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glaurungさん のコメント

 拝読しましたが、評論としてはいろいろと難があるようです。

1)「過激なリベラリスト」を批判しただけでは批評にはならない。
 「リベラリスト」に限らず、「過激な○○主義者」など良くないに決まっている。当たり前のことを当たり前に書いただけでは、「チラ裏」と揶揄されることとなる。例えば「穏当なリベラリスト」こそが問題なのだ、とあえて論ずるなら評論になる。(むろん無理に逆説を述べる必要もないが。)
 つまり、この評論には理論的な価値があるのか、という問題。

2)評論としての実効性に疑問がある。
 理論的な問題はともかく、実際問題として「過激なリベラリスト」は一定数存在し、その点は考慮しなければならないのかもしれない。(私には多数とは思えないのですが。)「放っておけばいい」というわけにはいかないという立場は理解できなくはない。
 しかしこの評論は誰に向かって、どういう効果を狙って書いているのか。戦略があるのかないのか。逆にオタク層の読者の反感を買っているのではないか。「挑発」という言葉を使う者もいるが、挑発した結果何を生むのか、狙いがなければなるまい。
 この文体でこの内容を書くことで、「過激なリベラリスト」を抑える効果が期待できると本気で思って書いたのか。ただ自分の言いたいことをぶちまけただけなのか。疑問に感じてしまう。

3)評論として十分な準備がなされて書かれているのか。
 自由と自由がバッティングするのはリベラリズムの前提だろう。その場合のルールは、法令の定めがあればそれに従い、そうでなければ私的自治にゆだねられるのが常識だ。(文中の「彼らだけにわかるルール」云々というのは、意味がわからない。)
 自分の選択について自分で責任を負うべきだというリベラリズムの考えは、そう簡単に否定できるものではない。絶対のルールだというつもりもないが、そんなに安易に片付けられない大問題のはずである。自由主義というものとどう取り組むのか、筆者の立場がよく見えず、議論の準備不足を感じる。
 レーティングについての下調べの欠如も、評論としてはいかがなものか。

