性差別」は結論です。 「差別は悪い」というのは現代社会では疑うことの許されない「正義」なのですから。  だから彼らは「男性差別」と唱えた瞬間、「結論は出た」と感じ、「運動」に乗り出してしまったのでしょう。  しかし現実問題として「男性差別」は世間に許容されています。いえ、「差別」という概念(近代的な人権観みたいなもの?)が生まれた瞬間、恐らくそこには「男性による女性差別」という概念が前提されていたはずで、そもそも「男性差別」という言葉自体が「青いアカレンジャー」みたいな一種の形容矛盾に他なりません。だから恐らく彼らの「運動」は何万年かけようと、実を結ぶことはない。 「女災」はスタート地点です。 「何故、性別によって『差別反対』という『正義』の恩恵を受けられる者と受けられない者に分かれてしまうのか」。  それを考えるために作られた、スタート地点の言葉が「女災」です。  ぼくはこれからここで、「今まで誰も考えなかったこと」について拙い考察を行っていこうと、思っています。  ご愛読いただけたら、幸いです。  大切なことなので、二度言わせていただきました。  
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。