 最後に。どうやら「一部の過激なオタク層」を批判することが大きな動機であって、子供への悪影響というのを(悪く言えば)ダシにしているだけに見える点が、共感できませんでした。
 具体的に子供を守るという観点が中心なら、レーティングの適切な活用を訴える方向性を切り捨てていいはずがありません。また、有害だから制限すべきなのか、それとも制限する方が子供の成長の面で問題なのか、という問題にも、もっと具体的に切り込む必要もあるはずです。
 上記のようなことには大して関心がないにも関わらず(あるならきちんと論じるべき)、一方で「リベラリスト」に対しては「お前たちは子供のことを考えていない」と攻撃するのは、傍から見ると滑稽です。まるで、言論界での「強い立ち位置」を競い合うゲームをしているようです。
No.81
144ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 参った……。  ブログ記事二回目にして、「女災」と直接関係ないテーマになってしまいました。  今回は劇場版『まどか☆マギカ』について。  というよりは、それにまつわる騒動についてですね。  くどくど書くのも面倒なのですが、掻い摘んで説明すると、要はマニア向けの深夜アニメが劇場版となった、それを見た子供がショックを受けていた、という目撃談がツイートされ、それに過剰反応する者が大勢出た、というお話です。 『魔法少女まどか☆マギカ』は見ればわかるように可愛らしいタッチのキャラクターデザインですが、しかしその内容は非常に凄惨なもの。可愛いキャラでシリアスなことをやるというある意味「不意打ち」が、マニア層に衝撃を与え、話題作となったわけです。この「不意打ち」という戦略が一種、確信犯的に採られたことについては恐らく、マニア間でもコンセンサスとして認められているのではないかと思います。そうした作品が、深夜放映している分には問題はなかったものの、劇場版となったがために問題が露呈したというハナシです。  近年の『ひぐらし』などは問題視されたとは言え、一応、その時の受け手は本来のターゲットである中高生でした。しかし今回は「子供が知らずに見てしまった」、或いはそうなる可能性が充分に想定できる、というものです。例えば『セーラームーン』のエロ同人誌が普通の書店に並べられるとか、古くはいわゆるオタク系の美少女エロ漫画を子供が間違って買ってしまったとか、「萌え系」と呼ばれる文化はこの種の問題をずっとはらみ続けて、しかしそれをしつこくしつこく 華麗にスルー し続けてきたわけです。  普通に考えて、こんなものは子供に見せるべきではないし、そうしたものを劇場公開する以上、作り手は多少なりとも考えておくべきだったでしょう。 『ゴジラ』が『とっとこハム太郎』と併映した時、映画館には「『ゴジラ』は怖い映画なので子供に見せる時は注意して云々」といった注意書きが貼られました。『ゴジラ』についてはむしろ「そんなに怖いかなあ?」というのがぼくの個人的な印象なのですが、とは言え、対策としては非常に行き届いていて好ましいものであったと思います。  しかしこうしたことにガマンがならない層がおいでのようで、ツイッター上でも 論争が起きました 。  一部の人たちは今回の騒動に拒否感を示し、「そんな子供などいなかったに決まっている」といった根拠のない願望を押し通したり、「下調べをせずに見に来るヤツが悪い(見に来るヤツがいるはずがない)」などと詰ってみたり、「子供にはこの話を理解するだけの力がある」という意味のない反論(別にお話が難解だ、ということは問題にされていないのですが)をしてみたり、「不意打ちのどこが悪い」といった居直りをしたりで、本件を「スルー」しようとしていました。  そうした人たち(問題なし派)が本件を問題視する人を「規制派」と呼んだり、或いはまとめの「みんなのおすすめ商品」に『有害コミック撲滅!――アメリカを変えた50年代「悪書」狩り』が配置されたりしているのを見ると、彼らの本心が仄見えてきます。  つまり、彼ら彼女らは『まどマギ』によって傷つけられた幼い少女、或いはそれに反応する人々に「コミック規制派」であったり「オタク差別者」であったりの影を見ているのでしょう。  この映画を規制せよ、上映中止にせよなどと言っている者など、少なくとも上のまとめを見る限りは ただの一人もいない のに。また、その少女が実在かどうかについても、少なくとも「証拠もなくいたのだと決めつける」意見などは、ぼくの記憶する限りなかったように思います。むろん、ぼくの知らない場でそうしたやり取りがあった可能性は否定しませんが、上のまとめを見る限りでは、過剰でヒステリックなのは問題なし派の方だと言って間違いがないでしょう。  上にも書いたように彼らは 「下調べもしないヤツが悪い」 と言い張るのですが、ポスターを一見して、ましてや小さな子供やその親御さんであれば本作をまず、『プリキュア』などの延長線で考えるでしょう。  それが入ってみるや美少女キャラクターの首が飛ぶとか、美少女キャラクターが「私、ゾンビになっちゃったから好きな男の子とはつきあえない」と絶叫するとか、そんなものを観せられたらどんな気分になるか。  ダメだよ、こんなの絶対におかしいよ!  非道いよ、こんなのあんまりだよ!  上に書いたような「注意書き」の一つもあれば間違って観る者も減り、また嫌な言い方ではあるけれども作り手や上映館の責任も回避でき、いいこと尽くめではないかと思うのですが、彼らはそれがどうしても許せないようです。まとめ人の有村悠師匠自身、「 ゾーニングまかりならん論 」の主なのですが、こうした規制に反対し、表現の自由を標榜する「リベラリスト」たちは、どうしたわけかそうした「住み分け」が絶対に許すことのできない蛮行だと、どういうわけか考えている比率が大変に高いようです。  コミック規制の問題でも、話していくと彼らは非常に頻繁に「 子供にエロ漫画を見せることの何が悪い 、ゾーニングは認めぬ」といった主張をします。  彼ら彼女らにとっては子供の心理よりも、遙かに「表現の自由」が大事なのでしょう。その「表現の自由」とは、上にも見た通り、他人の意見から耳を塞いだところでのみ、成立するものなのですが。  まあ、他人様のガキの心の痛みなんざ、どうでもいいですからなあ。  ねえ、この世界って守る価値あるの? 私何のために戦ってたの? 教えてよ。今すぐあんたが教えてよ?  ちょっと余談になりますが、この種の議論の時に出てくる「ガキもこうしたトラウマを受けて成長するのだ」論を一種の「シゴキに耐えてこそ男は成長する」と言った類の精神論のバリアントだ、として批判している人がおり、それは大変面白いと感じました。なるほど、彼らリベラリストはそうしたマチズモを 狂ったように 批判してきたにもかかわらず、自分にとって都合のいい時ばかりマッチョなことを平然と言い出すというのは、当たっているように思います。  ふふふ……ふふふ! うっふふふ! 本当だ! その気になれば痛みなんて! あはは、あはは! 簡単に消しちゃえるんだ!!  上の「ゾーニングまかりならん論」を見てもわかる通り、大変不思議なことですが、「リベラリスト」を持って任じる方々はどういうわけか、他人の権利については一切考えないという性向を持っている場合が、大変に多い。 後藤和智師匠 しかり、 高橋直樹師匠 しかり。  そしてまた 公立の図書館で小学生にでもBL本が借りられる状態になっていたことが問題視された 時、「BL本排除はホモ差別だ!」と絶叫したフェミニストしかり、任意の表現に「ミソジニーだ」とのレッテルを貼ることに躍起になるフェミニストしかりです( やっとちょっとだけ絡めることができました )。  残念なことですが、オタク界にもそうしたご立派なリベラリストが増えてきた。てか、意見を言える立場にいるのって、そうした人たちばかりのように、ぼくには思われます。何しろ、そうした学閥だの何だのに与さないことには、偉くなれませんからなあ。  ぼくと契約して、リベラリストになってよ!!  自由なんてそもそも他人のそれとバッティングすることが多いのは自明の理であり、ぼくたちの自由よりも「リベラリズム」という正義の心を持った者の自由こそが優先されるのは、彼らにしてみれば当たり前のことなのでしょう(リベラリスト同士の同士討ちの場合はどうなるのか知りませんが、まあグリーフシードを多く得た者の方が強いとか何とか、恐らく 彼らだけにわかる ルールがいろいろとあるのでしょう)。  この国では成長途中の文化のことをサブカルチャーって呼ぶんだろ? だったら、やがてファシストになる君たちのことはサブカルファシストと呼ぶべきだよね。  最後にもう一つ、テーマを「女災」と絡めて結論めいたことを書いておきましょう。  結局、A君とB君の「自由」がバッティングするのが自明である以上、「自由主義」という名の美辞麗句の中には既に「尊重されるべき自由/尊重されない自由」という価値判断が内包されていると考えざるを得ないわけです。それは「差別」という言葉の中に、実は既に差別性が内包されていることが、「ミソジニー」という言葉で明らかになったのと、全く同じに。
兵頭新児の女災対策的随想
「女災」とは「女性災害」の略。

男性と女性のジェンダーバイアスを原因とする、男性が女性から被る諸々の被害をこう表現します。



このブログでは女性災害に対する防災対策的論評を行っていきたいと思います。